気が付けば整体という生き方に出会ってから10年余り経った。今にいたって一般の方の病気観・健康観との乖離を味うこと甚だ多くなったと思う。「整体」と言った場合も、その概念をなかなか共有できず難渋する。
今もってなお「治療」を求めて来院される方はいらっしゃるので、やはり「整体」とは身体を外部から刺戟することで「護り・庇い・治すもの」という印象が根強いことに間違いはないのだろう。
しかし身体をずっと諦観していくと、「生命」というものは最初から良くなる方向へしか動いていないことが見えてくる。むしろそれ以外の動きは一切ないと言ってもいい。この辺りが自覚されるまでに多くは一定の歳月を要するのだが、逆に言えばそれさえ自分自身に実証できればあと後は何も要らないだろう。
つまりは「この活動体」に対する絶対的な信頼こそが整体の入り口であり基本となる。そして、同時にゴールでもあるのだ。だからともかく指導する側は「目を覚ます」ことが仕事の核心であるし、技術を磨き、修め、その使用を慎むのもそのためである。
そこで手技の精妙さ以上に大切なのは人間心理に対する関心と深い理解なのだと最近つくづく思うようになった。理屈をたくさん並べて説得してもそれで人の「心」は動かない。「気づく」、「気づかせる」、そして「自ずから空想する」という方向でリードしていくことができないと、生きた人間を導くことは難しい。
しかし何を信じ、考えていても、生命はそうした個人の思惑とは離れ切っている。その観点に気づくと、真理からは離れて生きる人などいないことがはっきりする。
よってすべての訓練は「もともとの力」に気づくために行なわれる可きである。鍛錬もそのためにあるのだが、健康も幸福も求めれば必ず背く。鍛錬するその動きの中に、すでに生命の絶対性が生きている。矛盾するようだが今あるものに気づくために鍛え、そしてその鍛錬を忘れた時に確実に手に入るものがある。しかし掴んではいけない。この辺が「妙」と言われる所以だろう。
頭を虚にすればそれだけ身体の実は濃くなる。やはりその案内役としては活元運動は誰もが行える親切な道だと思うのだ。「道」はいつでも「今」と一つとなって動いている。そういう意味では「平等な世界」だとも思っている。