息をしていない身体

仕事として身体を見ていると、息が止まってしまっている人は大勢います。もちろん生理学的には息をしていますが、少し文学的に表現すると呼吸が停止している身体には毎日のように出会います。

一般には「息が詰まる」とか「息を飲む」という言葉が使われますが、正確に言えば「深くてゆったりとした息」が出来ていないことを言っているのでしょう。息は「自分の心」と書くことからもわかるとおり、その時のその人の心境を如実に現すものです。

そもそも呼吸自体は生きて行くうえでは欠かせない筈なのに、どうして息を浅くしてしまうのでしょうか。実は無自覚に息を止めている時には、本人の無意識層に「自分一人では抱えきれない感情」が潜在しているのです。人が深くしっかりと息をしている時には自分の心が鮮明に感じられるようになりますから、これとは逆に息を止めることで感受性を鈍くして絶えている訳です。

生きていれば病気の不安であるとか、家庭環境、職場での悩みなど、苦しい思いはいろいろとあります。そういう抱えきれないものをどうにかしなければならない時に、無意識に息を固めて身体の硬直させて、防衛線を張るようになっているのです。

一般的にはこの時点で体調不良を感じたり、病院に行ったりする方はほとんどいません。仮に違和感を感じて検査を受けても、その多くは場合何ら異常が認められないことが殆どでしょう。そういう時に現代では各種の民間療法やセラピーが求められることが多いようです。そして整体やカウンセリング、また様々なボディワークによって身体の各所がゆるんでいくと、だんだんと息を吹き返していきます(実際にはそう簡単にはいかず「無意識の抵抗」に遭うのですが)。

呼吸が身体の隅々まで入って来ると今まで判らなかったいろいろな心理的問題(辛さや苦悩)が感じられるようになりますので、当然その大変さを一人では抱えきれません。そこをセラピストやカウンセラーなどは「あなたのその気持ち、わたしが半分持ちますからいっしょに何とかしていきましょう」という風に共感・共有していくことが医療者の根元的な仕事であると思うのです。

考えてみれば、今まで何も感じていなかったのに、治そうとする過程で苦しくなるというのも妙に思われるかもしれません。ですがそうでなければ敏感な身心(=健康体)を保って生き生きとした生活を送ることはできないのです。一般には感情を喜怒哀楽という風にも表現しますが、喜や楽のような快情動を味わうためには、怒も哀もひっくるめて心が躍動していなければならなりません。そうでない身体には「現実」から乖離した、無色無臭・無味乾燥の生活が延々と連なっていくことになります。

当り前ですが、生きるとは息することです。息を詰めていればそれは死んでいないだけで、本当に生きているとは言えないでしょう。人間の意識をテレビの画面に例えるなら、深い息は電源のようなものなのです。息が入ってくればさまざまな光が躍動しますが、息を止めれば美しいものも醜いものも、何も映らないのです。

今この瞬間に於いて、感じる世界と感じない世界、人間はそのどちらも選べるようになっています。そういう自由性の中を好きなように生きているのが人間です。真に生きることを求めるなら、今すぐ全身をゆるめて、深い息を取り戻すことです。感じても感じなくても、一日は一日、今日は今日でおしまいなのですから。

%e3%81%82%e3%81%8f%e3%81%b3%e7%8c%abでも本来は、生と死、そのどちらでもない〔今〕の真っただ中にみんな生きているのですが・・。これに気づいた人は何もしなくても、いつでも宇宙と一つの深い息をしているかもしれませんね。