『引き裂かれた心と体』 A・ローエン

健康な人の自我は、身体と同一視されており、病的な人の自我は、体との確固たる同一視を持っていない。アレキサンダー・ローウェン著 『引き裂かれた心と体』 創元社

IMG_3030上記は少し堅めの学術的な文章の引用だが、いわゆる「うつ」や「がん」のような現代的な病の原因を、肉体から引き離された自我(理性)にあることを看破している。

ここでの「肉体」とは「感情を有する生きた身体」のことで、この肉体から意識が離れることは生活から感情体験が薄れていくことを意味しているのだ。

生命活動の根源はやはり感情エネルギーであるといって相違ないもので、感情が希薄になることは生活からだんだんと温度や勢いがなくなっていき身体も固く冷たくなっていきやすい(凝りや冷えの慢性化)。

整体指導の場ではもっぱら身心の深いリラックスを促して、「感情の気づき」を介助することが主眼である。著作の中ではヨガから着想を得たバイオエナジェティックス・セラピー(生体エネルギー療法)という一種の体操(?)が紹介されている。一方野口整体では、この感情の解放を助ける方法に相当するのが活元運動(自働運動・霊動法)にあたるだろう。

ごく個人的感想として、過去4,5年の読書遍歴の中ではこのA・ローウェンの著作は秀逸である。これほど身体疾患と感情抑圧とのつながりを臨床例と供に学術的に述べた本を知らない(知らないだけで他にもきっとあると思いますが)。

洋の東西などという区分はあくまで思想的概念でしかなく、「人間」というのはある面では万国共通なものである。したがってその人間を探求していくとやはり答えも一つに集約されるのだろう。

こうして見ると病むことも治ることも、本来は難しいことは一つもない。頭を休めて、身体の自然の動きの任せる、というそれだけでいいのだから。

ただ「工夫」に慣れ親しみ過ぎた人は、この何もしないで任せる、ということがやっぱり難しいようだ。本来の自然界からみたら本当に可笑しなことなのだけど、何もしないでいるということが何か手持ち無沙汰で不安に感じるらしい。

今までのものを全部手放せば一挙に救われるのだが、それが中々できないのもまた人情である。やっぱり「これまで作り上げてきた自分」を惜しむ気持ちがあるのかもしれない。まずは思い(を断ち)切って活元運動をやってみていただきたい。身を捨てたとき、一体どのように「浮かぶ」のか。ぜひ自己の身心をもって実証していただきたいところだ。

来談者中心療法を考える

去年の今頃はカール・ロジャーズを読んでいた。彼の「来談者中心療法」という手法に感心をもって、整体に反映できないものかと模索したのだった。現在に至ってどの程度仕事に活かされているかはちょっとわからないけど。

技術的なものは何でも勉強したてのホヤホヤでしっくり馴染んでいないもの、またそれが「技」として目に見えている間は使えていないことが多い。学んで、飲み込んで、消化して、すっかり忘れてしまった頃になって初めて身に付いたと言えるだろう。

さて、来談者中心療法とは何かというと基本的態度としては「無条件の肯定的関心」と「共感的理解」を説かれていて、一貫して相手を受容する融和的な姿勢を重視する。

なんでこれが治療になるのかというと、人は無条件に肯定、賛同されるとそれだけでにわかに力が抜けてゆるんでしまうからだ。全ての力は抵抗してくる対象物があってはじめて存在できるもので、相手が対立するほど強くなるが、受容されると消えてしまう。壁だと思って押したら暖簾だったというようニュアンスだろうか。

だからカウンセラーが自分を立てず、また相手の存在も素通りして、どこにも主体を置かないような態度に徹する時、お互いの世界が全一的に融けてしまう。

治療者やカウンセラーの力量というものは知識や肩書ではなく、最終的には良質のコミュニケーションを確立する能力だといって相違ない。これはもはや「人間性」という範疇のものであってテクニックではないだろう。

外からどんな技術を施してみても最終的に治る力は来談者(クライエント)の中にしか存在しない。そのクライエントの力があってはじめて治療者の力も使えるのであって、よくよくそこを考えてみるとどちらの力とも言い難いのだ。

結局のところ他人がいくら気張っても、当人が治る時にならないと治らない。

治る時が来るまでは「ざる」なのだ。どんなに有益なものを目にし、耳にしても、みんな本人の身体を通過してしまう。

逆に言えば、治る時が来たらあらゆる力を自分のものにして治ってしまう。

そう考えると余人ができることは、「その時の波」を乱さないように何もしないで「待つ」こと以外になくなってしまう。東洋思想でいう所の「無為」というものはこれをよく言い現したものだと思う。

ヒーラー、治療者、指導者など、他者をリードする立場にある人は、「自分は相手に一体何ができるのか?」ということを常々考えつづけるものだ。「治療」ということは「何かする」ということと、「何もしない」ということの間にある。

ここでふと思い出して、野口晴哉の『治療の書』を開いたら次の一節が目に止まった。

我治めて治療あり 我慎しみて治療あり。
我 我無くしてのみ治療あり。
治療といへること 我が行うに非ず。人に施すことに非ず 治すことにも非ざる也。
たゞ我 我無くして靖らかなる為也。宇宙の靖らかなる為也。(全生社 p.131)

自分の整体探求もだいぶ遠くまで来たと思ったら、依然としてお釈迦様の掌の上だったという話だった。自らを修めて、他を治める。一体「何」が「何」をしているのかわからない。「治る、治らない」とは如何なることなのか。ここ辺りの問いが整体指導の急所だと思う。

呼吸が鍵

最近は「どうすれば もっとやわらかい 呼吸ができるのか」を念頭において身体をみていた。息をしていない人はいないけれども、その質においては個人個人で相当な差がある。

世の中に呼吸法の数は相当あるが、実生活でいったい何に役立つかと言えばそれはコミュニケーション能力だろう。

緊張で息が詰まっているとなぜか対人関係も打ち解けにくい。また間違った荒い呼吸法などをやり続ければ身心を頑迷にする。この「自分の認識にのぼらない筋緊張」が人生上ではあらゆる影を落とす。整体の対象となるのは、この無自覚な筋緊張なのだ。

上記の原因には脳内のミラーニューロンというシステムも深く関与しているのではないかと思う。簡単に言うとミラー(鏡)的作用でこちらの身体状況が相手に映るということだ。

整体はいろいろな方のさまざまな難題に応える仕事という反面、実際相手にしているのは自分の身体だけとも言える。自分のことを知って、自分の身体だけを専一に開拓して磨いていけばそれでいいのではないだろうか。

今のところ自分の身体も呼吸もまだまだそんなに良いとは思えない。身体のゆるみがさらに深まっていけば、呼吸はもっとやわらかく良質なものになると思っている。

対人関係においてもその他の問題事に直面した時でも、行き(息)詰ったと思ったらまずは自分が息を吐いてしまうといい。吐くと大なり小なり緊張がゆるむので、それがこう着状態を脱する鍵になる。深くやわらかい息は人生のあらゆる難題を解くマスターキーなのだ。

身体がユルむと・・・

整体に限ったことではなく、現代型ボディワークは「いかにユルむか」という方向でほぼ一致している。実際のところこれさえ出来れば身体上のトラブルはすべて解決なのだ。

ひと口に「ゆるむ、ゆるむ・・」といってもこれが人によっては容易ではない。意外なことにユルむための体操やストレッチ、ヨガなどで筋を傷めたりケガをする方もいるので、無意識的に硬直した体を意識的に(頑張って)ゆるめようとしても中々そうならないことがわかるのだ。

そもそもなぜ身体が凝固するのかと言えば、日常の中で怒ったり、悲しんだり、悔しかったり、という突発的な情動を抑え込んだことに起因する。

情動に従がって、泣いたり笑ったりしてしまえば、その感情は身体的動作のためのエネルギーとなって解消するが、出しそこなった感情は「コリ」という形になって居座りつづける(これを個人的に「感情エネルギー保存の法則」と呼んでいる)。

一般的には出しそこなった感情エネルギーはしばらくすると「消えた」と思われているけれども、本当はそんなことはなくて、何日も、何ヶ月も、時に何年間でもそれは身体の中に居つづける。

居つづけるだけでなく、身心両面に絶えず作用している。顕在意識上にはのぼらない(そういう感情「感」はない)けれども、「何故かやる気が出ない」とか「何となく楽しくない」とか、「身体的に疲れやすくなる」とか、全般に活力を奪う方向へ作用する。「うつ」などがその代表格だが、人生の長いスパンで見ればそうとう自分をロスさせるものなのだ。

ではどうすれば消えるのか、というとまず最初に「気づく」ということから始まる。というか気づけばもうそれで消えてしまうのだけど。それには「思考」を鎮めることが必須であり、また感情は主に他者との間で確認されることが多い。だから静かな環境で人と「対話する」ということが実は大変有効だし、カウンセリングという仕事はこの性質に依拠している。

その他は、とにかく生理的な「快」を追及することも大切だ。気の済むように、気の向くように、気のままに行動していくことが良い。こう動けば気持ちがいいとか、こうすれば気分がいいということを率先して行っていく。そういう時には身体はするするとユルんでいくものだ。

寝相というのが象徴的だが「無意識」は今どう動けばいいのかを知っている。だから本来はむずかしいことはないのだけど、好きなように動けばいいといわれるとこれが中々やりずらかったりするのだ。

「活元運動をやりましょう」といっても得体が知れない面もあって、すんなりとは「入り」にくい。だからとにかく対話は大切だ。相手と「良質のつながり」を形成したうえで、こちらが先にユルんでしまうと後がラクなのだが。愉気の本質もこの辺りにあるのだと思う。

とにかくどんな問題事に直面しても取り組むのは「自分の身体」、コレだけでいい。ゆるむかゆるまないか、それは絶えざる自身の緊張に気づくか気づかないか、という話で全感覚を内側に向けることが全てだ。感受性を高度にすることによってのみ人生の可能性は拓かれる。

兎に角やってみるとわかる。身体は何もしなければ何も始まらないけれども、積極的に開拓していこうと思えばそれだけで一生楽しめる。この楽しみに気づいた人は幸せだと思うのだ。整体的偏見かもしれないけど。

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胸骨意識の開発

もう5、6年前になるだろうか。あるボディワークのセミナーに参加した時に、身体のあちこち、それも普段は使わない部位を意識的に動かすワークをやってみた。

やってみたといっても、当時の身体感覚ではどこもかしこも動かなかったし、そもそもその値打ちも解らなかった。つまらない講習に出てしまったという程度の感想しか持てず、全くもって不明であった。

それから年月を経て現在、改めて身体各部を精妙に動かすことに重要性とおもしろ味を認識しはじめた次第である。

人間というのは感覚の生き物だ。身体的な訓練次第で無限の可能性をひらくことができる、地球上で唯一の生き物ではないだろうか。

そんな人間に生まれながら、自らの「身体」を開拓しないのは本当にもったいない話だと思うのだ。

さて、前置きが長くなったけど、最近胸骨の可動性を意識しはじめた。

胸骨とは胸の真ん中にある板状の骨のことで、左右の肋骨をつないでいます。実際ここが動くとどうなるの、と聞かれるとずばり答えにくいのだけど骨の可動域は心理的な余裕を意味する。だから何処であっても軽視はできない。

何かものごとに行き詰っている時は必ず息が詰まっているし、それといっしょに横隔膜・骨盤・肋骨が固まっている。固いものは脆くこわれやすいものだ。

どうやれば胸骨が動くのかというと、「胸骨を動かそう」と思念しながらやわらかく、おおきく息をしてみるといい。あまり手ごたえのない話だけれど、呼吸と同時に胸の中心を上下に意識してみると、はじめてでも数ミリは動くものだ。あとは興味をもって続けていくと、だんだんと肋骨がゆるんで可動域が増す。

重ねていうけど、これができても日常的にどうという変化はないかもしれない。

ただ身体はどこか一ヵ所でもゆるんで可動域が広がると、そのゆるみは必ず全体に波及する。

どこでもいいから身体に興味をもって研究してみると、どこからでも自分の可能性を広げることは可能だ。

考えてみれば「自分の身体」というものは人間にとって最大の死角と言えるのかもしれない。灯台下暗しというのか、大抵は自分の身体の動かない所、感覚の未発達な部位に大きな可能性や人生の活路が潜んでいるのだ。

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筋トレについて

新しい方が整体に通い始めると、一定の割合で「筋トレの是非」について訊ねられる。

少し前までなら筋トレに関しては「やりたければどうぞ」というスタンスだったが、近頃は「迷っているのだったらやめた方がいい」という風に変わった。

一口に筋トレと言っても今や運動の種類も豊富で、本当は質とか量の問題も重要なのだ。それだけに一概に「良い」とか「悪い」とか答えにくいのも事実だ。

そもそも一般的な筋トレの目的は、体型をかっこよく整えたい、というのと腕っぷしに憧れてやる人が多いのではないだろうか。

体型に関しては外形を整えるという点では多少の利があるけど、それ以外(特に健康面)はあまり功徳は期待できない。

筋肉が太くなったり固くなったりすると、身体内の「流れ」とか全身心の「連絡性」に支障が出やすい。人がケガをしたり病気をしたりする要因は、ほとんどこの身体の連絡性の悪さだったりする。

そこで整体の仕事は渋滞した道路に交通整理員を立たせて、血液やリンパ、気の流れを回復させるようなものだとも言える。そのためには筋肉、骨、内臓など、あらゆる部位の「ゆるみ」が鍵なのだ。

何をもって「良い身体」、「健康体」と呼ぶかにも左右されるが、「整体」と「過剰筋力体」は両立できないというのが結論だと思っている。

斯く言う自分自身も整体歴11年の中で前半期の7~8年は筋トレをやっていた。それからだんだん力を入れないことの効用を体験的に学んで行った感がある。

趣味嗜好の問題と言えばそれまでだけど、年を重ねると必要に駆られて頑張らない方法、ラクして成果を出す方法を模索するのかもしれない。

だいたいスポーツや格闘技、心理学などコミニュケーションの世界でも全体的に身体の「ゆるみ」や「柔らかさ」が注目されている。筋トレをしなければ「柔らかい」かというとそうでもないのだが、どこかで固定的に踏ん張ればそれだけ「ゆるみ」や「自由性」は失われやすい。

ただし精神活動が身体に及ぼす影響も大きいので、同じトレーニングをしていても結果はかなり違う。そういう観点からも個人個人に合う合わないという諸問題は尽きない。

結局は自分自身で体験的に見極めたものが一番確かということになるだろうか。身体感覚が発達してくると、何が自分に適っているかが自ずからわかってくる。

筋トレの是非についても、整体を続けていけばやがては収まるところに収まるだろう。何が正しいかをいちいち人に訊ねなくて済むようになったらそれが何よりだろう。

「気」再入門

屋号が「せい氣院」なのに近頃「気」のことを全く気に掛けていなかった。

「気」というものは追いかけるとわからなくなるけど、間違いなくあることはある。

よく考えれば、健康の問題にしたって「病気」とか「元気」とかいうのだから、やはり人間の一生において「気」は無視できないものだ。

世の中には気が視覚的に見えるという人もいるし、見えないままに操れる人もいるらしい。自分の場合はそのどちらでもないし、仕事的にも特に必要性は感じない。

そんな風にやっていたら、また偶然「気」に取り組む気運に恵まれたので、改めて気を学ぶ意欲が沸いてきた。

やっぱりリラックスと呼吸が要だ。

今は気の研究が盛んだが、これからの30年は民間療法とボディワークの分野がますます面白くなるではないだろうか。

先は長いのでじっくりコツコツやって行こう。

もう世界は気の時代に入っているのだ。

たぶん。

横浜ベイクオーター

夕方から親子三人でベイクオーターに出かけた。

久しぶりにマックに入って限定メニューを食べたらすこぶる美味い。世の中(というかマックがか・・)進歩しているなぁと感じ入ってしまった。コーラとの相性がすばらしかった。

その後は自転車で臨港パークへ。

臨港パーク

何ということはないのだけど、絵に画いたような息抜きだった。明日も元気にいこう。

感情というエネルギーの流れ道

体が硬くなる、偏る、こういうことが万病の根源である。一般には「コリ」とか「歪み」という表現が目立つが、何かそういうものが「悪しき現象である」というにおいを整体的立場としてまず排除したい。

「万病」という言葉一つとっても、どうしても「病気にさえならなければ良い(=病気でないことが健康)」という気配が付いてまわる。しかし病気が健康のバランサーであることは、整体をやる方にとって最初に理解していただきたい関門だ。

病気は身体の偏りを正すための特効薬的な働きを示す。中でも発熱はもっとも身近な妙薬と考えて良い。

さて、しかしながらそういう病気の世話にならなければならない身心の在り様というのは、やはり好ましいことではない。最初の硬張りや偏りが「何によって起こるのか」を知ることが整体指導を受けるための第一歩だ。

ひとことに言えばそれは「感情」というエネルギーのなせるわざである。俗にいう「喜怒哀楽」というものが、その通り、感情の発露として身体が使われれば硬張りも偏りも生じない。つまり「泣く、笑う、」といった生理的な動きが理性によって抑圧されなければ、エネルギーは体運動に乗じてひとりでに流れて行って消えてしまう。

問題なのは、人間は社会的生き物であるために感情が発動してもその通りに行動できないことがままある、ということだ。一般社会では、表出しそこなった感情エネルギーは抑えていれば「消えた」と思われるが、生きた身体を観察する立場から言えば「出しそこなった感情」は身体のどこかに仕舞われたままなのだ。

しかも、その仕舞われた感情は時間とともに澱んだり、増幅したり、変性したりして当人の自我意識を絶えず刺戟(時に支配)して来るからそれだけ注意が要る。そうした感情エネルギーの鬱散現象が「病気」、或いは「怪我」と言われるものと思って相違ない。

整体指導ではその仕舞い込まれた感情の「発生した時点」を捉え、消失に向かってリード(誘導)したい。感情の鬱散には様々な方法があるが、怪我をしたり、物を壊したり、兎角破壊的方向に行きやすいのが問題だ。一方では慈善事業のような公的仕事や芸術活動等にも化けるので一概には悪くも言えないのだが、こんな風に体内に感情の不発弾がいくつもあるのが「人間」の実体だという風に私は思っている。

先に書いたような社会的有用性があるエネルギー活動ならば本人的にも問題がなければ放っておいて良いわけだが、自分の身心や外的社会との不適合につながるような鬱滞したエネルギーはやはり整体指導の対象となる。エネルギーの鬱散方法としてよくスポーツなどが使われるが、これも一長一短の感がある。現代的スポーツの多くは「ゲームに勝つこと」が優先されやすいので、必ずしも鬱散になるかというと、たまたま「そうなる」時もあるし、「ならない」時もあるからだ。逆に停滞した感情エネルギーがスポーツの場で「怪我」となって現れるケースが多いのも実状だ。

整体指導はまさしく、身体に沈潜した感情にピンポイントで触れるために存在する。それも「触れた、触れられた」という感触すら残さずに行うのが技術なので、「あそこに行っても何をやっているのかわからない」と思われたらそれはしめたもので、最上だと思う。

兎も角、過去に沈められた感情を浮かび上がらせ、流れ道を作ることさえできれば、もうそこからすべてが変わっていく。指導者の力と言えばそうだし、同様に当人の意志力も要する。心にも体にも平衡要求という力が絶えず働いていて、平たく言えば生命は常に治りたがっているのだ。治るために毀れている。毀れたのだから、もう同時に治って来ているのだと心得るべし。

こんなことを指導の場でも活元会でも、このブログでも、何度も何度も言ってきた事であるが、ここを共有できないと指導にならないのでいつも繰り返している。人間を動かしているのは理性ではなく感情であることが解ると、まず最初に日常における自身の心に対する態度が変わってくるのではないだろうか。整体は「本当に自分を大切にするとはどういうことか」を深く考える場でもある。

ジブリ

今日は夕方から親子三人で『紅の豚』のDVDを観ていた。ほんわりした時間だった。

今にして思うとジブリアニメは野口整体の体癖(≒体型)とキャラクターがよくマッチしている。手塚治虫もそうだけど、生きた人間をよく観ているんだなあと思う。乗り出して見入ってしまう。

主人公のポルコは8種、ジーナは1種、フィオは開型まじりの7種、カーチスは5種。中でもカーチスは典型的だ。

何種であろうと体癖的感性が自然に現れている人は好かれやすい。人間が小利口になると、個性が埋伏してしまうので接していてもつまらないのかもしれない。

それにしても子供といっしょに観る宮崎アニメはまったく味がちがう。作品全体に漂うやさしさが沁みた。TUTAYAでジブリシリーズを借りてこようか。