整体は自分がやるもの

「(整体になるには)どうすればいいのか」と問われれば、

それは深い呼吸(深呼吸ではなく)、重心の沈下、全身のゆるみ、言葉にすればだいたいこういった類になる。ところがそのどれもが整うための条件ではなくて整った結果訪れる精神身体現象である。

こちらは最初から余すところなく伝えているつもりでも、お互いの機が熟さなければ伝わらない。受け取り方がわるいのだと居直るのはもちろんよくない話で、「その時」を見極めて的確な刺戟で説くべきである。啐啄の機は何においても指導の急所である。

その一方で「整体」には完成もない。成ったと思っても次の瞬間はもうわからない。心の僅かな凝滞によってまた乱れる。ちょうど自転車が倒れないように絶えずハンドルを修正しつづけるようなものだ。言ってみればその無意識の平衡要求が一定に働いている状態を「整っている」と、こう呼んでいいのかもしれない。

面白いもので整えようとしている間は整わない。その「整えよう」をやめると秩序は現れる。出来ることなら人間が頭に描く「健康」など忘れて、今日一日精一杯生きることを勧めたい。「一日」の中にはそんな忘我の時節が何度も或るのだが、その時は気が付かないのだからそれを「妙」というべきか、面白いものだ。

とにかく一度でいいから徹底的に自我が落ち切る体験をするしかない訳で、「ああなるほど、これのことか」という、そういうもの。それは自分がやることで、人にどうこう言われるようなものではないのだ。

もとより整体をやるなら他人に一切要はない。自分自身が自分自身のためにやるだけだ。力があるなら「それ」を取れるはず。窮していればなお良し。悩みと成長は一つの現象の両側面である。それだけに「気づき」も早いはずだ。

但しインスタントを求める人にはインスタントが手に入る。何を求めるかはその人、生来の質によるところが大きいのも事実である。

命は雄大だ。その雄大さを人間の卑小な知識で狭めてはいけない。知識も智慧も、その他の一切合財も捨てた時に、必ず「残るもの」がある。それを見極めたら一先ずの「安心」は得られるだろう。更にそこから十年一日の心で鍛えていくことが肝要である。それを信じられる者だけ黙って門を叩けばいい。

しかし実際は千里の道など在りはしない。何時だって目前の一歩が全てなのだ。

西洋と東洋の間

先日来の医学批判のような話をいつまでもうろうろしたくないのだが、整体を実践するとどうしても周囲との医療的価値観のギャップに悩むことになる。

それもまあよく考えてみれば現代医療があるからこそ整体の死生観も存在意義があると言えるのだから、お互いに因果な間柄とも言えるだろう。

時代性・地域性ともに広い視野に立って世界を見渡せば、原始的な生活をしている部族や社会集団はいくらでもある。そういう地域では「文明生活を見直そう」という整体の存在意義もうすれるのではないか。

日本においては西洋化という潮流の終盤(完成の一つ手前)あたりで整体は産声を上げた。いわば西洋という概念あっての東洋である。何ごともアンチがあってはじめてその価値は高まるのだから、お互い相手を大事にしながら切磋琢磨すべきなのかもしれない。

そうは言っても、知に働けば角が立ち、意地を通せば窮屈なものだ。注射一本、薬一錠飲む飲まないで、いちいち摩擦が生まれるというのも人間の世の中の可笑しさを物語る。

「痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る」という弘法の言葉もあるように、酔っているものでも自分だけは目醒めていると思うものである。自分自身の目が本当に開いているかどうかは各自が本当に自己の責任で点検しておきたい。

最終的に「自分自身が今どうなっているのか」という、人間は生涯その問題だけなのだ。そう考えれば身体を整えるというその行為こそが、真理へ至るための貴重な導き手あることがわかるだろう。本来指導者は自分の中にのみ在るのだ。

それも普段は無意識層に住んでいて現れない。意識の休息状態(ポカンとすること)の必要性を説くのはそのためである。決断できず動けない時、いつまでも意欲の出ない時には、いっそのこと、そういう自分に一度引っ込んでもらうといい。

上手くすれば自身の内と外、全ての歯車が秩序をとりもどして動き出す。世界は最初から一つなのだ。分断するのは理性であり、それがやめばいつでも同じ「一」が顕現する。道は常に近くにあるのだ。平常心是道とは正に「これ」である。

愉気について

この数日、愉気についてまた改めて考えていた。実際は「考えさせられた」という体なのだが。最終的に「ピタッとする」という、これに尽きる。これ以外の何ものでもない。それは「静止」ということでもあり、それと同時に「適合」ということも意味する。

ここで「同調する」などというと、なにやら解ったような気にさせられるから自分としては肯えない。そういうテクニカルな気配が残っていてはだめだ。

「無心にやる」などとい言うのもあやしい。無心などあったとすれば、それはもう「無心」ではないではないか。もっと自身の内奥の命がそのまま出てくる感覚だ。

一方で「やさしい、やわらかい」気であるということは必要条件である。最終的に人格から滲み出る深い愛情のちからが育ってこないことには話にならないだろう。

毎日仕事で行っているのだから中にはうまくいくこともあろうが、「うまくいった」と思ったらそれもまた邪魔だ。兎に角、淡々と静を養うことだけがそれを可能とする。

愉気は整体の基本であり根元でもある。どんな人にも、はじめたその日からできるし、一方でいわゆる「熟練者」でも力を失うことがある。経験の積み重ねによって気が研ぎ澄まされたり、逆に経験故にナマクラにもなるのだから妙なものだ。

一切の努力も汗も放擲して「そのまま」やるというところに、東洋人が好む「無」の本質があるようだ。この価値観に触れられるまで自分は十年を要した。

ただし掴みどころのないものに掴むところができた時は注意が要るのだ。直ちに手放して、からっぽにしておきたい。余計なものをみんな打ち捨てた時に、また最初のまっさらのスタート地点に立ち戻る。「普通」とか「今」とか言われるものがそれだが、もう一つ無理やり表現しようとすれば「黙」の一字になるだろうか。

結局のところ万言はたった一つの黙を表すためにあるのかもしれない。そして「何もない」ということを表現するにはやはりこれしかないのか。無と有は同じ事象の別称なのである。そのどちらのスパッとない、そういう有りもしないものが厳然として在ることが判ると、自身に最初から与えられている本来の自由性に気づく。全くよくできているものだと思う。

病症が身心を治している

今日は2才の息子が保育園から早退してきた。昼食、お昼寝のあとで蕁麻疹が出たと連絡があったのだ。保育士さんからは「お昼に食べた物(が原因)ですかね?」と聞かれたけど、どうもそういう感じでもない。念のため脈をみる・・、とやっぱり中庸、というか普通だ。

もしかしたら一昨日、散歩でかなり歩いたからその疲れが出たのかもしれないし、原因は今のところちょっと判らない。ただ一息四脈ならそれでいいではないか。こういう時にはいつも「整体」の見方と一般の方が見た時との「病気観の違い」を痛感するものだ。

野口先生が整体を勧めていくのに取り分け苦心された、というか難儀したと言われているのが「常識」という壁だったと言われている。「常識」というのはそれだけ手ごわいのだ。

多くの場合は病症が出たときだけが「病気」と考えられて、その時を「異常」と診る。ところが整体をやっていくと、そうは観えなくなって来る。「病症が出た時にはもう治った時」と、こういう風に感じる。治り始めの僅かな動きを察知して、その時に「調子が悪い」と感じ、その後症状が出た時にはもうほとんど経過は終わったのだと、こういうことになる。

「その前」に必ず何か調子を乱すショックがあったのだ。それが身体を緊張させて病気の必要性を生んだ。病気のほとんどはそうした未消化のショックやストレス体験を処理するための弛み現象である。病気そのものが治る働きといわれる所以だ。

極論を言えば、何を正常と見て何を異常と見るかという、「正常・異常のライン」をどこにひっぱるかの違いなのかもしれない。

常識的には「病気がなくなることが健康だ」、こういうことになっているが本当に病気をしない人間などいたら薄気味わるいのだ。そもそも風邪だって黴菌が入ったからそれをやっつけるために熱が出るのだから。でもその一方で、「解熱剤」という薬があることを考えると、薬は黴菌に加勢していることになる。そうすると「薬」というのは「毒」ではないか。

こういう風に考えていくと、病気を治そうとしていろいろと手を加えていることの意義自体が疑わしくなってくると思うのだが。ここまで理詰めて考えても「そうは思わない」という人はごくごく「常識的」なのだ。そういう人はそのまま常識というお守り札を持って生きていけばいい。

ところがそういうお守り自体、もともとは人間が作ったものであって、それを握って安心を得ようというのは本来可笑しなことである。

%e5%a4%a9%e5%8b%95%e8%aa%ac「常識」というものは一日でひっくり返ることがある。これに対して真理は不変なものだ。真理と供にあることを選ぶ人は、何もしないで身体の感覚に委ねて生きはじめる。そうやって世の中を見渡してみると、いろいろなところに遍満する「常識の矛盾」に気がつくはずなのだが。

常識は人間が考え造りだしたもの。真理はその人間を生み出したもの。どちらでも選べる自由性を誰にも等しく与えられているのだ。どう生きればいいかなど最初から分かっている、自分の身体感覚に訊ねればそれでいい。

ままならぬ人の心 -潜在する心へのアプローチ法さまざま

ままならぬ人の心

人間というものは思いがけない失敗をしでかしてしまったり、してはならないと知りつつやってしまったり、おろかなことを繰り返すものである。われわれは「ままならぬ」のは他人の心と思いがちであるが、自分自身の心でさえ、案外「ままならぬ」のである。(河合隼雄著 『無意識の構造』 中公新書 p.12)

今日は河合隼雄さんの文章から。ここに自分自身の心でさえ「ままならぬ」と表現されているように、ほとんどの人が「自分で考え、自分で行動している」と思っていながら、実際のところでは自分で思う自分というものの認識外、いわゆる「潜在意識」というものに無自覚に支配されて動いている。

だからこそ「自分」の統制からはずれて「思わぬ」ことをやってしまい、本人並びに周囲の人たちまで巻き込んで当惑するような問題事が人間の世の中には後を絶たない。こうしたイザコザの中でも、とりわけ余分なものを見つけだし、その処理を担うことも整体という仕事の範疇として求められる。

簡単に言えばこういうコントロール外の動きをしてしまうようなのは高潮時、エネルギーが余った時に起こる。だからこういう「人間生命の波(バイオリズム)」を読んで、その波に逆らわないように停滞したものは流してやり、破壊的になりそうなものはそこへ少し棹差して流れの向きを変えてやる。文章にするとすこぶる単純だが、これを個々人の資質や状況に合わせて行なうとなると精緻な勘を前提とした実践的訓練を要する。

心理療法において、こうした見えざる心の動きをどのように対処していくのかは知らないが、整体の場合は幸いにして「身体を読む」という技術があり、それがここでは有効に使われる。簡単に言えば、その「ままならない心」というものは体表上には筋緊張として現れるし、内面的には無為動作の偏り傾向として、すまり視覚と皮膚感覚を駆使することで捉えられる。

なんであれ、人間が一生のうちに行う大仕事といえば、やはりこの「ままならぬ自分の心」の構造を自ら解き明かすことだと言っていいだろう。つまりは意識活動の根幹、それも最下層部へのアクセスが求められるのだが、多くの人はここを素通りした「自我」を用いて、外界現象の方にしか認識の光が及ばない。

%e6%ba%80%e6%9c%88整体においては、その潜在化した意識の扉を開く鍵が身体への刺戟なのだ。筋肉を弛めることで、一旦沈潜化した意識はその拘束をとかれ、良いものも悪いものも顕在意識の領域まで浮上してくる。これを私は「感じ直し」の作業と呼んでいるが、これにより「ままならない」領域にしまわれた心のエネルギーは意識の中に統合されて、再び、あるいは初めて自我との対面を果たす。精神の健全さとは、こうした意識の内面の活動を積極的に行えている状況を指すと思っていいだろう。

整体指導者やカウンセラーの個人的力量の問題もあるので、一概にどちらがより有効であるとは言えないが、整体のようにフィジカルな領域を介在せずして癒しを行える傾聴型カウンセラーはすばらしい人間力を有していると思うのだ。

問題は手法の選出よりも個人の力量如何にかかっている。それはリードする立場の方が自分の心をどれだけ理解しているかということだろう。その理解できた領域までが他者を扱える領域ということになる。ままならぬ人の心にどのように取り組んでいくかも、個人の資質によって様々なのだ。私は職業的経験も踏まえつつ、何が人生の妙味かといったらこれ以上のものはないと確信している。

ごく平易に言えば「悩む」ということなのだが、ここで野口先生の「悩むといいことはよいことだ。これあって人間は進歩する。」という言葉が味わいを伴って思い出されるのだ。ものごとの本質をさっと捉える質であったからこその至言であることは明らかだ。そもそもが心の研究というのは個人の内で完結するものなので、「先見の明」という言い方は不適かもしれないが、やはり心理療法的観点から言えば先駆けというに相応しい。整体の真価が求められるのは、東洋の心の世界に着眼が定まる現代にあって、正に「これから」だと思う今日この頃である。

抑うつ -音のならない身体

抑うつというものがあまりにありふれているので、それを「まったくの正常」な反応だとする精神科医も現れてきている。もちろん、その場合、「日常の仕事や職務を妨げない程度のもの」という条件がついているが。しかし、大多数の人々の感じ方や、行動の仕方が、統計上では「正常」をそのように定義するなら、精神的な疎外感や距離感をもつ分裂傾向もまた、それが多くの人に見られ、入院を要するほど深刻なものでなければ、「正常」ということにあるだろう。また今日その発生率がきわめて高く、統計的には、ほぼ現代人の常態になっているような、近視や腰痛についても、まったく同じことが言えるだろう。

…人間をバイオリンにたとえてみよう。バイオリンが正しく調弦されているときは、弦は振動し、音を出す。それで、楽しい曲や悲しい曲、葬送曲や喜びの歌を奏でることができる。うまく調弦されていなかったら、そこからでてくるのは、不協和音だろう。弦がゆるんでいたら、音をだすことすらできないだろう。その楽器は「死んで」いて、反応を示すことができない。それが抑うつの人たちが陥っている状態である。抑うつの人は反応することができないのだ。

%e3%83%90%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%b3反応することができないという点によって、抑うつ状態は、ほかのすべての情動状態から区別される。希望をくじかれている人は、状況が変われば、信仰や希望をとりもどすだろう。落胆している人は、その原因がとりのぞかれると、元気になるだろう。落ち込んでいる人は、楽しみのきざしがみえてくると、明るくなるだろう。しかし、抑うつの人から反応を喚起できるものは、なにもない。むしろ好機が訪れたり、楽しいことがあると、かえって抑うつを深めてしまうこともよくある。(A・ローエン著 『甦る生命エネルギー』 春秋社 p.11)

整体では「身体から表情が消える」ということを最も警戒します。もう少し平たくいえば「止まっている」という状態を解消する、勢いを呼び戻すのが役目です。一人ひとりを丁寧に見てみると、現代社会を生きている人の大半が生理的な動きの大部分を制限されています。それは「感じている」ことを抑圧して、「考え」によって感覚を塗りつぶして生きていくことを半ば強要されているのかもしれません。

「プラス思考」などに代表されるように、「考え」はいくらかでもコントロールできますが、「感じた」ことはどうすることもできないのです。心的ストレスの強い環境にたえず身を置いている人は徐々に筋肉を硬化させ(筋肉の鎧化)、やがては「感じた」ものを認識しない身心を構築していく。これがいわゆる抑うつ症の身体です。

整体の対象となるのは須らくこうした「鈍り」が常住となった身体です。整体操法の目的は一言でいえば「感受性を高度ならしむる」ということに尽きます。ローエンが抑うつの身体を「音の出ないバイオリン」に例えてその回復を目指すことも整体の健康観によく適合しており、興味を覚えるのです。整体という行為は治療というよりは、調弦のような技術といった方が合っています(実際に整体では人体上の急所を「調律点」と呼んでいる)。その人の感覚や感受性の本来のものをいっしょに取り戻していく作業です。

その過程は決して楽なものではありませんが、音の出ない身体で人生を生きることは、「生きていながら生きていない」といってもそう間違いではない。今、「生き生きとしている」ためには、「楽しい曲や悲しい曲、葬送曲や喜びの歌」などを正確な音調で奏でられる身心であることが不可欠なのです。ただし楽器と違うのは、人間は生きており、ものではないということにあります。

直る力はその技術を扱う側にはなく、直されようとする当人の中にあります。失われた身体感覚を取り戻すのは、その人の裡なる要求によってなされるものだし、指導者もまたその要求に応ずるのが仕事のすべてです。要求が出ないうちに何を施しても、これはどうにも何にもなりません。その「時」を見極めて、機に応ずる力が双方に必要です。やはり意識を閉じて、無意識に任せることが要訣といえます。

命はいつだって光を失わないものです。光が見えないのは、意識によって曇らされている時だけでしょう。活元運動の必要性もまたここにあると思うのです。

「感情がわからない」-失感情症(アレキシサイミア)のはじまり

失感情症という病気(心身症の一種)について少し書いてみようと思います。その前に、そもそも「失感情」という言葉自体やや専門的で耳慣れない方も多いのではないかと思います。

簡単に説明すると、その名のごとく個人の意識において感情を失っている状態を指します。「失っている」というと誤認があるかもしれませんが、本来は「感情が身体の中ではたらいていない人」はいないのです。但し当人がどれだけ自身の感情を明瞭に味わえているかは相当に個人差があります。

言語表現としては「嬉しい、楽しい、悲しい(哀しい)、苦しい…etc」などといった「感じ」ですが、特に着目すべきは後に書いたようなマイナスの感情です。こういった不快感(不快情動)が起きた時に、軽度のもの(それも一過性)ならばそのまま「不快」として認知されますが、中程度から重度のものがくり返し沸き起こってきた時に、人によってはそのストレスに対して「感じない」という対応をとる動きが出てきます。

今まで「苦しい、いやだ」と言っていた感情が遮断されて感じなくなるわけですから、当人としては「気にしないようにしている」から、やがて「気にならなくなった」、ひいては「精神的にタフになった」などと思っていることもしばしばです。

こういう方を実際に整体の臨床で見てみると、まずからだ全体に張りがなくぶねっとしています。そして全身的に冷たい感じがして、眼には光がありません。それでは言動まで冒され鈍っているのかと言うと、こちらはなかなか「しっかり」していて外見的には充分な社会生活が送れているケースが殆どです。ですがこれは「心身症」のごく初期の状態と言ってよいでしょう。

整体ではもとより、「本人が身心の異常を感じれば、その時から治りはじめる」と言うほどに、身心の異常感(=身体感覚の鋭敏さ)を尊んでいます。これが鈍ってくるということは、そこから病気の要求(必要性)が起こってきます。つまり病気(の苦痛)によって身体感覚を喚び覚まそうとする動きが出てくる訳です。

ところが西洋医療では多くの場合「治療」と称してその病気の中断ばかりを励行していきますので、身体はますます硬直して自身の感情と理性は切り離されていきます。こうした経緯で「失感情」がはじまり、そして深まっていくのです。

とりわけ、「こんなことでヘコタレてはいけない」、「自分は強い(はずだ)」、「みんな大変なのだから、私だけツラいなどと言えない」という様な態度でまじめにがんばって生活をしている方ほど陥りやすい症状です。しかも当人にとってはそれが自身のメンタリティと一体化してしまい、「当たり前」過ぎて、そのがんばりにも気がつかないこともままあります。

それでいて、生理痛や吐き気、めまい、偏頭痛、湿疹、腰痛などの慢性的な体調不良に悩まされています。「体の不調」は認知していても、心の苦痛に対して感性が働いていない(わからない)、そういう身心の分離が失感情症の現れとして見ることができます。多くの方が「身体の病気」だけに着目して、治療の効果もむなしくなかなか成果が上がらない時に、この「感情に対する気づき」という切り口からその人を観ていくことで、変化が見られることはよくあります。

では実際に「どうやって感情、感受性を取り戻していくか」、ということになるとその方法は多岐にわたります。考えようによっては「いかようにでも、何とでもなる」とも言えますし、相談者によってはこの「感情の回復」こそが生涯をかけての一大テーマともなりえます。ちょっと長くなりましたので、失感情に対応する具体的なセラピーや手法などについてはまた改めて書いてみたいと思います。

息をしていない身体

仕事として身体を見ていると、息が止まってしまっている人は大勢います。もちろん生理学的には息をしていますが、少し文学的に表現すると呼吸が停止している身体には毎日のように出会います。

一般には「息が詰まる」とか「息を飲む」という言葉が使われますが、正確に言えば「深くてゆったりとした息」が出来ていないことを言っているのでしょう。息は「自分の心」と書くことからもわかるとおり、その時のその人の心境を如実に現すものです。

そもそも呼吸自体は生きて行くうえでは欠かせない筈なのに、どうして息を浅くしてしまうのでしょうか。実は無自覚に息を止めている時には、本人の無意識層に「自分一人では抱えきれない感情」が潜在しているのです。人が深くしっかりと息をしている時には自分の心が鮮明に感じられるようになりますから、これとは逆に息を止めることで感受性を鈍くして絶えている訳です。

生きていれば病気の不安であるとか、家庭環境、職場での悩みなど、苦しい思いはいろいろとあります。そういう抱えきれないものをどうにかしなければならない時に、無意識に息を固めて身体の硬直させて、防衛線を張るようになっているのです。

一般的にはこの時点で体調不良を感じたり、病院に行ったりする方はほとんどいません。仮に違和感を感じて検査を受けても、その多くは場合何ら異常が認められないことが殆どでしょう。そういう時に現代では各種の民間療法やセラピーが求められることが多いようです。そして整体やカウンセリング、また様々なボディワークによって身体の各所がゆるんでいくと、だんだんと息を吹き返していきます(実際にはそう簡単にはいかず「無意識の抵抗」に遭うのですが)。

呼吸が身体の隅々まで入って来ると今まで判らなかったいろいろな心理的問題(辛さや苦悩)が感じられるようになりますので、当然その大変さを一人では抱えきれません。そこをセラピストやカウンセラーなどは「あなたのその気持ち、わたしが半分持ちますからいっしょに何とかしていきましょう」という風に共感・共有していくことが医療者の根元的な仕事であると思うのです。

考えてみれば、今まで何も感じていなかったのに、治そうとする過程で苦しくなるというのも妙に思われるかもしれません。ですがそうでなければ敏感な身心(=健康体)を保って生き生きとした生活を送ることはできないのです。一般には感情を喜怒哀楽という風にも表現しますが、喜や楽のような快情動を味わうためには、怒も哀もひっくるめて心が躍動していなければならなりません。そうでない身体には「現実」から乖離した、無色無臭・無味乾燥の生活が延々と連なっていくことになります。

当り前ですが、生きるとは息することです。息を詰めていればそれは死んでいないだけで、本当に生きているとは言えないでしょう。人間の意識をテレビの画面に例えるなら、深い息は電源のようなものなのです。息が入ってくればさまざまな光が躍動しますが、息を止めれば美しいものも醜いものも、何も映らないのです。

今この瞬間に於いて、感じる世界と感じない世界、人間はそのどちらも選べるようになっています。そういう自由性の中を好きなように生きているのが人間です。真に生きることを求めるなら、今すぐ全身をゆるめて、深い息を取り戻すことです。感じても感じなくても、一日は一日、今日は今日でおしまいなのですから。

%e3%81%82%e3%81%8f%e3%81%b3%e7%8c%abでも本来は、生と死、そのどちらでもない〔今〕の真っただ中にみんな生きているのですが・・。これに気づいた人は何もしなくても、いつでも宇宙と一つの深い息をしているかもしれませんね。

身体は、世界を映しだす鏡

もし、体が躍動感を欠いているならば、その人の感動と反応は少なくなってしまう。体が生き生きとしているならそれだけ人は、現実を生き生き感じとり、活動的に反応する。調子よいと感じたり、生き生きとした気持ちを感じる時、世界をよりはっきりと感じとることができるという事実を、私たちはよく経験する。一方、うつ状態にある時には、世界は色あせたものとして映るだろう。(A・ローエン著 『引き裂かれた心と体』 創元社 pp.7-8)

整体が追究するのは感受性の正常化であり、よく「感覚する身体」です。何を感覚するかと言えばそれは身心の快と不快、そこからもう少し丁寧に考えていくとその「快と不快」の両極の中間にある、さまざまな情動の種類を感じられるようにしたい。

身心の問題(病症)の数は無数にあるけれども、その根本的原因は一つです。それは「身体感覚の喪失」であり、「自分が感じていること」がぼやけている状態を指します。そのために整体指導を行うということは、この失われた身体感覚の再生が最重要課題ということになります。

例えば当院の場合、整体を受けたあとで次の指導の時に感想伺うと、「確かに良くなっています」と言う方と、「効果があったのかなかったのか、よくわかりません」と訴える人がいます。もちろん「よくなった」が好ましく、「効果感じられず」がよろしくないと言えばそうなのでしょうが、実は後者の方が自身の身体感覚に正直であることも少なくないのですね。自分の身体に起きていることを、よくよく、丁寧に感じてみた結果の慎重な発言なのだと思います。

実際、失われた身体感覚を取り戻すには時間がかかると思っていた方がよく、それも適切な相手と正しいやり方で行っていかないと効果はなかなか上らないのです。とにかく「快い、気持ちがよい」という感覚を大切に生きていくことが肝要で、セラピーなどでも気持ちの良い動作や気持ちのいい感覚を積極的に味あわせるものは、そうした身体感覚の「鈍り」のメカニズムをよく理解した上でのことだと思うのです。

逆に生育期に苦しい境遇を味わったような人は「自分を鍛えるため」といって苦行的になることも多いのです。ですが、これでは心と体の分離が一層進んでしまいます。人が癒えていくための道は本当に、もっとずっと近いとこ%e8%88%b9%e9%a0%adろにあるのです。今の自分の様子にじかに触れて、自分の要求に蓋することなく、淡々と快を連ねるように動いていくことが整体への近道です。これが信じられる人は、たった今から、少しずつ、楽になるとおもうのですが。

本当に簡単なんですけど、人によっては「むずかしい」と言われることも多いのでもどかしい。もっと説き方と、導き方が上手になりたいものです。

自己の現在地

一昨日の夜は禅会に行ってきた。整体指導を行う立場から言うと、禅という行法の特殊性から学んだことは多い。例えば一般的な習いごとやお稽古ごとなら1年も通えば自ずとやることも変わって来るし、それに付随して目に見えるいろいろな外的変化がある筈だ。ところがご承知の通り坐禅にはそういった変化はない。

しかしながら、変わり映えはないのだけれども、それだけに根気よくというか淡々と続ける方は一定数いる。長い方はそれこそ何十年単位で行なっているものだ。

その中でやはり特殊だと思うのは、生まれたときから禅門の中で生活してきたような本職の和尚さんも、今日生まれて初めてお寺に来たという人も、布団の上に坐ったらまったく同じことを同じ様に行なうということだ。世間一般から見たら稀有なものではないだろうか。

さらに「行」といっても坐り始まったら本当に外的な動作は何もない。現代では「歩きスマホ」などの問題が象徴的だが、今は「何もしていない」時間など、またそのような人を見つけることもむずかしい。ほとんどの方が身体的動作から頭の中の働きまで、引っ切り無なしに動いている。そういう意味でも、何かすることを学ぶ人は多いが、何もしないことを進んでやろうとする人はずっと少ないだろう。

そういう目まぐるしい変化の中で生活する人々が一たび坐禅堂に行くと、毎回まったく同じパターンで動作して、同質の空間で静止した身心と世界を味わう。一体これの何が良いのかと考えてみると、個人的には「今、自分がどうなっているのか」という自己の在り様が正確に点検できるところだ。

仮に「人の一生」というものをずっと煎じ詰めて考えていくと、「今、私が、どうか」ということに集約される。もっと端的に言えば、人間というのは生涯「今の身体と気分の良し悪し」だけなのだ。

だからその身体を「ある一定の形」に当て込んでみることで、今の自分の様子がよく判る。例えるなら、動いている電車からホームを観ても次々と景色が変化して捉えにくいのに対して、止まった電車からだとその在り様が観えやすいのと同じことだ(動いて観えているものも、間違いなく今の様子なのだが)。

いつも言うように、身体は世界を映す鏡である。身体がきちっと整っていれば、時々刻々と姿を変えるこの世界を、そのまま、その通りに映す。これこそが人類にとって究極的救いなのだ。そういう意味で禅修行と整体指導はその眼目を同じくする。

ウルル注意しなければならないのは、何事も導き手が最終的な着地点がわからなければ、人を惑わすということだ。何を失っても自己の現在地だけは見失わないことが肝要である。

訓練してそうなるのではなく、誰もがきちっとした〔今〕に生かされているのだが、この見極めがつかない間はしょっちゅう迷う。一体、人は眼(まなこ)を開けていながら、「何」を観ているのだろうか。自分の現在地はこんなにはっきりしているではないか。有り難いことだ。