自己の現在地

一昨日の夜は禅会に行ってきた。整体指導を行う立場から言うと、禅という行法の特殊性から学んだことは多い。例えば一般的な習いごとやお稽古ごとなら1年も通えば自ずとやることも変わって来るし、それに付随して目に見えるいろいろな外的変化がある筈だ。ところがご承知の通り坐禅にはそういった変化はない。

しかしながら、変わり映えはないのだけれども、それだけに根気よくというか淡々と続ける方は一定数いる。長い方はそれこそ何十年単位で行なっているものだ。

その中でやはり特殊だと思うのは、生まれたときから禅門の中で生活してきたような本職の和尚さんも、今日生まれて初めてお寺に来たという人も、布団の上に坐ったらまったく同じことを同じ様に行なうということだ。世間一般から見たら稀有なものではないだろうか。

さらに「行」といっても坐り始まったら本当に外的な動作は何もない。現代では「歩きスマホ」などの問題が象徴的だが、今は「何もしていない」時間など、またそのような人を見つけることもむずかしい。ほとんどの方が身体的動作から頭の中の働きまで、引っ切り無なしに動いている。そういう意味でも、何かすることを学ぶ人は多いが、何もしないことを進んでやろうとする人はずっと少ないだろう。

そういう目まぐるしい変化の中で生活する人々が一たび坐禅堂に行くと、毎回まったく同じパターンで動作して、同質の空間で静止した身心と世界を味わう。一体これの何が良いのかと考えてみると、個人的には「今、自分がどうなっているのか」という自己の在り様が正確に点検できるところだ。

仮に「人の一生」というものをずっと煎じ詰めて考えていくと、「今、私が、どうか」ということに集約される。もっと端的に言えば、人間というのは生涯「今の身体と気分の良し悪し」だけなのだ。

だからその身体を「ある一定の形」に当て込んでみることで、今の自分の様子がよく判る。例えるなら、動いている電車からホームを観ても次々と景色が変化して捉えにくいのに対して、止まった電車からだとその在り様が観えやすいのと同じことだ(動いて観えているものも、間違いなく今の様子なのだが)。

いつも言うように、身体は世界を映す鏡である。身体がきちっと整っていれば、時々刻々と姿を変えるこの世界を、そのまま、その通りに映す。これこそが人類にとって究極的救いなのだ。そういう意味で禅修行と整体指導はその眼目を同じくする。

ウルル注意しなければならないのは、何事も導き手が最終的な着地点がわからなければ、人を惑わすということだ。何を失っても自己の現在地だけは見失わないことが肝要である。

訓練してそうなるのではなく、誰もがきちっとした〔今〕に生かされているのだが、この見極めがつかない間はしょっちゅう迷う。一体、人は眼(まなこ)を開けていながら、「何」を観ているのだろうか。自分の現在地はこんなにはっきりしているではないか。有り難いことだ。