感情というエネルギーの流れ道

体が硬くなる、偏る、こういうことが万病の根源である。一般には「コリ」とか「歪み」という表現が目立つが、何かそういうものが「悪しき現象である」というにおいを整体的立場としてまず排除したい。

「万病」という言葉一つとっても、どうしても「病気にさえならなければ良い(=病気でないことが健康)」という気配が付いてまわる。しかし病気が健康のバランサーであることは、整体をやる方にとって最初に理解していただきたい関門だ。

病気は身体の偏りを正すための特効薬的な働きを示す。中でも発熱はもっとも身近な妙薬と考えて良い。

さて、しかしながらそういう病気の世話にならなければならない身心の在り様というのは、やはり好ましいことではない。最初の硬張りや偏りが「何によって起こるのか」を知ることが整体指導を受けるための第一歩だ。

ひとことに言えばそれは「感情」というエネルギーのなせるわざである。俗にいう「喜怒哀楽」というものが、その通り、感情の発露として身体が使われれば硬張りも偏りも生じない。つまり「泣く、笑う、」といった生理的な動きが理性によって抑圧されなければ、エネルギーは体運動に乗じてひとりでに流れて行って消えてしまう。

問題なのは、人間は社会的生き物であるために感情が発動してもその通りに行動できないことがままある、ということだ。一般社会では、表出しそこなった感情エネルギーは抑えていれば「消えた」と思われるが、生きた身体を観察する立場から言えば「出しそこなった感情」は身体のどこかに仕舞われたままなのだ。

しかも、その仕舞われた感情は時間とともに澱んだり、増幅したり、変性したりして当人の自我意識を絶えず刺戟(時に支配)して来るからそれだけ注意が要る。そうした感情エネルギーの鬱散現象が「病気」、或いは「怪我」と言われるものと思って相違ない。

整体指導ではその仕舞い込まれた感情の「発生した時点」を捉え、消失に向かってリード(誘導)したい。感情の鬱散には様々な方法があるが、怪我をしたり、物を壊したり、兎角破壊的方向に行きやすいのが問題だ。一方では慈善事業のような公的仕事や芸術活動等にも化けるので一概には悪くも言えないのだが、こんな風に体内に感情の不発弾がいくつもあるのが「人間」の実体だという風に私は思っている。

先に書いたような社会的有用性があるエネルギー活動ならば本人的にも問題がなければ放っておいて良いわけだが、自分の身心や外的社会との不適合につながるような鬱滞したエネルギーはやはり整体指導の対象となる。エネルギーの鬱散方法としてよくスポーツなどが使われるが、これも一長一短の感がある。現代的スポーツの多くは「ゲームに勝つこと」が優先されやすいので、必ずしも鬱散になるかというと、たまたま「そうなる」時もあるし、「ならない」時もあるからだ。逆に停滞した感情エネルギーがスポーツの場で「怪我」となって現れるケースが多いのも実状だ。

整体指導はまさしく、身体に沈潜した感情にピンポイントで触れるために存在する。それも「触れた、触れられた」という感触すら残さずに行うのが技術なので、「あそこに行っても何をやっているのかわからない」と思われたらそれはしめたもので、最上だと思う。

兎も角、過去に沈められた感情を浮かび上がらせ、流れ道を作ることさえできれば、もうそこからすべてが変わっていく。指導者の力と言えばそうだし、同様に当人の意志力も要する。心にも体にも平衡要求という力が絶えず働いていて、平たく言えば生命は常に治りたがっているのだ。治るために毀れている。毀れたのだから、もう同時に治って来ているのだと心得るべし。

こんなことを指導の場でも活元会でも、このブログでも、何度も何度も言ってきた事であるが、ここを共有できないと指導にならないのでいつも繰り返している。人間を動かしているのは理性ではなく感情であることが解ると、まず最初に日常における自身の心に対する態度が変わってくるのではないだろうか。整体は「本当に自分を大切にするとはどういうことか」を深く考える場でもある。