感性

この数ヶ月ほど、知らないうちに客観性に偏っていた。

「自分の目ん玉で観る」という感覚が薄まっていたのだが、異変に気付いて主観を意識するようにしたらまた少し「見える」ようになってきた。

感性、感情、身体感覚、etc・・・、「感じる」ということは生きることの出発点である。

そもそも「感じる」という原始感覚には間違いがない。食べ物の「おいしい、まずい」というようなことから、「どう動けばいいのか」、ひいては「どう生きればいいのか」まで感性は知っている。

客観性や合理性からは、功利的な生き方を考えられても、自分にとって楽しい生き方、心が充ちてくる人生の姿や形は判らない。

ここが開けてくることで、身体も精神も従来の弾力を取り戻す。

ここに至って、はじめて「乗り越える力」も出てくるのだ。

当然だが自分が理性に偏り過ぎていては、他人の感受性は開けない。

もっと感性が活潑にイキイキする方法を率先して行なっていくことだと思った。仕事自体が感性と感性の共振で成り立つものだ。主観を積極的に使っていくことで感受性は磨かれる。

観念論みたいだけど自分にとっては具体的な話である。不安定であっても、動きはじめれば健全だ。生きているとは、感じて動くことをいう。考えるのはいつもその後だ。この順番さえ間違えなければいい。