休む

今日は太郎丸は保育園をお休みした。疲れたみたいだったのだ。「休む」といっても、子供だから(いや大人でも)必ず「何か」はやっているわけなんだけど。何もしていない時間なんて、探したってないのだから。

それで今日は休むとか休養ってなんだろうということを考えていた。

あるいは「休んでいない」ってどういうことなんだろうか。

「じっとして動かないこと」、とかそう思われがちだが、そんなことではないな。

ただ寝ていれば疲れが抜けるかというとそうではないのだから。人間寝すぎても疲れる。動くなと言われれば動きたくなるし、働きたいという意欲だって本当は備わっている。

結論を言うと、「要求にそって行動する」ということではじめて人間は疲れが抜けるのだ。

自らに由るとかいて自由というもので、本来の自由とは規則に対する放逸ではない。

自分で感じ、その感じたことを出発点として、考え、自分の責任で決断し、行動していくことだ。

だから集団行動の中にあっても、自由は立派に成立する。ただそれは大人だからこそ発揮できる自律性であって、幼児の集団教育・保育となると、どうしたって画一的な行動に不自由する面は否めない。

そういうことで、まあ今日は休養になったのではないかと思う。たぶん・・。本人に聞いたわけではないけどね。

大人に対する整体指導は自律性の発現がカギだ。健康生活を思えば、オンとかオフとか、自分の人生を切り売りするような感覚からは、脱するべきだ。

ポカンとするとは自分が自分に帰ることである。取り立てて、「休養」が要るような生き方なんてもったいない。

人間は眠るために生きているのではないのだから。

休養と、活動は別々のことでない。いつも一つになって動いている。健とはそういうものだと思うのだ。

パラダイムシフト

病気を全うする

すべて調和というのは、一つ違っても調和ではないのです。そういうことは体が知っている。

私は、初めは病気を治すつもりで治療ということをやっておりました。そのうちに、人間が病気になるということは全く無駄なことだろうか、と思うようになりました。そう思って観ると、病気をする人は、病気しないといけない状態になっている。そして病気して経過すると、今までの疲れが抜ける。眠っている力が出てくる。ひょっとしたら、病気はそういう居眠りしている力を喚び起すためになるのではないだろうか。

…前屈みの人は、ある状態以上に屈んでくると風邪を引く。それを通ると腰が伸びてシャンとしてくる。そこで、風邪や下痢は体を調整するための働きではないか、それなら人間が病気になるということは、無意味なことではないと思いました。とすれば病気を治すよりは、病気の経過を全うした方がいい。そう思って観ていますと、大部分の人は病気のあと元気になります。けれども、その経過の中でちょっと気が乱れたり、不安な気があったり、臆病な気があったりすると、病気になって却って体が弱る。それは焦るからなのです。

病気を全うするということを考え出したのは、病気を自分の体力で経過した人が、その後みんな元気になるということをみたからです。顔色を見てもスーッと透き通って、濁りがなくなっているのです。

…それを経過の途中で止めたり、抑えたりした人は、病気をやっていよいよ弱くなってくるし、病気をやったあとも濁った顔になっている。そしてまた病気をするのです。本当は病気をやっているうちは蒼くとも、経過し終えたならばスッキリと透き通って、綺麗になってこなくてはならない。働いても疲れない体になっていなくてはならない。それがそうならないというのは、経過を全うさせなかったからです。(野口晴哉著『愉気法 1』全生社 pp.36-38)

以前は慢性病・難病系統の方が一定の割合で来られていたが、最近の方をみていると姿勢の問題や肩・背中・腰周辺の痛みや違和感などを訴えられる方が多い。いわゆる「整体院」の領分という感じを受ける。ホームページの内容が少しずつ変わっているのでその影響だろうか。

身体が硬張って姿勢が偏っているような方は、いわゆる風邪など何年も引いていないということがめずらしくない。手を当てていても、はじめの内は気が通るまで何十分もかかる。ところが数回通ううちに下痢をしたり、熱を出すようになると、そこを境に姿勢が変わってくる。まるで熱で身体のこりが解けていくように、正しい位置に戻っていく。

風邪に限らず病気というのは身体の平衡を保つための調整役を担っている。その病気を「わるいもの」として駆逐していけば、身体は知らないうちに鈍り、老朽化してくる。

何年か前に、すい臓がんの治療中の人を観たら操法の数日後に肺炎を起こして入院してしまった。愉気によって潜在体力が煥発したものと思ったが、その方はそれっきり来なくなってしまったので予後についてはわからない。

西洋医療とは身体の見方、持って行き方、理想形がほぼ真逆なのだ。我々と共有できない部分がない訳ではないが、整体によって丈夫な身体を保つ、育てると言った場合には、どこかでパラダイムシフトを要求される。

うちの整体に関して言えば、30、40代で始められる方が圧倒的に多い。このぐらいが考え方の転換期としてちょうどよいのかも知れない。物事には「その人の、その時」というのがあるのは間違いないが、整体をやるには早いに越したことはない。これはまぎれもない事実なのだ。

ただ歳をとっても頭の柔軟な人は、腰もやわらかい。逆に整体の必要な人ほど身体も考え方も固く、新たな価値観が受け入れにくい。こんな時ほど指導者の力が問われるわけだが、論より証拠で自ら元気な姿を見せることが何よりだろう。

手を着けない

「整体」というのは、一つの完成形だ。「整っている」ということがどういう状態を指すのか、個人で研鑚すべき処である。

道元禅師の有名な言葉に「仏道をならふというふは、自己をならふなり」というのがある。「自分という活動体が一体どうなっているのか」がわかれば、この世のあらゆる問題事は「今、この場」で決着がつくようになっている。

これを「健康」という観点から言えば「腰の調子が悪い」、「病気がなかなか治らない」という所が自己探求の入り口になるのだが、「治そう治そう・・」といじくりまわしている間は既に治っているはたらきが見えないのだ。

言ってみれば一番高尚な方法は、手を着けないということになる。ところがそう聞くと途端に「手を着けない」という着手がはじまる。

自然経過というのは、こちらから何かをして「経過をさせる」訳ではない。何もせずに経過させられるように、心胆を練っていく。人間にはそれができるようになるための訓練が要るのだ。

本来自然であるはずの人間が、活元運動を修るのはそのためである。自然を信じきれないうちはつい手を着けたくなるけれども、その疑念や、心配する心の働きにもやはり自然の相がある。

健康とはこれから工夫を費やして作るものではない。着眼を正せば、いつでもそこにあらわれる。理性の完全休止、ポカンとすることを解くのはそのためなのだ。その着眼、着手と離れれば、既に解脱の境となる。

斯様に自然というのは、はじめから、誰にも等しく与えられている。この世には、これからなるようなものは一つもない。〔今〕に信が及べば、それでいい。信じようと信じまいと、人間は本来無事なのである。

庭仕事

お隣さんの桜や紅葉の枝がついにうちの屋根をおびやかすようになった。台風の季節を前に何とかしておきたかったので、今日は早朝から鋸を担いで屋根に登ることにした。ありがたいことに空は梅雨を感じさせない快晴である。

順調に屋根の端から端へと伐採していったところ、ふしぎと全く疲れない。昨年から筋トレをやめた効果を如実に実感できた。簡単に言うと全身の伸び縮みのバランスがよくなる。全身くまなく使える自然体になることは、身体をこわさないための要訣だと思った。

最近は水泳の競技者なども無闇な筋トレはしなくなっているそうだ。腹筋運動などをやると手の振りがおそくなるというデータもあるらしい。そういう風に何かに備えて訓練をするよりも、自分の動きたいように素直に動く方が心地いいし、結果的に丈夫にもなることがようやくわかってきた。

時計をみたら都合1時間半ばかり屋根の上で枝を落としていた。窓のそばの枝を落としたことで2階の廊下が明るくなったのは思いがけない副産物だ。数日続いていた湿気のだるさも消えたし、いいことづくめである。

最後に隣の奥さんに終わりましたと挨拶したら、お礼に自家製の梅酒を沢山くださった。休みの前の日しかお酒が飲めないのでなかなか減らなそうだけど、ミツコと少しずつただくことにしよう。こんなお心づかい、うれしいね。

梅酒

梅雨時のごはん

いよいよ梅雨らしくなってきた。湿度が増すと仕事のあとの疲労感が変わってくるのでわかる。湿気で疲労するのは呼吸器なのだけど、そうするとなぜか食欲が減る。「減る」というと元気がないみたいだけども、実際は消化器を休めてバランスを取っているのだからこれでいいのだ。

よく見受けられるのは、梅雨に入ると「お米」を食べなくなることだ。外が湿気だらけなのだから、口から入るものも「べたっ」としたものは美味しくない。このタイミングでおかゆなど出されたら、うーん・・となってしまう。

今年に入ってから私生活の変化で「子供の立場」を考えるようになったわけだけど、この時季は当然子供だって食べる量は減る。食べないから具合が悪いのかと心配されるお母さんもいらっしゃるけど、そのままにしておいて全然ダイジョウブだ。

子供は大人よりもずっと感覚が純粋なのだから。毎日毎日、同じ分量を食べる、同じ時間眠る、というのが規則正しい生活、と思われやすいが、本来は身体の疲労度合や要求に沿って生活することが規則正しいのだ。

ともあれ湿気で疲れているような時は、栄養価の高いものを摂るよりは減食の方がラクになりやすい。実際にはそれも一人ひとり観なければわからないのだけど、梅雨が苦手な人はちょっと試してみると良いかもしれない。

紫陽花

気がついたら庭のアジサイが八分咲き位になっていました。

3あじさい

あじさい

下のは去年植えたヤマアジサイ。

あじさい2

いーね♪(・▽・)

愉気の領分

以前書いた「内外一如」のつづき。

…けれども、愉気をする場合に、そういう外から見えない心の内側のことを頭において手を当てるのと、見える処だけに手を当てて治そうとするのでは大分違ってくる。例えば、相手のいっている言葉じりだけをつかまえて議論したら、その議論に勝ったところで相手は負けていない。くだらないことで上げ足をとられたと思っているだけです。そういうように、見えるところだけで話し合うには、人間にはもっと奥があるんです。だから、その奥にある人間に手を当てることによって、こちらの奥にあるものと交流するのか、それともこちらの手と相手の体とが接触してそこで感応するのか、この二つは似ておりますが違うのでありまして、体に手を当てるだけなら、皮膚の傷は治っても心の傷は治らないのです。人間の体の毀れている中には物理的な打身で毀れているものがたくさんありますけれど、心の打身で毀れているということの方がもっと多いのでありまして、体に手を当てることが愉気だと思っている人は、皮膚の奥になると感じないから治せないのです。

“これは木綿だろうか。御召だろうか、銘仙だろうか”なんて思って触ると、これは銘仙だ、御召だということはすぐに分かるが、その体の中は決して分からない。そうでしょ。自分の注意の集まる処だけしか分からない。それが体の中や心を感じようと思って触ると、体の中や心も感じられるのです。

ただその人の注意や、考え方、感じ方、気の集まり方で、その人の感じ方が違ってくる。だから愉気しても、気なんか感じないという人は、着物しか触らない、「あらウールだわ」と、ウールに愉気しているだけなのです。

ですから、人間に心のあることを知り、更に奥にある生命の働きというものにぶつかるつもりで愉気をして、気が集まると、そういう働きを直接感じるようになるのです。だから自分の中身が拓かれていくと、それに応じて触って分かることが違ってくる。違ってくるとその働きかける場面も違ってくるのです。(野口晴哉著 『愉気法1』 全生社 pp.103-105)

野口整体を受ける方にとっては、やっぱり愉気について関心が集まりやすいみたいだ。指導を受けている感覚を頼りに、自分の家族に手当てをされている方もいる。何故かはわからないけれども、手を当てたり当ててもらうことには本能的な快感が伴う。

古来より「手当て」というものには不思議な解釈がついてまわってきた。「薬も飲まないで、手を当てるだけで何故治るのだろうか」と思われることが多いのだが、実際にやってみるといろいろなことがわかる。まるっと「野口整体」という生き方にシフトするには何年か浸る必要があるが、やがては手を当てることが治療の原型であって、投薬などは疑似治療だと思うようになってくるものだ。

薬というのは論理性の結晶だが、手当てなどは近年になって少しその効能に科学のメスが入ったくらいで全体としては判らないことの方が多い。愉気というものはそもそもが、訳のわからないままやっているくらいの方がいいのだ。アマチュアの場合は特にそうだと思う。鰯の頭も信心からで、お守りでも、お祈りでも、念仏でも、訳がわからないから「効く」のだ。ところがプロになる過程でだんだん訳がわかってくる。この辺りがむずかしいところで、一時的に愉気の力が失われやすい。そこでもう一つやり込んでいくと、もう一度その「漠」とした何かに突き当たる。ここではじめて盲信が本覚に変わる。

そもそもが「病症」や「痛み」などは人間の奥にある生命活動が噴出したものである。表層の痛いとか痒いとかに振り回されている間は、延々と後手を踏むはめになる。できることなら頭が痛くなってから頭を抑えるような間の抜けたことはしたくない。いろいろな身体現象の奥には絶え間なく動きつづける「何か」がある。そしてその「何か」には絶対的な秩序が備わってるのだ。その「何か」がお互いにぶつかり合う様なつもりで触れていくと、純粋な感応が起こる。

不思議なことは何もない。母親が子供を抱いてあやすのと同質のものだ。体の異常を治しているわけではないし、心を癒そうなどとも思わない。ただ抱いている。何万年もそうしてきたのだから、何より事実が証明している。本来は技術とも呼べないようなものだし、当然名前も付いてない。だけれども、命を繋いできた「何か」があるのことだけは間違いない。この力を一応は愉気と呼ぶことになっている。

最初からあるものだけども、それに気づくために修行はいる。それでも修行してこれからそうなるのではない。着眼点が変われば、自分の全部が相手の或る処に集まる。自分自身をよく見てみたって、結局は何が動いているのかわからない。そのわからないもの同士がピタッと当たるようにする。今はそういう感覚で行くのが一番無理がないなと思うようになった。そう言いつつもまだまだ愉気の研鑚の途上である。これというものに執らわれないことが、進歩の秘訣だ。

治ると治すの違い

治ると治すの違い

だから治すということは病気を治すのではなくて、病気の経過を邪魔しないように、スムーズに経過できるように、体の要処要処の異常を調整し、体を整えて経過を待つというのが順序です。

最近の病気に対する考え方は、病気の恐いことだけ考えて、病気でさえあれば何でも治してしまわなくてはならない、しかも早く治してしまわなければならないと考えられ、人間が生きて行く上での体全体の動き、或は体の自然というものを無視している。仕事のために早く治す、何々をするために急いで下痢を止めるというようなことばかりやっているので、体の自然のバランスというものがだんだん失われ、風邪をスムーズに経過し難い人が多くなってきました。しかし愉気法をやって何回か風邪を経過すると、その都度に非常に早く経過するようになり、簡単な変化で風邪を引き、風邪を引くと同時に、或る場所を愉気してもらいたい要求が出てきて、そこを愉気すると皆早く抜ける。だんだんに風邪の宵越しをしなくなるようになっていくわけですが、愉気法以外の方法では、風邪を治した治したとい言う度に、だんだん風邪の経過に鈍くなり、風邪を引いた後も疲れが抜けないのです。愉気法をやると疲れが抜けて体がサッパリし、方々の弾力性が恢復するのに、それが起こってこない。だから同じ経過をしたといっても、自然に治ったというのと、治したというのではかなり違うようです。従って早く治せばいいという考えだけで病気に処することは、別の考え方からいえば、寿命を削る行為ともいえると思うのです。

早く治すというのがよいのではない。遅く治るというのがよいのでもない。その体にとって自然の経過を通ることが望ましい、できれば、早く経過できるような敏感な体の状態を保つことが望ましいのであって、体の弾力性というものから人間の体を考えていきますと、風邪は弾力性を恢復させる機会になります。不意に偶然に重い病気になるというようなのは、体が鈍って弾力性を欠いた結果に他ならない。体を丁寧に見ていると、風邪は決して恐くないのです。(野口晴哉著 『風邪の効用』 ちくま文庫 pp.40-42)

手を当てて(愉気によって)子供の風邪が治ったというとやはり巷ではおどろかれる。一般の方の価値観(常識)というのは、定期的に自分の立ち位置の特殊性を教えてくれるものだ。自分の場合は28歳から整体をやり始めてちょうど十年だが、以来、目薬を差したことがあったが(それも半強制的に)、その他は薬を使ったためしがない。こんなものは自慢でもなければ誇るような話でもない。ただただ天然自然の妙に敬服するばかりである。

しかしながら、愉気(手当て)で治ったということになると、今度は「薬」から「手」の方に信が移りやすい。いわゆる超能力崇拝とか聖人信仰の軽度のものだ。ところが手を当てて治るようなものは、実は手を当てなくても治るのである。それどころか、生きているものはみんな治ってしまう。ただし手の施し方によって、治り方がちがう。プロセス・イコール、結果なのだ。

もとより自然というのは至高のものである。ところが「人間に於ける自然とは何か」と考えると、ただ与えられたままの自然では力にならない。人為の中に無為の自然が現れるように訓練するのである。端的に言えばそれは活元運動だが、日常の中でいつでもどこでも活元運動が発動している人が愉気をする資格を有する人だ。実際にそこまではむずかしいので、手を当てる時くらいは自然に対する信頼の心が現れるようにしたい。それには体験を通じて、自らの自然生命に目覚める以外にない。

もとより身体上の現象にこれから治すようなものは一つもないのだ。痛いといった時にはもう治り始めている。病気と治癒は一つの現象の2つの側面なのである。これが解らないうちは本当の愉気はできない。それでもできないなりにやっていると、或る時にぱっと愉気になっていることがある。「やっている」ものが消えると、人間的な作為や造作がなくなる。その時すべてが上手くいく。雑念で見えなくなっていた秩序がふいに現れるのだ。これを古人は「妄息めば、寂生ず(もうやめば、じゃくしょうず)」と示された。治そうというものが消えたとき、すでに治っているものが出てくる。生命とは須らく任運自在の境に浮かんでいるものなのだ。

子供の発熱の処置

…そういう教育は、繰り返し行われると、潜在意識の中に滲み込んでしまって、滲み込むとすぐ体を支配するのです。例えば、“四十度の熱が出たらもう駄目だ”などと思うと、すぐ元気がなくなり食欲もなくなる。けれども整体に来ている人達には、熱が出て食欲がなくなるなどという人は極めて少ない。「三十八度しか出ない」「まだ九度なんです」ときまり悪そうに言う。「なんだ、あなたの体力はそんなものですか」と言われそうで、四十度を越さないと幅が効かない。事実、四十度を越しますと、親から貰った梅毒のようなものでもなくなってしまうのです。だから子供の病気に高熱が伴ない易いということは、一面、親から遺伝してきたものに対する消毒の意味があると思うのです。だから私は、子供が高い熱を出すと、“これで安心だ”と思うのです。それがなくて大人になってから早発性痴呆になったり、脱疽になったりしたのではたまらない。ところが近頃では、熱のでることまで予防するようになってきました。ひょっとすると、もう二、三十年の内には、二十歳位になって突然気が狂うような早発性痴呆の人達が多くなるのではないか、その他にも、まだいろいろ抱えている病気の消毒が済まないまま成人していくのではないかと、その点では大変怖いと思うのです。(野口晴哉著 『整体法の基礎』 全生社 pp.22-23)

今日は“まくら”の引用文が重厚になってしまった。太郎丸の風邪の経過記事が途中になっていたので、まとめることにした。

結果から言えば発熱はおとといがピークで39.5℃まで上がった。40℃の大台も予期したが、今回はそこまで至らず、しかもデジタル体温計だったので実際はもう少し低めだったかもしれない。

野口先生の時代には「発熱は怖くない、活用すべし」と言ったら方々から非難を受けたそうな。ところが現在は西洋医療でも熱は下げない方がいい(下げるなキケン)ということが、ほぼ明らかになっているみたいだ。ただこれまで発信し続けた「常識」の手前、明言できずにお茶を濁しているというのが実情ではないだろうか。

「真理」は絶対無二だが、「常識」というのは流動的で薄弱なものだ。だがそれと同時に常識は頑迷でもある。常識に抗して地動説を唱えたガリレオはそのために処罰された。常識が覆ってからも、彼が死んでからも刑は解かれず、罪を許されたのはなんと20世紀に入ってからである。権力というのは凄まじい。今だったら天動説が非常識ということになるのだろうが、本当は天も地もはじめから動いてなどいない。発熱に対する「解釈」も似たようなものだろう。熱はただ熱として出ているだけである。

何にせよ現代に至って、それだけ野口整体と一般常識との落差が減ったのは、やりやすい反面やりがいも減じた気がする。カウンター・カルチャーが徐々にサブ・カルチャーになり、メイン・カルチャーとなった時にはその存在意義も消えてしまう。これはこれで寂しい。

少し熱の処置のセオリーを書いておくと、整体では発熱のピークに差し掛かったところで後頭部に蒸しタオルを当てることがある。本来、体力充分であるはずの1歳児ならこんなことをする必要もないのだが、今回は緊張がゆるみきらないので少し熱刺戟を使うことにした。ここからリズムが順になって、経過が良好になったうようだ。

注意したいのは、「子供が熱を出したら後頭部を温める」と覚え込むと、いま実際に、目の前で活動している〔身体〕を見失う。いわゆる自然界には「同じことは二度起こらない」という一大法則がある。その一回性の出会いに対して適合する方法は、過去の知識の堆積から見つけることは不可能だ。

〔今〕を知りたければ、〔今〕から学ぶ意外にない。整体操法とは元来、即興力の連続で構成されているのだ。そのヒントは過去の事例の中にもあるが、過去の中には答えそのものはない。記憶の蔵を漁るのをやめて、いま目の前で燃えている命の色を観ることだ。さすれば今何をすべきかは自分の命で感じ、自分の身体でわかるように出来ている。これがわからないようでは、鈍っているのだ。

他人の自然に立ち入る前に、自分の自然を守ることだ。自分の自然が表出すると、「あちら」と「こちら」の垣根は消える。それは看病、整体操法における基本であると同時に、充分条件でもある。方法論は何処まで行っても方法であり、手段でしかない。手段の奥にある理合いを感じ、そこを出発点として感じ、考える頭が欲しい。そしてその頭が消えさえすれば、愉気は無量の光となる。

生理痛は頭を休めて寝ること

このブログ内でも何度も書いてきたが、女性の体調不良に関するスマホとパソコンの被害は軽視できないと思った。

生理痛や生理不順にはじまり、妊娠中のつわりや腰痛・腹痛などは、だいたい2日くらいパソコンを見ないだけで軽減できるものが大半である。

これは40年以上前の野口先生の文章にも見つかる話で、「キーパンチャーのような仕事は女性に向かない」といった内容が記されている。おそらく、指の使い方、それから目の負担などを総合的にみた結果であろう。

そうはいっても今時パソコンを使わない仕事を探す方が大変である。だからといって全く希望の持てないような話かというと、その気にさえなればある程度はコントロールできるものだ。

可能な方はパソコンを使用する時間帯をシフトするだけで、なかなか良好な結果が得られることがわかった。簡単に言えば寝入りばなに画面を観ない、というそれだけでもかなりいい。

どうしてもやめられない仕事なら仕方ないけれど(これも本気になればやめられるのだが)、個別にお話を訊いてみると用もないのに電車の中や夜中にネットサーフィンをしてる人は存外に多い。

試しにデジタルデトックスを実践していただくと、一週間で身体は相当変わる。一番は頭蓋骨の形と頭の働きだ。出どころの判らない余計な不安や怒りが消えていく。そうなると一気に自分の住む世界が静かになるのだ。

生理痛・生理不順や妊娠前後のトラブルで病院や治療院にかかるなら、ますその前に1週間の早寝と脱液晶画面を勧めたい。必ずや効果を感じられるはずである。