悪いという考えに対して、良いという考えを入れたらゼロになるかというと、ならない。…良いと言っても、悪いと言っても、心の停頓であることには変わりない。…中には良いという考えは停滞しても邪魔にならないという人もいるが、健康だと確信している人に脳溢血が起こることもある。健康であるという考えであっても、心の流れから言えば一つの停頓であるからに他ならない。潜在意識と現在意識の関係は氷山の如く、海上に現れているのは何分の幾つかで、海面下の大きさはその何倍かになり、風に吹かれて外から動くよりは、海面下の氷山が海流に流されて上の方向が決まることの方が多い。表面に飛び出したものだけを掴まえて方向を変えようとしても無理がある。しかし、固まっていても氷山の実質は海水そのものである。凍りつかした自分の考えに閉じこもらないで天心に生くれば、無意識という海の水と同じ自由に溶け合い一つになって流れる。その為には氷山を作らず本来の水になることの方が必要であると言えます。それ故、停滞している心の現象であるいろいろの雑念を掃除し、いろいろの観念や感情、それを起こす心そのものまで何にもなくしてしまうことが心理療法の目的であって、今までお話した問題はそこへ行く為の道筋に他ならないのであります。(月刊全生 平成23年8月号『心理療法入門 2』より)
2月の活元会では整体流の心理療法の講義録から資料を使って音読を行なった。野口整体は身体を媒体とした心理療法の手段である、と言えるのだが個人指導を受けている人でも意外にこの所をご存じない方が多い。
つまり「肉体への刺戟→肉体の変化」が全て、と思われている方が多い(やや閉口した)。そんなことはありえない。身体への刺戟は即心理へと影響する。「心と体はつながっている」のではなく、「同じ、一つ」のものの別称である。誰でも温泉に入ったら「気持ちがいい」のだから。心と体の間に「隔たり」や「距離」はない。
さて、整体の「心理指導」とは何をすべきかということだが、整体では終始「天心」を説く。赤ん坊のような、「なんにもない」という状態を旨とし、これに立ち返ることを最良と考えているのだ。
そこで「天心」とか「雑念の掃除」という方面でいうと、「瞑想」という方法がよく行われる。それで古今東西いろいろな瞑想法があるのだが、いわゆる無心とか真のリラックスとかそういう面でなかなか功を奏さないのは何故だろうか。というと、それは意識が鎮まる「身体」になりにくいからだと私は思う。
引用にある、海面下の「氷山」とは潜在意識に固着した観念である。普通は「悪い」観念さえ払拭すればそれで良いように思われるところを、そうではないと言うのだ。よく考えれば赤ちゃんに「悪人」がいないのと同じように、「善人」というのもいない。禅の方ではこの辺りのことを「是非・善悪を思わず」という風に上手く表現している。「悟った」というのも「迷い(認識)」である。本来は悟りも迷いもないのが物事の実相だろう。善とか悪とか、健康とか病気とかそういうものが両方ともスパッと無い。無心、天心とはそういうカラッポ感のことを表しているのだ。
そのカラッポとかポカンというのは、身体能力によって実現される。つまり意識が静止する身体性というのがあるのだ。禅寺の生活様式というのはこういう身体を創る上で有効に組まれたものといっていい。我々の場合は活元運動によって最短コースでこれを目指す訳である。つまり不随意的な身体の緊張が残っている限り、頭の働きは静まらない。絶えず何かを対象に頭を使ってしまう。だからその基となる緊張をみんな拭い去ってしまう不随意的運動を上手く活用して脱力させようと考えたのだ。
今までいろいろな人を見て来たところでは、止まって行なう瞑想では意識の停止が難しいようなのだ。無論それぞれに段階があるとは思うが、多くの瞑想法は目標と立ててそこに向かって行くような気配がどうしても取れない。そうではなく、始まりも終わりもない、なんにもない、まっさらな状態にもって行くのが心理療法では究極的な目的である。
その点では活元運動はやってみると非常に簡単である。やっていった結果として運動の質が高まり、ゆるみの深度が増す(進歩する)ということはあるけれども、誰でも一応は最初からできる。若くても歳を取っていても、病気であっても怪我をしていても、無理なくできる。そして続けていくと氷山が海水に戻るように身体の硬張り、意識に潜伏する観念などが抜けていく。時間が掛かる人もいるけれど、やっていればやがてはそうなる。そうして後に体がしっかりしてくる。腰が伸びて、骨盤をきちっと使って立ち居ができるようになってくると中枢神経が整い雑念が抜けてポカンとする。このポカンとするのが心理療法の着地点である。
そうやって「無」になったところから、新たに空想する。悩むことがあるならまた新たに悩めばいい。とにかく一度ニュートラルポイントに持って行く。そこから歩きはじめる。この繰り返しで人間は進歩するように出来ているのだ。そういう意味で、氷山のように意識の流れを止める観念は邪魔でしかない。それを解かすのに活元運動が近道と言える。
非常に単純だけれども、完成されている方法だろう。何故こういう方法がもっと広く伝わらないのかと思うけれども、やはりそれが「盲点」なのだと私は思う。「自然」というのはそれほどに近くて遠いものだ。何処にでもあるのに、探そうとした途端見失う。「意識を閉じて無心に聞く」、たったこれだけでいいのだからもっと多くの方に知っていただきたい。先ずは最初の一歩だ。