来談者中心療法を考える

去年の今頃はカール・ロジャーズを読んでいた。彼の「来談者中心療法」という手法に感心をもって、整体に反映できないものかと模索したのだった。現在に至ってどの程度仕事に活かされているかはちょっとわからないけど。

技術的なものは何でも勉強したてのホヤホヤでしっくり馴染んでいないもの、またそれが「技」として目に見えている間は使えていないことが多い。学んで、飲み込んで、消化して、すっかり忘れてしまった頃になって初めて身に付いたと言えるだろう。

さて、来談者中心療法とは何かというと基本的態度としては「無条件の肯定的関心」と「共感的理解」を説かれていて、一貫して相手を受容する融和的な姿勢を重視する。

なんでこれが治療になるのかというと、人は無条件に肯定、賛同されるとそれだけでにわかに力が抜けてゆるんでしまうからだ。全ての力は抵抗してくる対象物があってはじめて存在できるもので、相手が対立するほど強くなるが、受容されると消えてしまう。壁だと思って押したら暖簾だったというようニュアンスだろうか。

だからカウンセラーが自分を立てず、また相手の存在も素通りして、どこにも主体を置かないような態度に徹する時、お互いの世界が全一的に融けてしまう。

治療者やカウンセラーの力量というものは知識や肩書ではなく、最終的には良質のコミュニケーションを確立する能力だといって相違ない。これはもはや「人間性」という範疇のものであってテクニックではないだろう。

外からどんな技術を施してみても最終的に治る力は来談者(クライエント)の中にしか存在しない。そのクライエントの力があってはじめて治療者の力も使えるのであって、よくよくそこを考えてみるとどちらの力とも言い難いのだ。

結局のところ他人がいくら気張っても、当人が治る時にならないと治らない。

治る時が来るまでは「ざる」なのだ。どんなに有益なものを目にし、耳にしても、みんな本人の身体を通過してしまう。

逆に言えば、治る時が来たらあらゆる力を自分のものにして治ってしまう。

そう考えると余人ができることは、「その時の波」を乱さないように何もしないで「待つ」こと以外になくなってしまう。東洋思想でいう所の「無為」というものはこれをよく言い現したものだと思う。

ヒーラー、治療者、指導者など、他者をリードする立場にある人は、「自分は相手に一体何ができるのか?」ということを常々考えつづけるものだ。「治療」ということは「何かする」ということと、「何もしない」ということの間にある。

ここでふと思い出して、野口晴哉の『治療の書』を開いたら次の一節が目に止まった。

我治めて治療あり 我慎しみて治療あり。
我 我無くしてのみ治療あり。
治療といへること 我が行うに非ず。人に施すことに非ず 治すことにも非ざる也。
たゞ我 我無くして靖らかなる為也。宇宙の靖らかなる為也。(全生社 p.131)

自分の整体探求もだいぶ遠くまで来たと思ったら、依然としてお釈迦様の掌の上だったという話だった。自らを修めて、他を治める。一体「何」が「何」をしているのかわからない。「治る、治らない」とは如何なることなのか。ここ辺りの問いが整体指導の急所だと思う。