「感情がわからない」-失感情症(アレキシサイミア)のはじまり

失感情症という病気(心身症の一種)について少し書いてみようと思います。その前に、そもそも「失感情」という言葉自体やや専門的で耳慣れない方も多いのではないかと思います。

簡単に説明すると、その名のごとく個人の意識において感情を失っている状態を指します。「失っている」というと誤認があるかもしれませんが、本来は「感情が身体の中ではたらいていない人」はいないのです。但し当人がどれだけ自身の感情を明瞭に味わえているかは相当に個人差があります。

言語表現としては「嬉しい、楽しい、悲しい(哀しい)、苦しい…etc」などといった「感じ」ですが、特に着目すべきは後に書いたようなマイナスの感情です。こういった不快感(不快情動)が起きた時に、軽度のもの(それも一過性)ならばそのまま「不快」として認知されますが、中程度から重度のものがくり返し沸き起こってきた時に、人によってはそのストレスに対して「感じない」という対応をとる動きが出てきます。

今まで「苦しい、いやだ」と言っていた感情が遮断されて感じなくなるわけですから、当人としては「気にしないようにしている」から、やがて「気にならなくなった」、ひいては「精神的にタフになった」などと思っていることもしばしばです。

こういう方を実際に整体の臨床で見てみると、まずからだ全体に張りがなくぶねっとしています。そして全身的に冷たい感じがして、眼には光がありません。それでは言動まで冒され鈍っているのかと言うと、こちらはなかなか「しっかり」していて外見的には充分な社会生活が送れているケースが殆どです。ですがこれは「心身症」のごく初期の状態と言ってよいでしょう。

整体ではもとより、「本人が身心の異常を感じれば、その時から治りはじめる」と言うほどに、身心の異常感(=身体感覚の鋭敏さ)を尊んでいます。これが鈍ってくるということは、そこから病気の要求(必要性)が起こってきます。つまり病気(の苦痛)によって身体感覚を喚び覚まそうとする動きが出てくる訳です。

ところが西洋医療では多くの場合「治療」と称してその病気の中断ばかりを励行していきますので、身体はますます硬直して自身の感情と理性は切り離されていきます。こうした経緯で「失感情」がはじまり、そして深まっていくのです。

とりわけ、「こんなことでヘコタレてはいけない」、「自分は強い(はずだ)」、「みんな大変なのだから、私だけツラいなどと言えない」という様な態度でまじめにがんばって生活をしている方ほど陥りやすい症状です。しかも当人にとってはそれが自身のメンタリティと一体化してしまい、「当たり前」過ぎて、そのがんばりにも気がつかないこともままあります。

それでいて、生理痛や吐き気、めまい、偏頭痛、湿疹、腰痛などの慢性的な体調不良に悩まされています。「体の不調」は認知していても、心の苦痛に対して感性が働いていない(わからない)、そういう身心の分離が失感情症の現れとして見ることができます。多くの方が「身体の病気」だけに着目して、治療の効果もむなしくなかなか成果が上がらない時に、この「感情に対する気づき」という切り口からその人を観ていくことで、変化が見られることはよくあります。

では実際に「どうやって感情、感受性を取り戻していくか」、ということになるとその方法は多岐にわたります。考えようによっては「いかようにでも、何とでもなる」とも言えますし、相談者によってはこの「感情の回復」こそが生涯をかけての一大テーマともなりえます。ちょっと長くなりましたので、失感情に対応する具体的なセラピーや手法などについてはまた改めて書いてみたいと思います。