活元運動は雑念の掃除

悪いという考えに対して、良いという考えを入れたらゼロになるかというと、ならない。…良いと言っても、悪いと言っても、心の停頓であることには変わりない。…中には良いという考えは停滞しても邪魔にならないという人もいるが、健康だと確信している人に脳溢血が起こることもある。健康であるという考えであっても、心の流れから言えば一つの停頓であるからに他ならない。潜在意識と現在意識の関係は氷山の如く、海上に現れているのは何分の幾つかで、海面下の大きさはその何倍かになり、風に吹かれて外から動くよりは、海面下の氷山が海流に流されて上の方向が決まることの方が多い。表面に飛び出したものだけを掴まえて方向を変えようとしても無理がある。しかし、固まっていても氷山の実質は海水そのものである。凍りつかした自分の考えに閉じこもらないで天心に生くれば、無意識という海の水と同じ自由に溶け合い一つになって流れる。その為には氷山を作らず本来の水になることの方が必要であると言えます。それ故、停滞している心の現象であるいろいろの雑念を掃除し、いろいろの観念や感情、それを起こす心そのものまで何にもなくしてしまうことが心理療法の目的であって、今までお話した問題はそこへ行く為の道筋に他ならないのであります。(月刊全生 平成23年8月号『心理療法入門 2』より)

2月の活元会では整体流の心理療法の講義録から資料を使って音読を行なった。野口整体は身体を媒体とした心理療法の手段である、と言えるのだが個人指導を受けている人でも意外にこの所をご存じない方が多い。

つまり「肉体への刺戟→肉体の変化」が全て、と思われている方が多い(やや閉口した)。そんなことはありえない。身体への刺戟は即心理へと影響する。「心と体はつながっている」のではなく、「同じ、一つ」のものの別称である。誰でも温泉に入ったら「気持ちがいい」のだから。心と体の間に「隔たり」や「距離」はない。

さて、整体の「心理指導」とは何をすべきかということだが、整体では終始「天心」を説く。赤ん坊のような、「なんにもない」という状態を旨とし、これに立ち返ることを最良と考えているのだ。

そこで「天心」とか「雑念の掃除」という方面でいうと、「瞑想」という方法がよく行われる。それで古今東西いろいろな瞑想法があるのだが、いわゆる無心とか真のリラックスとかそういう面でなかなか功を奏さないのは何故だろうか。というと、それは意識が鎮まる「身体」になりにくいからだと私は思う。

引用にある、海面下の「氷山」とは潜在意識に固着した観念である。普通は「悪い」観念さえ払拭すればそれで良いように思われるところを、そうではないと言うのだ。よく考えれば赤ちゃんに「悪人」がいないのと同じように、「善人」というのもいない。禅の方ではこの辺りのことを「是非・善悪を思わず」という風に上手く表現している。「悟った」というのも「迷い(認識)」である。本来は悟りも迷いもないのが物事の実相だろう。善とか悪とか、健康とか病気とかそういうものが両方ともスパッと無い。無心、天心とはそういうカラッポ感のことを表しているのだ。

そのカラッポとかポカンというのは、身体能力によって実現される。つまり意識が静止する身体性というのがあるのだ。禅寺の生活様式というのはこういう身体を創る上で有効に組まれたものといっていい。我々の場合は活元運動によって最短コースでこれを目指す訳である。つまり不随意的な身体の緊張が残っている限り、頭の働きは静まらない。絶えず何かを対象に頭を使ってしまう。だからその基となる緊張をみんな拭い去ってしまう不随意的運動を上手く活用して脱力させようと考えたのだ。

今までいろいろな人を見て来たところでは、止まって行なう瞑想では意識の停止が難しいようなのだ。無論それぞれに段階があるとは思うが、多くの瞑想法は目標と立ててそこに向かって行くような気配がどうしても取れない。そうではなく、始まりも終わりもない、なんにもない、まっさらな状態にもって行くのが心理療法では究極的な目的である。

その点では活元運動はやってみると非常に簡単である。やっていった結果として運動の質が高まり、ゆるみの深度が増す(進歩する)ということはあるけれども、誰でも一応は最初からできる。若くても歳を取っていても、病気であっても怪我をしていても、無理なくできる。そして続けていくと氷山が海水に戻るように身体の硬張り、意識に潜伏する観念などが抜けていく。時間が掛かる人もいるけれど、やっていればやがてはそうなる。そうして後に体がしっかりしてくる。腰が伸びて、骨盤をきちっと使って立ち居ができるようになってくると中枢神経が整い雑念が抜けてポカンとする。このポカンとするのが心理療法の着地点である。

そうやって「無」になったところから、新たに空想する。悩むことがあるならまた新たに悩めばいい。とにかく一度ニュートラルポイントに持って行く。そこから歩きはじめる。この繰り返しで人間は進歩するように出来ているのだ。そういう意味で、氷山のように意識の流れを止める観念は邪魔でしかない。それを解かすのに活元運動が近道と言える。

非常に単純だけれども、完成されている方法だろう。何故こういう方法がもっと広く伝わらないのかと思うけれども、やはりそれが「盲点」なのだと私は思う。「自然」というのはそれほどに近くて遠いものだ。何処にでもあるのに、探そうとした途端見失う。「意識を閉じて無心に聞く」、たったこれだけでいいのだからもっと多くの方に知っていただきたい。先ずは最初の一歩だ。

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型の再考

二〇〇〇年のカラダ文化

最近、自己の存在の希薄化がしばしば問題にされる。自分がしっかりここに存在していると事感じられるためには、心理面だけでなく、身体感覚の助けも必要である。現在の日本で、自分の体に一本しっかりと背骨が通っているということができる者はどれだけいるであろうか。あるいは、「腰が据わっている」や「肚ができている」や「地に足がついている」といった感覚を自分の身において実感できる者はどれだけいるであろうか。

二〇〇〇年の日本は、一種のカラダ博覧会である。八〇代でも背筋がシャンと伸びているカラダもあれば、一〇代でも地べたにへたりこむカラダもある。からだにはもちろん個人差がある。しかし、トータルな傾向として、足腰が弱くなり、からだの中心軸が失われつつあることは明らかではないだろうか。(斎藤孝著 『身体感覚を取り戻す』 NHKブックス p.2 )

気がつけば斎藤孝氏の『身体感覚を取り戻す』が世に出てから17年が経とうとしている。10年ひと昔の概念を当てはめればふた昔前に差し掛かる。出版はちょうど私が大学卒業の前年で、当時の時代性を思えば日本の「身体性」を問う書籍としてはかなり前衛的かつ、網羅的な内容だったことが伺える。

思えば自身が仕事をしていても突き当たる問題はすべて「身体性」に帰結する。体を「整える」といったときに、一体どこに向かって整えるかを定めることが先決である。しかし斎藤氏の言を待つまででもなく、よりしろとなるべく「身体性(≒型)」が今の日本から喪失している。

そういう意味で野口先生が活躍された昭和三、四〇年代とは人間の事情が大きくことなることを先ず考慮しなければならない。当時の指導であれば日頃正規の位置にある中心軸(重心)が一過性にずれたものを修正すればそれで充分であっただろう。しかし現代日本型の身体では修正すべき、原点となるべき「身体の基本形」が養成されていないのである。そのために整体指導はこの四〇年ほどかけて「修正」から「構築」「創造」へと役割が変遷してきたとも言える。

元を辿れば「体育」を仕事の中軸に据えている点ではそう変わりはないのかもしれない。しかしながら「立つ、歩く、坐る」という人間の動作の基本中の基本ともいえる形が著るしくくるってしまっているのだから、往時と同じことをしていて同等の結果が得られる道理はない。ひと口に「体育」を唱えても、この「基本的なことが出来ない」という事実に気づくことが今や「整体」の入り口として必須事項と言えるだろう。

しかしながらスポーツ競技などと比べてこうした日常的動作は「出来ない」ということを自覚すること自体がむずかしい。現状がどれほど不格好な形であれ、それなりに出来てしまっているという悲劇性をここに見い出すことが出来る。そこで改めて「型」の必需性に気づかされるのであり、また一般社会でも整体に於いても馴染み深いものの一つが「正座」だろう。一たび身体に偏りが生ずれば、この正座が充分には出来なくなる。偏りを修正し、正座が正確に出来た時に初めて「坐り」という技術性に目が向けられるのである。

さらに言えば、このようにして現状よりも整った状態(正常感)というのを味わった時に、初めて人は自身の異常性にも気がつく。そして「心でも体でも、異常を異常と感ずれば、その時から治りはじめる」という先師の遺した言葉もここに生きてくるというものだ。「身体感覚を取り戻す」ことはこの異常を察知する感度を上げることに他ならない。

ところでうちへ通われている方から最近巷に流布している身体用法にまつわる情報を沢山いただく。このことからも現代人がそれだけ「身体」への関心は暗に高まっていることが伺える。膨大な情報の中からどれを選ぶかは全く個人の資質によるわけだが、こと整体に於いて「正座」は自己の身体レベルを明朗にする試金石となる。指導法はまったく個別という方法を取っているために「何をどうやって」という説き方は難しいのだが、状態の脱力が要であることは言うまでもない。

今さらだが整体指導は身体感覚の向上を図るためのものである。その第一歩としてまず自己の身体がどのレベルなのかを知ることが肝要だ。そういう意味で「型」は厳しいながらも親切な「ものさし」として、昔日から現代に至るまで連綿とその存在意義を呈している。「汝、自身を知れ」という格言を実地に移す上でも、この古人の智慧に学ばない手はない。自身の「生き方」を思い、我が「身」を重んずる心が芽生えたらしめたもの。先ずは正しく座ってみることだ。そこには人生を拓く無限の可能性が眠っていることにやがて気づくだろう。

わけられない

河合 無限の直線は線分と1対1で対応するんですね。部分は全体と等しくなる。これが無限の定義です。だからこの線分の話が、僕は好きで、この話から、人間の心と体のことを言うんです。線を引いて、ここからここまでが人間とする。心は1から2で、体は2から3とすると、その間が無限にあるし分けることもできない。

小川 ああ、2.00000・・・・・。

河合 そうそう。分けられないものを分けてしまうと、何か大事なものを飛ばしてしまうことになる。その一番大事なものが魂だ、というのが僕の魂の定義なんです。

小川 数学を使うと非常に良く分かりますね。

河合 お医者さんに、魂とは何ですか、と言われて、僕はよくこれを言いますよ。分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂というと。善と悪とかでもそうです。だから魂の観点からものを見るというのは、そういう区別を全部、一遍、ご破算にして見ることなんです。障害のある人とない人、男と女、そういう区別を全部消して見る。

小川 魂というのは、文学で説明しようとしても壮大な取り組みになりますけれど、数学を使えば美しく説明できるのが面白いですね。

河合 だけど心理学の世界では、魂という言葉を出したら、アウトです。

小川 そうなんですか。

河合 非科学的だと批判されますから。・・・(小川洋子 河合隼雄 『生きるとは、自分の物語をつくること』 新潮社 pp.27-28)

整体指導を受けにあたり、初めのうちは病院との並行利用で通われるケースが少なくない。具体的には皮膚の疾患であったり、頭痛やめまいであったり、何かできものが出来たとか、そういったことをどうやって解消していったらいいか、と悩み考えて調べていった結果いわゆる「ノグチセイタイ」に辿り着いたといような場合にそうなりやすい。

だけれども、整体というのは「その様な生き方」をするための教育が本質であって、「治療をする」ということとは立処を別にしている。生命の自然調和ということをあらゆる思惟と行動の起点に置き、「それを如何にして保つか」ということが主眼である。そのために錐体外路系の訓練として活元運動があるわけで、ここを介さないことには最初の門をくぐった事にはならない。

そこでまず「理解」ありきというのが、現在当院の指針となっている。つまり「病院」とは何をするところか、「整体」では何をやるのか、という分別が曖昧なままでは指導が始まらないのだ。

最初の引用では河合先生が数学を使って「魂」の定義を試みているが、これは数学と文学が相補したような見事な表現だ。つまり魂に限らず、もともと「この世界」というのは分けられないし、分かれてなどいないのである。そこを、文字通り「分別」という思念によって「ひとつ」のものが2にも3にも1000にもなる。「科学」と「認識」は同じ思惟活動の別称なのだ。

つまり常態の身体活動の中から「不快」或いは「悪しき」、「異常」と認めた動きを「疾患・疾病」とみなして、その排斥を試みる。これが「科学的な治療」の正体である。だから熱が異常と感ずれば、熱を排斥する。湿疹なら湿疹を無くそうとする。下痢なら下痢を止める。鼻血なら鼻血を止める。だいたいこういう系統のことである。

ところがこの世界は「生きている」という事実が只その通りにあるというのが実態である。「私がいる」という気配すらないのが「いのちの真相」なのだ。だから治療ということも根元的には「ここ」に帰すことだけを考えればいい。それ以外のものが不要とは言わないし、むしろ大いに要るのだが、最終的に「異常を認め、治す(直す)」という方向だけではどうにもならない根本の問題に必ず突き当たる。

畢竟、思惟の最終着地点と言うのはどこまでも「ひとつ」しかないのだ。言葉にならないそれを強いて言うなれば、「ある」ということだろう。それは時に「いま」と呼ばれたり「わたし」と言ったり、「ほとけ」、「せかい」…など様々である。一切の治療を捨てて「我あり」という言葉に帰結させた整体は「わけられない」ものに気づくことの重大性を諦観している。「ぽかんとする」ことを最初に説くのもそのためである。はじめの一歩が即、真理でなければ「今」に間に合わないのだ。

傍らにいること

傍らにいること

河合 カウンセリングは、ちゃんと話を聴いて、望みを失わない限り、絶対大丈夫です。でも、例えば「先生、次は学校行きますよ」「嬉しい、良かったね」っていうやりとりが何度あっても、やっぱり行けない。それでこちらが内心望みを失うとするでしょう。そうしたらもう駄目なんです。「アカンかったわ」と言われた時に、こちらがちゃんと望みを持っていることが大事なんです。

小川 まだまだ大丈夫っていう、望み。

河合 「行けなかった」と言った時「でも行けるよ」って言うたら、行かなかった悲しみを僕は受けとめてないことになる。ごまかそうとしている。「そうか」と言って一緒に苦しんでいるんやけど、望みは失っていない。望みを失わずにピッタリ傍らにおれたら、もう完璧なんです。だけどそれがどんなに難しいか。・・・ (小川洋子 河合隼雄 『生きるとは、自分の物語をつくること』 新潮社 pp.112-113)

久しく心理療法の記事から疎遠になっていた。この辺りは以前から行ったり来たりと言うか、自分が仕事をしていて対話が中心になる時期と、反対に言葉少なくなる時期が周期的に移り変わることに最近気が付いた。整体指導と心理療法は別々の環境で育った双子のように近い関係にあるが、いずれにしても「何でもよく話す方がいい」、「あまり言葉がすぎてはいけない」という二分法で仕事の良し悪しを評価することはできない。根本的にはクライアントの心に対してカウンセラーが「ぴったり」ついていけることが理想だろう。

上の引用は『博士の愛した数式』の原作者小川洋子さんと河合先生の対談本からの一節だが、この後もクライアントと関係を育てるための内容がつづく。受ける側にせよ、行なう側にせよ何らかの形で「カウンセリング」に携る方はならば一冊精読されるといろいろな面で学びがあるのではないかと思う。

当院には様々な「荷物」を背負った方がお越しになるが、時に自分自身の共感能力の乏しさに落胆することがある。引用の末尾に「望みを失わずにピッタリ傍らにおれたら、もう完璧なんです。だけどそれがどんなに難しいか。」とあるけれども、最初にこの文章を読んだときは「あぁ、そうなんだ」とさらりと読み流していた。つまりはそんなことは「カンタンだ」と思っていたのだ。

実際は「相手と同じ臨場感で、同じ負荷を味わいながら」も望みを失わない、というのが難しい。こちらが問題の対岸にいて「それは大変そうですね」というのと、相手と同じ岸に上がって「ああ、これは確かに苦しい…」というのでは根本的に違う。だから全人格的な治療を志すならば「心のひだ」が発達しないことには何も成し得ない。この辺りは修養あるのみである。

見出しの「傍らにいる」というのは一緒にいながら、努めて「何もしない」という態度だ。この「何もしない、をする」というのが治療の元型であると思っている。相手の潜在生命力に対する絶対的信頼を根底に据えた態度といえる。

自我意識の波を鎮めて、自然生命の波が表出することで、はじめて「治まる」ものがある。総じて整体の技術が「愉気にはじまり愉気におわる」という言葉を、味わい深くかみしめるようになったのもつい最近のことだ。依然としてわからないことは多いけれども、いつだって未完成と言う形で完成されているのが現在である。

「整体」というのも到達すべき目的地ではなく、より良い理想を描きつつ変化・成長していくプロセスの只中にある。そこを生きる者同士が傍らに在ることで、お互いの生命を尊重し合い、また高めていけるのだと思う。本来治す者と治される者は別々に在るのではなく一つの活動体なのだ。礼と惻隠の心がそれを一つたらしめている。「生命に対する礼」の生命が何を意味するのか、深く考える必要があると思う。

青い鳥

気が付けば整体という生き方に出会ってから10年余り経った。今にいたって一般の方の病気観・健康観との乖離を味うこと甚だ多くなったと思う。「整体」と言った場合も、その概念をなかなか共有できず難渋する。

今もってなお「治療」を求めて来院される方はいらっしゃるので、やはり「整体」とは身体を外部から刺戟することで「護り・庇い・治すもの」という印象が根強いことに間違いはないのだろう。

しかし身体をずっと諦観していくと、「生命」というものは最初から良くなる方向へしか動いていないことが見えてくる。むしろそれ以外の動きは一切ないと言ってもいい。この辺りが自覚されるまでに多くは一定の歳月を要するのだが、逆に言えばそれさえ自分自身に実証できればあと後は何も要らないだろう。

つまりは「この活動体」に対する絶対的な信頼こそが整体の入り口であり基本となる。そして、同時にゴールでもあるのだ。だからともかく指導する側は「目を覚ます」ことが仕事の核心であるし、技術を磨き、修め、その使用を慎むのもそのためである。

そこで手技の精妙さ以上に大切なのは人間心理に対する関心と深い理解なのだと最近つくづく思うようになった。理屈をたくさん並べて説得してもそれで人の「心」は動かない。「気づく」、「気づかせる」、そして「自ずから空想する」という方向でリードしていくことができないと、生きた人間を導くことは難しい。

しかし何を信じ、考えていても、生命はそうした個人の思惑とは離れ切っている。その観点に気づくと、真理からは離れて生きる人などいないことがはっきりする。

よってすべての訓練は「もともとの力」に気づくために行なわれる可きである。鍛錬もそのためにあるのだが、健康も幸福も求めれば必ず背く。鍛錬するその動きの中に、すでに生命の絶対性が生きている。矛盾するようだが今あるものに気づくために鍛え、そしてその鍛錬を忘れた時に確実に手に入るものがある。しかし掴んではいけない。この辺が「妙」と言われる所以だろう。

頭を虚にすればそれだけ身体の実は濃くなる。やはりその案内役としては活元運動は誰もが行える親切な道だと思うのだ。「道」はいつでも「今」と一つとなって動いている。そういう意味では「平等な世界」だとも思っている。

白楽活元会

先週の土曜日は久しぶりに家の外に出て活元会を行った。白楽駅から程近い16畳の和室は明かりの調整が自在で利用しやすかった。

今回は初めての方にご参加いただいたのだが、いつも新しい方がお見えになると活元運動の効能をつぶさに感じることができる。続けていると一種独特の身体になってくるのだ。自然は自然なのだが、そこにもう一つ「秩序」を感じられるようになってくると、少し成果が上がったと見ていいだろう。

それともう一つ、整体では「弾力」という概念を重視するが、これを養うにもやはり活元運動は近道である。最終的にはやわらかい身体が一番長持ちする。

しかし意識的に「ゆるめましょう」といってもこれがなかなか難しい。やはり意識を静めて、無心の働きに任せるという方法が心にも体にも易しい。

月に一回程度、それで1年も続けるとだいぶ変わってくる。何と言うか、自分で自分を扱いやすくなる感覚だ。もっと平たく言えば楽になってくる。苦しいのはみな間違いである。

■日程
12月は24日(土)は同じく白楽で行ないます。10日(土)は場所が確定しておりません。近日中に再アップいたします。参加をご希望の方はこちらからメールをお送りください

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掛け軸は「閑坐聴松風」

この世界の片隅に

先だって妻と映画を観に行った。『この世界の片隅に』。よく考えてみたら妻と二人で映画を観たのは今回が初めてだ。

戦時中の広島と呉が舞台である。何と言ったらいいか、タッチはやさしい、が凄惨である。兎に角、当時の「一般家庭」とでも言おうか、事実をそのまま、本当に「そのまま」それも綿密な取材を積み重ねて仕上げられた作品だ。

個人的には観て良かったと思うが、どなたにもおすすめ、とは言いがたい(とくに小さいお子さんのいる方にはツラいのではないだろうか)。ただ戦後70年を過ぎて、歴史観の見直しが問われる時勢とマッチしているだろう。

普段、自分の仕事では30~40代の方とお話させていただくことが多いが、やはり多くの人が自国の近代史をご存じない。いや我が身を振り返っても、さして大きなことは言えないのだが・・。自分の場合は、元自衛官の太極拳の先生についた折、先生からの「歴史は知っておいた方がいいよ」のひと言がきっかけとなり本を読み漁った。そうして漸く「戦争」を中心に省みるようになった程度だ。知らないことは当然山ほどある。

言うまでもなく「歴史」には善の顔も悪の顔も浮かび上がる。それは「史観」というのもので、「事実」そのものではない。多くの歴史観に触れるのも勉強だが、それ以前に自国に於いて「何があったか」を知っておくことぐらいは嗜みの範疇ではないだろうか。

そういう意味では戦時中の一家庭に照準を絞り、徹底してディティールと情感にこだわりぬいて制作された本作は久方ぶりの秀作ではないか。かつて同じ舞台で描かれた作品には言わずもがなの『はだしのゲン』があるが、時代性と作者の視点・感性の違いが相まって全く異なった様相を呈している。

その一方で共通するのは、人間の根元的な悪と生命力についてを考えさせれることだろうか。人間の体力は使えば増える、悩めばそれだけ賢くなる、と言うは易いが、智慧も力も振り絞らなければならない時代が幸せか?と問われれば答えに難渋する。

実に制作期間は6年を要したとのことで、やはりいいものを作るには情熱と時間、そして根気がいることがわかる。それにしても劇中にそこはかとなく息づく清らかさはどこから来るものか。昔のものは何でもいいとは言わないが、当時の日本の息遣いを感じさせてくれる清らかな世界があった。その一方で、清浄感に隠れて「戦争の惨たらしさ」は些かかすんでいるかもしれない。いわゆる「行間」。ここを個人の責任で補い、慮ることは原作者の意向に反するだろうか。

『風邪の効用』までだいたい3年くらい

息子が風邪をひいた。だいたい一ヵ月ぶりくらいだろうか。「野口整体」といえば『風邪の効用』だが、今から11年前に自分が整体生活をはじめた頃は風邪を引くたびにこの『風邪の効用』を読んでいた。そうやっては逐一症状の経過を楽しんでいたのを思い出す。

一言でいえば「風邪は身体の自然良能」ということで、風邪をひいて熱がでると、その体温の変化によって身心がゆるむ。それによって、自身の潜在体力が煥発され自然に元気になるという話だ。だから咳をしても熱が出ても静かに経過を見守るような方法を取るのである。

ところがそこから拡大解釈が生じて、「風邪はいくらでも引けばいいのか」と思われることもあるが、そこはちょっと慎重に考えたい。

たしかに本を読めば風邪を上手に経過させる方法は沢山紹介されている。ところが発症してから手を打つようではちょっと遅いのだ。本来は常に身心の平衡が保たれていて、風邪が要らないような生活者であることが最善である。

簡単に言えば「心・体」の両方にしこりがなくていつでも柔らかい状態を目指したい。それには平素における身体感覚の練磨が要求される。整体は「身体の感受性を高度にする」ことが真の目標なのだ。

もう一つ、子供は大人よりも体力があり丈夫だ、・・けれどもそれでいて脆い。風邪の経過でも処置を誤ると、本当に命が危険にさらされる。そういう観点から、安易に「野口整体のやり方で・・」とやろうとすると、無自覚なリスクにさらされることがある。これは誰しもやってみると追々わかる・・。

病症経過を的確に促すには、「身体が読める」ということが大前提で、何事も生兵法はこわいものだ。整体という生き方を実現するには、まず頭の理解に3年、身体ができるのにも、(個人指導や活元運動を続けながら)どんなに早くても3年くらいは見積もった方がいいだろう。

努力してやっとできるようになる、というよりも好きなら自然と続くものだ。好きこそものの上手なれで、やってみたい人はやっぱり先ずは本から入るのがやさしい。何回読んでも記憶から内容が漏れていたり、実体験に照らし合わせてみて「ああそうか」とようやく解ることも出てくる。

ともかく風邪を一度もひかずに死ぬ人などまずいないのだから、誰の手元にも置いておきたい珍書であり、良書だ。実際好みの問題が大きいのだが、一読して損はない一冊だろう。

柔軟心

道元禅師が真の仏法を求めて宋に渡った後、日本へ何を持ち帰りましたか?と問われた時に一言、「柔軟心(にゅうなんしん)」と応えられたそうである。禅師の示された柔軟心が「何」を指すかは言明できないが、一応のそれらしいイメージは沸くものだ。

性質は違えど整体でもやはりこの「柔軟心」を大切にしたい。

言い替えると「こだわりがない」ということでもあるし、「執らわれない」と言ってもいいだろう。できればもう一つ、その「こだわらない」とか「執らわれない」という動きすらないことが最良だ。「何もない」ということが根元的自由の源泉なのである。

その「何もない」を、時には「無」とか「空」とか表現されるが、これも「強いていえば・・」という話でとにかく何かしら表現されたらその途端に無も空も失われる。

とにかく目の前の現実に手を着けない、今の自分自身にも手を着けない。そうしてずっとやって行くと、そういう自他の見解から一辺「放れる」時節が必ず来る。そこからが人生の、本当のスタート地点だ。

そこで満足することなく、更にずんずんやっていって、「何もしない」ということを鍛えて行った先に、本来の自由性をそのまま戴ける人になっていけばいい。

 

人間は年をとれば誰でも固くなるもので、身心の柔らかさを保つには訓練が要るのだ。

そのために自律神経系、そして錐体外路系を的確に刺激する禅と活元運動は近道だ。体育のためにいろいろなスポーツをやることも結構なのだが、そういうことが余分な怪我を誘発したり、また心や体を余計にこわばらせることもあるから、どれも丁寧に観ていく必要がある。

柔らかさを保つためには勝ち負けや体の格好(ポーズ)の追求ではなく、先ず「柔らかさを保つ」ということを第一義的に考え行動していかなければならない。

そういうものが極めて少ないからこそ、改めて人間の生理機能に順じた体育の必要性を考えさせられる。何か特定の信仰や宗教観に浸らなければいけないということでもない。もっと自然で自由なものに気づけばそれでいい。

そのために難しい方法がいるわけでもない。頭を深く休めて、身体の自然の動きに任せるというそれだけだ。活元運動という名前を呈すこと自体もどかしいのだが、月を示すために指がいるように、形のないものを体認するためにまず言葉が要る。

あとは、本当にやってください、というそれだけだ。やってみて「間違いない」ということがわかった人はそれでもう柔らかい。自身の可能性を開くためにはこの柔軟さが不可欠だ。そのように感じる人だけでいいので、あとはただ、本当にやってくださいと言うしかない。そのように思う人たち同士で勧めていけばそれでいいという話でもある。

気、不増不減

今日は仕事をしながら何処からともなく気の充実感を覚えた。いつもそうかというと、そうでない日もあるのだから不思議なものである。

相手のコンディションが良し悪しとは無関係に、感応道交がぴたっと行われれば気は共振して増幅する(そもそも善・悪は人間の価値基準である)。

代替療法の世界には俗に「悪い気をもらう」という概念があるが、これは観る側の腰が抜けていると冒されやすい。何ごとも力のある方が場を制し、イニシアチブをとるものだ。

整体操法の基柱は「不変を以て万変に応ず」で、こちらはいつだってただ真っ直ぐ立っていればいい。蓬だって麻に触れれば真っ直ぐになるというのだから、況や人間などその影響の程は想像に難くない。

大切なことは自分に正直に生きることなのだが、これが易しいようで案外難しい。故に修行のしどころでもあり、人間に生まれた醍醐味とも言える。

自然生命の要求実現を奨励するのもこのためだ。生あるものは須らく、余すことなく生きるべきなのだ。力の出し惜しみはもったいない。苦しむのは生の価値を知らないからだ。生ある者はみな今日の命を無駄にしてはいけない。

養生を求めて駆け回る暇があったら、脚下に現前する「自然生命の原理」に着眼を正すべきなのだ。