カウンセリングは植物を育てるように

カウンセリングは植物を育てるのに似ている。この話は河合先生の『カウンセリングを考える(上)』に出てきます。

本の中で不登校の子供を例にとって説明をされますが、世の中にはどうしても学校に行けない子供というのが一定の割合でおられます。本人は「学校へ行きたい」とか「学校には行かなければいけない」と思っているのに、朝になるとお腹が痛くなったり、頭が痛くなったりする子がいるわけです。あるいは、どうしても目の覚めないという子もいるようです。そういうことが次のように書かれています。

これは不思議ですが、どうしても目のさめない子がいます。金だらいの上に、目ざまし時計をのせますね。それを二つやっておいても、目がさめない子がおります。そして学校へ行く時間が半時間ほど過ぎたら、パッと目がさめるんです。これはほんとうにすばらしいものですが、そういうふうな子供に、われわれは学校へ行くというように教えることには意味がありません。

…こういうふうに、われわれは簡単に「教える」とか「しつける」ということは断念しなければならない。そうすると、われわれは何ができるかというと、普通の子供たちはみんな学校に行っているのに、この子はここで学校に行けないのは、育ってくるときにどっかで育ち方がひずんでいるんじゃないか。あるいは育ちそこなっているところがあるんじゃないか。そうすると、その育ってないところをちゃんと育てるように、われわれは育て直すということをしなくちゃならないというふうに私は思うんです。(pp.11-13)

と、ここから話はずっと展開して行きます。

野口整体の場合は始めからそういう「育てる」という態度をはっきりと表明して整体指導の実体を「体育」と、こう現しています。治療といえばもちろんそういう表現も合わなくはないけれども、やっぱり「治す」とか「教える」といった言葉にはどこか強制力というか不自由な感じがしないでもない。もうすでに出来上がってしまった、結果のものをいじくるというか、どこか不自然な感じが私などはするわけです。

ところが「育てる」とか「育て直す」というと、それは生きものが伸びていこうとする自然の力を主体とするよりほかなくなります。そういう態度がカウンセリングをするうえではとても重要なのではないかと、こういう理解でいいと思います。

野口先生は「現代の教育には育がない。教えてばかりだから教教である」と言われたそうですが、「教える」ということでも「治す」ということでも、相手の中にある力とか、刺戟に反応するまでの時間を無視して行なおうとすると、どうしても受ける方は負担が強くなってきます。なんだかわらないけれど、見てもらっていると疲れるというか何か大変な感じがしてくるわけです。

植物に肥料をやっても水を撒いても、それを自分のものにする力というのはやはりその植物の中にしかない。「育てる」というのはその中の力と外の力が二つ合わさって、一体になって動いていく様を上手に現している言葉だと思います。

それと同じように身体を刺戟した場合でも、心に何か言って聞かせた場合でも、そこから相手がどう動いてくるのかをじっと観察して待っていなければならない。そういう「間」という時期が必ずあるわけです。

そうして教育とか治療ということをずっと突き詰めて考えていくと、一つのそういう着地点といいますか、最後に行き着く場が非常によく似ているような気がします。つまり「育ってないところをちゃんと育てるように、育て直す」という方法。植物の場合は育て直しというのは難しいけれども、人間の場合はこれが出来るわけです。逆に言えばこうやってじっくり自我に取り組んでいかないと、いろいろな症状でも心の問題でもどうしても繰り返してしまう。

人間の場合はこうやって丁寧に取り組んでいくことではじめて成し遂げられる仕事があるとも言えます。根本治療というのは誰もが望んでいますが、その実態というとほとんど理解されないのが現状かもしれない。それはまさしく植物を育てるような、非常にひっそりとした愛情を要する仕事という気が私にはします。

自分の力でよくなっていく

野口整体とユング派の心理カウンセリングの治癒過程は、見ていくとよく似たところがあると思います。

それは一言でいえば「無為を上手に使う」ということ。もっと身近に表現すると「そのままでいる」とか、「自然治癒」とか、「何もかもお任せ」みたいな言葉でも良いかもしれない。

これは偶然ではなくて、ユングが東洋思想のタオイズムからいろいろ学んだことと、野口先生が子供の頃から老荘思想に親しんだことに起因します。それぞれ出典が近いので「似ている」のは当然といえば当然なのですけど。

その共通の観点に着目していると「成り行きに対する信頼」とでもいうような、世界と自分を貫く大きな流れ(自然界の秩序)に対する畏敬の念のようなものが「どしん」と、意識のずっと底の方にあって、治療者と患者はその上で一緒に遊んでいるような感覚すら覚えることがあります。

体の問題でも心の問題でも、程度の軽いうちは「何かする」ということでだいぶん解消できます。冷やしたり、温めたりして治るものなら多分やったほうがいいだろうし、話し合いや議論、説教で解決する程度の問題ならお互いに腑落ちするまでどんどんやったらいい。

こういうものは絶対にいけない、ということはないのでいろいろ納得いくところまでやったほうがそれこそ心の面で解決は着きやすい。

それでも、体の問題だとどれだけ薬を使っても、切ったり張ったりしてもどうにもならないという根の深い問題があるし(深そうに見えて浅い場合もありますが)、心の問題ならどんなにいい話を聞いても、説教でも、気分転換をはかっても、解決しない時はしません。

整体指導、心理カウンセリングは大抵「そこからはじまる」、といっていい。

つまり、打つ手は全部打った、万策すでに尽きたりと、という時にはじまる最後の砦と思ってもいいくらいです。

それまでは「何かする」ということでずっと対応してきたものが、ことごとく効果がなくて全部つぶされていく。そうやってその人はどんどん追い詰められていって、とうとう切羽詰って、もう何もできないという所までいくわけです。

そうするとどうなるかというと、最後に「無為(こちらから何もしない)」という方法が残されている。

ただし、本当に何もしないんだったらそこに他人が関わる余地はないし、どんな問題があってもそのまま「ただ生きて、ただ死ぬだけじゃないか」と言いたくもなるわけで、そこをもう一つ進めて考えなければいけない。

指導者とかカウンセラーという人間がそこに関わることで、事態がどうなっていくのか。

それは、一つはクライエントの中で失われかけた「自分に対する信頼」、というのが回復してくということが挙げられると思います。

つまり「相手(自分)の力でよくなっていく」、「その人が自分の力で立ち上がってくる」という、最後の可能性が動き出して来るわけです。

自分の知恵と体力で立ち直ってくるならこれほど良いことはないのであって、そんな方法があるなら最初からやってます、と言いたくもなるけれど、実際一人ではそれができなかった。

そこへふらっともう一人、見守るというか、一緒にその問題を眺める人が傍らに出てくることによって何か変わったことが起こってくる、というのが「人間」の面白いところです。

カウンセリングの場合は、そういう状況にある相手の話を「一生懸命に聴く」という方法でいくわけです。整体だったら、やはり「そこに一緒にいる」、とか何かするにしても「手を当てる(愉気)」というような非常にやさしいというか、ゆるやかな「待ちの態度」で望むことが主になります。

こういう関わり方というのは、他ではあまりありません。一見すると頼りない感じもするし、そこにそんなすごい力があるとは気づかれないことが多い。ところがこういう方法がきちんと最後に残されているというのは、人間にとってすごく有り難いことだと私は思います。これがなかったら、最後の最後のところで人類はみんな救われないとすら思うこともあります。

改めて言葉にすると「無為を体得する」とか、そういうことです。いわゆる自然体、心においても、浮かんで来たことはそのまま、感じたこともそのまま、「受け入れる」ということも余分なくらいに手を着けないでいる。整体というのは、そういう意味で非常に平坦な、安楽の道なんだけれど、それと同時に険しさというか難しさもある。人によってはそれこそラクダが針の穴を通るよりも難しいかもわかりません。

だけれども、「自分の力でよくなっていく」というものが誰の中にもあるのは間違いありません。何パーセントかはわかりませんが、やっぱり万策尽きて、自分で解決していくよりないところまで追いつめられる人は一定数おられます。野口整体もユングのカウンセリングも(名前がないだけで、知らないだけで他にもいろいろあると思いますが)、そういう人にとっては非常に頼りがいのある方法だと思えるのです。

錯覚を起こそう

精神療法家 神田橋條治先生の『精神療法面接のコツ』を久しぶりに読み返した。わりと冒頭の方に明治生まれの奇術師 石田天海師のエピソードが書かれていて、そこを読むといつも自分の仕事の在り方を再点検させられる。

その概略はだいたい次の通りである。師によると「マジック」というのは「現象を見せる」のが本質なのだそうだ。これとは違って「やっていることを見せる」のはジャグラーであるという。ここでいう現象というのは観客の内側に起こるイリュージョンなのであって、このイリュージョンが起こるように誘うのがマジシャンの仕事であるという。

もう少し咀嚼すると、観る側が吃驚したり感嘆したりすることが「実」であり「成果」なのであって、そこさえクリアできれば過度な複雑性や技量は問わない、ということになる。具体的にはマギー司郎さんみたいなシンプルでやさしい芸を思い浮かべると判りやすいのではないだろうか。もちろん技量が要らないからといって“カンタン”という話ではない。どんな分野においてもそうであるように、シンプルな技を目の当たりにするときには同時に長い淘汰の歴史が窺い知れる。

一方で過剰な技巧はともすれば人を悪酔いさせやすい。それもどちらかといえば酔うのは技巧を施してもらう方ではなくて、施す側だったりする。これは楽器の演奏などにおいても見受けられるが、技巧に凝り過ぎたことで本来の曲調が失われてしまうパターンにも通じる。技は目的を達成するための一手段であり、また道具であることを忘れてしまってはいけないと思う。

何故こんな話かというと、整体にも「技」は付き物だからだ。整体の仕事の実態(目的)を突き詰めると対象者がほっとして安心することである。安心すると身体はゆるむ。ゆるみは自然の姿であり、後は「そのまま」いるだけで「時」が治すのだ。そのために高い技術が要るかといえばそうとは限らない。あるならあった方がいいけれど、なくても「ゆるむ」ことは充分あり得る。

と、ここまで書いてきて、整体の於ける「〈技〉とは何か」と思い返すに至った。

煎じ詰めると、こちらの中に起こった「動き」とか「ちから」を相手の裡に波及させることが整体の「技術」だと私は思う。つまりはクライエントの内側に起こるイリュージョンであり、このイリュージョンが起こるように誘うのが整体指導の要とも言える。蛇足になるがイリュージョンには「幻想」という訳の他に、「錯覚」や「思い違い」という意味も含まれる。

「錯覚」を甘くみてはいけない。心の中で「うっかりそう思った」ということは侮れないもので、それは当人にとっては「真実」なのだ。考えてみれば整体も心理療法も事の起こりは「催眠」から出発したものだし、心の転換こそが健康を指導する際の要とも言える。人間の身体上に起こる様々な変化の中には時に奇跡や魔法を想起させるほど劇的なものがあるが、心の仕組みを探求し、解き明かすことが出来れば必ずそこには「理」があり「仕組み」があることが判るはずだ。

この仕組みをどこまでも冷静な眼で、一つひとつの事実を洗いながら解析していくことは、人間を理解し導いていくためには大切なプロセスである。治癒に関わる世界にいると魔法のような現象にはしばしば出くわすが、魔法というのは無知と錯覚の産物である。思わず目を疑うような結果に幻惑されて事実を解析する冷静さを失ってしまっては、「魔法のような技術」にはいつまでたっても辿り着かないだろう。

地道な研鑚、実践と検証の繰り返しこそが、やがては再現性の高い確かな技を生み出す。そしてどの分野にでも見られるように、「王道」と言う時には、それは当人にとって必要な長い長い回り道を意味することが多い。

少し技術の習得論にそれたが、実際に相手の世界に良質の錯覚を起こせるようになれば、それは心身を好転させる手段としては強力な武器になる。そのためには相手には今「どんな世界が見えているか」が推察できる察知と共感の能力も不可欠と言える。最初に感じとり、共感し、相手と一体となってある種のビジョンを生み出すことができれば治療はほぼ成功したと言っても良い。そのための仕掛け(タネ)さえ解ってしまえ魔法はただの技術になり、驚くような現象も平凡な物理変化となる。

整体の名人野口先生の技も「魔法」や「奇跡」と称されたけれど、心の実体をよく理解されていた先生にとっては「当り前の現象」だったのかもしれない。もちろんそこに至るまでには裏舞台に隠された膨大な修業の積み重ねがあったことも思い浮かぶ。私もこれからさらにたくさんの回り道を歩みながら、錯覚を起こす技を育ててきたいと思う。

言語化の壁

以前に比べて最近はめっきり「整体」を語らなくなった。実際に人を前にすると整体についていろいろしゃべれるけれど、不特定多数に向けての文字化にはとまどうし躊躇する。誤解をおそれるのかも。だから語らないというよりは「綴らない」の方が表現としては正確かも知れない。

どっちにしても言語化したものからは「核心」が抜け落ちてしまうと思う。老子には「知るものは語らず、語るものは知らず」という言葉があるけど、ちょうどそんな感じだ。言葉は「核心」の周りをぐるぐる回遊する衛生みたいだ。

でもその衛星たちは「核心の水ぎわ」までは親切に連れて行ってくれる。その親切が最後の最後で壁を突き破る時にはジャマになるのだから面白い。

整体は聞いて理解するものではなくて、体験して得るもの。「体験してみたいな」という気になってもらうためには言葉は有効なのだから、もっと言葉の勉強が必要なのかも。言語化の壁というよりは自分の表現能力の壁なんだね。

飲食男女

老荘研究のパイオニア福永光司さんと河合隼雄さんの対談本『飲食男女ー老荘思想入門』を読んだ。タイトルからして何のことか‥と思ったらどうやら人間の生命活動の根源的な動きを象徴した言葉らしい。つまりは自己保存の要求と、種族保存の要求。俗に「花より団子」という言葉もあるけれど、この世の中の活動は花と団子が生命エネルギーの根源といえる。

特定の宗教では人間における動物的な欲求を否定的に見る向きもあるけれど、実際は身体が整うと生理的欲求はノーマルになる。例えば異常食欲なども身体の自然をコントロールしようとし過ぎてしっぺ返しを食っている訳だ。身体のもともとの感覚に親しんで生きれば、終わりの見えないダイエットや過食症などとも無縁の生活になる。

さりとて「自然自然‥」としきりに言ったところで、これがなかなかに難しい。生き物の中で人間だけが自然を体現するために鍛錬が要る。鍛錬というとまた「筋トレ」みたいに人為的になりがちだけれど、これともまた違う。身体の感覚に耳を澄ませて、「感じて動く」という自然体(感動体?)を養うのが鍛錬。だから修養といった方がもう少しシックリいくかもしれない。

「無為をなせば、治まらざるなし」という老子の言葉を手繰れば、「何もしない」ということの功徳を窺い知ることが出来るものだ。「無為」と「野口整体」は共に自然と手を取り合って遊ぶ態度を現すもので、呼び名は違えど核心は同じである。どちらも人工的なものが9割以上占める現代文明の中和剤に成り得る。

福永さんの論では自然を人工的な知識で統制する文化が儒教的な馬(北)の文化で、自然に逆らわずゆだねて生きる道が道教的な船(南)の文化なのだそう。今の時代どっちも必要ですね、という河合さんのまとめによって自分の職業的立場もピタッと定まる感があった。勘とか野性を主(あるじ)として、思考はその従者であることが望ましい。活元運動で個人の身体から社会機構までバランスを取り戻そうではないか。

2002年初版の本だが、この両先生がもうこの世にいらっしゃらないのがさみしい。それも自然のならいなんだけど。

何もしないという技術

この2週間くらいずっと『荘子』を読んでいた。野口先生は多方面に渡って深い学識を備えた人だったが、中でも最大のよすがとしていたのはやっぱり荘子だと思った。整体の智の中には禅も生きているけれど、その縦横無尽の自由性は老荘思想に裏打ちされたものだったと、4冊の文庫本を前に唸っていた。

一言でいえば「この世界」に対する絶対的な信頼とでも言ったらいいだろうか。一神教によく見られるような、世界を生みだした「全能の創造主」という気配は全くないが、兎角この世は人智を超えた「絶妙のしくみ」によって廻っている、という訳だ。

その絶妙さは当然人体にも反映されて、人間的な「はからい」をやめてその完璧さに委ねることさえ出来れば、生老病死に関する一切の問題はその場で消えると説く。

煎じ詰めれば人間は「何もしない」ということで最大の功徳を得られることになるのだ。人為の精髄ともいえる「科学」に支えられる現代社会に照らしてみれば非常に穿った見方になる訳だが、そもそもが紀元前から受け継がれたこの老荘思想が実社会で完璧に実現した例はおそらく無いだろう。

元は動物であるヒトが今日まで「人間」としての立場を築き存続させてきた要因は、やっぱり「理性」だろうし、自然に抗する「能動性」だろう。これらがなくなると人間といえども畜生道に堕ちてしまう気がしてならない。だから元より理性を捨ててしまう必要などはないけれど、「能動性と同量の受動性があった方がいいよね」というバランスに落ち着く。要は今さら珍しい話でもなくて、自然支配から共存共栄へのシフトだ。

これを整体という人間生活のフィールドに置き換えると、「頭脳」も使うけど「感覚」も活かそう、ということになる。順序としてはまず「感じ」て、それから必要な分だけ「考え」ればいい。現代は考えることがずーっと先行して、ともすればそれが全てという風潮に偏っている。だからこそ今微妙に「野口整体」がウケているのだと思う。女性のヨガブームも山ガールも自然回帰の本能という点では同質のものだろう。ちょっと世間を見渡せば、少し前から「スローライフ」とか「頑張らない」、「競争しない」なんていう概念もちらほら見かける。老荘思想とこれらは親類、子孫みたいなものだ。

荘子の思想から一つ抜き出すと「無為」という概念は重要なキーワードである。超訳すると「何にもしない時に一番うまくいく」という感覚になるが、この辺が非常に繊細だ。整体の仕事に置き換えて考えると、クライアントさんに対して「ナニもしないのがいいんだから」と決め込んで本当に抛っておいたら職務放棄になってしまう。よく見ればこれは「ナニもしない」、ということを「やって」しまっている。

だからナニもしないことをする訳でもなく、ナニかする訳でもない。そのどちらもスパッと「無い」のが理想だろう。一切の行為から「自分」らしい気配が消えたらしめたもの。昔から日本の芸道なんかでは「無我の境地」を好んで目指したりするけれども、東洋の中でも取り分け日本は「意識を静める」ということに最良の価値を置く文化だと思われる。

23日の修養会では、一つその辺をテーマにやってみたい。静めようとして鎮まるのではなく、ヒトが自在に動いた時その動きには自ずと静寂が宿る。病気の時によく勧められる「静養」というと絶対安静みたいになるが、こんな風にただ動かないだけだと結局動きたくなってザワついてくるものだ。

もっと自然に自在に動くつもりになればいいのかもしれない。「動中の静」とか、まあ言葉はいろいろと何とでもなるけれど、結局のところ「静けさ」は身体能力なのだ。自得しなければ力にならないし、それは身体で学ぶということだ。整体の面目もこの体得、体認にある。やってみたいという変わった方はどうぞお越しください。

親は「越える」ものか

「子供って結局親のキャパは超えられないんだなって思いました。」

とある教育関係の方からこんな言葉をうかがった。

私は私で毎日身体を通じて人の生きる姿にふれているので、「ああ、一面的には確かにそうだ。」と共感した。

自分ではそれまでうまく言語化できなかったけれど、いつも心の中でぼんやり捉えていたもの。

それが「親のキャパ」という一語で形を与えられた気がした。

 

少し視点はずれるけど、気づけば最近は「子を見れば親がわかる」とか「親の顔が見たい」などという言葉も余り聞かなくなったと思う。

もしかしたら戦後民主主義、自由主義の流れで、子供の人格は親が責任を持って育てるもの、という気風が薄らいだせいかもしれない。

仮にそうだとしても親の影響力については誰もが一度は考え、突き当たる壁だろう。

NHKドラマの「オカムス」が反響を呼んだのも、誰の中にもある潜在的な親子関係の機微みたいなものを微妙に刺戟したのではないかと思う。

 

何にせよ、多くの場合人間は最初に「親」という見えない枠内での成長を余儀なくされる。

その枠は大きさも形態も様々で、四角四面というのもあるだろうし、円いもの、とげとげしたもの、無秩序にうねったもの、などなど、十人十色、千差万別なのだ。

だからこそ人間はその数だけ固有の生き方があるし、

人生のドラマだってそこにある。

 

その中で子供と言うのは、特に幼年期は無自覚に親をコピーしながら大きくなるのもだ。

実際に「親との関係性」がやがては「病気になる、治る、治らない」ということまで波及してくる。怪我にしたってまた同じことがいえる。

 

そもそも「身体」というのは潜在意識が具現化したもの、と思っていればほぼ間違いない。

だから…、

本当に「自分の健康とか幸せ」ということに根本から向き合おうとする時、最後は必ず自分の自我が自分の潜在意識と対面(時に対決)することになる。

そしてそこに必ず親の影がある。

これが悪癖として見做された時、しばしば「親を越えよう」という言葉を耳にする。

これはなんとなくわかったような、よくわからないような、いわゆる「思考停止」の言葉だと思っている。

 

例えば、父(or母)が酒飲みだったとして、

「自分はあんな酒飲みにはならない」といって一滴も口にしない、としたらそれは「越えた」と言えるだろうか。

むしろこれは「反発」という形で凝固し、親の影響下から出られていないモデルの典型だろう。

もしそこで、「親は大酒飲みだったけど、私はあんまり強くないのでほどほどに嗜みます。」と言ったら、その人はこれまでの人生のどこかで、「大変な所」を越えて来ている人なんだと私だったら思う。

 

そんな時は「越えた」というよりも、

「消えた」とか「抜けた」とか「解けた」

と言った方が自分の場合はしっくりくる。

これは単なる日本語感覚の相違かも知れないけれど、

「越えた」、というのは依然としてそこに何かが「残って」いる。

だから越えたということすらもう忘れてしまって、本来最初にあった自由を得た感を表現したい。

だからそんなものは「もうどうでもいい」というくらいに、サッパリと「消えた」というとしっくりくるんだろう。

 

その昔中国にいた臨済というお坊さんが禅の妙機について、「仏に逢ったら仏を殺し…父母に逢ったら父母を…」という言葉を残したようにコロしてしまうのだ

これはうっかり理解を誤ると危ういだけれども、

自分の「命」というのは本来、過去・未来、そして現在の一切の関連から離れ切っているものだ。

だから「親が生んだ」というのは間違いなく過去に行われた事実なんだけれども、同時にそれは現在の思惟であって「真理」ではない。

そういう「自分」とか「今」とかいわれる純粋無垢な存在に気が付いたら、そこで一応の「疑念」は吹っ切れた、ということになるだろう。

だから「越えよう」とか「越えたい」みたいに、概念を相手に一人相撲をやりだしたらそれに掴まり、嵌って、泥仕合になる。

 

そこで世の中の宗教家とか教育者とかカウンセラーとか呼ばれるような人たちが救わないといけないのは、そういう心のシコリに掴まり、嵌っているものを(できれば本人が気づかないうちに)手放してやること、だと思うのだ。

仏道の世界では修行が一定に捗るまで家族・知人との連絡が断たれ、肉親の死に目にも合わせない、という形態の行が残っている。

それはつまり、今まで自分のリミットを形成していた「親のキャパを外すため」に行なわれているのではないだろうか。

キリストですら成熟した後に故郷に戻っても歓迎されなかったのだから、「生まれ」と「育ち」はそれだけ手強いのだ。

 

ところで「修行」さえすればそれでいいのか、というと時には過度に強硬な修行が自我をより強固に歪めてしまう可能性もあるから気を付ける必要もある。

それとは逆にいわゆる「俗世」といわれる所で生きていても、今までの自分ではどうにもならない難局にぶつかり、気合で親のキャパを打ち砕いて擬死再生の契機を得ることだってあるだろう。

 

そういう変化の中で、比較的緩やかなものは「成長」と呼ばれ、急激なものは「一皮むけた」とか「化けた」とか「悟り」なんていわれる。

その先にやがて、

親は親、自分は自分、という、

「自立」へ至る道が続いている。

 

私はそのカギを握っているのが無意識だと思う。

生きた身体と同じように、人間の心には一過性に曇っても偏っても、絶えず全体性を取り戻そうとする「ある作用」が働いている気がするのだ。

コンクリートやアスファルトをめくり上げて伸びてくるやわらかい草のように、顕在意識が起きている時でも眠っている時でも一分一秒、じっとその機を伺いつつ根を張り葉を伸ばしてくる。

その力があるからこそ「もう駄目だ」と思うようなことがあっても、大半は時間とともに盛り返してやがて安全圏まで辿り着き、時にはそこから成長や飛躍にまで発展して行く、ということが人間には起こるのだと思う。

そしてそんな風に自分の中にある、「いのちの力」を信じられるようになったらもう十分だ。どんなお守りよりも心強い。

 

そうやってずっと考えていくと、親のキャパという外枠によって

自分の力を自覚できる、とも言えないだろうか。

これは蒸気機関と同じ原理で、外圧があるから内圧も存在し「仕事」ができるのだ。

そういう可能性が人間という生物には等しく内在しているのから、この世に興味は尽きない。

 

だから、

親は越えなくていいし、いわんや恨みごとなんて一切無用と思う。

「親のキャパ」、なんていう見えない壁は、

越えず、破らず、消さずに

「活かす」

そういう視点を持てたら、今までの自分もきっと乗り越えられる。

苦楽は一瞬で逆転する。

やがては「親子」という不自由な関係を、少しずつ高次元で自由な関係性に育てていけるのではないだろうか。

これは「親」に限らず、

自分のキャパを形成しているすべての枠に言えることで、

不自由こそが自由の種なのだ。

摩擦があるから自動車は走るし、抵抗があるから飛行機も飛ぶ。

不自由を活かす力は必ずあなたの中にもある。

そういう力がみんなにあるから、

私も今日まで折れないでこの仕事がやれていると思う。

最初の設問から長くなったけど、この年になってはじめて親子というシステムはよくできているな、と無理なく思えるようになったと言える。

育ての親、産みの親、いずれにしても「親」はありがたいものなのだ。

せめて、人間になる

人間と動物の違いは「腰」があるかないかだ。と、最近につくづく思うようになった。

もう一つ、精神的に人と動物の違いは何かといえば、「主体性」ということではないだろうか。ではその主体性って何だといえば、自分の意志、決断で行動していく力だ。

ともすれば「動物にはそういう主体性などないだろう」とも思われがちだが、実際は動物こそが主体性の塊だ。

 

一般に言われる「俺はこうする」、「自分はこうやる」というのは本当は主体性ではない、と私は思う。

その「俺」とか「私」が初めからないのが動物の最大の強みであり弱みである。基本的に無条件の活動体として生きているのだから完全に「自由」なのだが、その反面、運命とか成り行きというものと一体化している点では木石と同種・同類といえるかもしれない。

 

その点人間の場合はどうかと言うと、動物にはない自我という大変便利な意識がある。が、その自分で創り上げた「自我」という枷にしょっちゅう躓いてもいる。愚かと言えばそうだろうし、整体で「ポカン(頭を休める)」を説くのはそういう枷を外すためなのだ。

 

そのために必須となるのが、「腰」。

 

古来からヨーガでも禅でも静坐でも、東洋における瞑想系の修行では背骨の形態が重視され、これを地面に対して垂直に立てることが入り口でありゴールでもある。

実際こうすることで「脳」が切り替わることが最近の自然科学のほうでもかなり明らかになってきたそうである。

「腰を立てる」ことを教育の第一義に据えた哲学者の森信三氏に至っては、

「つねに腰骨をシャンと立てること―これ性根の入った人間になる極秘伝なり」

と断言している。

 

さて、整体でも「背骨」を重用するけれど、これを単に意思力で真っ直ぐにしようという訳ではない。

このあたりが同じ東洋系の行法の中でも「異質」だと言えるだろう。

 

余談だが整体は「東洋医学」の一分野だと誤解されやすい。が、それは違う。

創始者がたまたま日本人だったというだけで、これは万国共通の“人間”を解き明かした普遍の真理なのだ。

 

その縦糸の一つは生理学だと思うのだが、「背骨が真直ぐに通る」というのは元来筋力に頼るべきものではない。

むしろ身体から一切の筋緊張を排した時に、気が通り、一本の筋(智)が宿る。

それは幾何学的な「直線」とは異なる「まっすぐ」となる。

 

この時に「俺が、私が」という自我の意識が沈まり、「一体」という観に没入する。いわゆる没我とかいわれる境はこれだろうと思う。

世間全般にリラックスブーム、脱力ブームであるのも何かと気ぜわしい世相の潜在需要を物語っているのだ。

 

野口整体で奨励する活元運動はそういう脱力運動の精髄だと私は思う。

「個人個人に、その時必要なものが、適量行われる」、という点でパーフェクトなのだ。

これを専一に行っていくことでポカンの深度は漸次深まっていく。

そして「腰」が形成されていく。

 

この二足歩行の要となる腰が動物と人間を分けたものであり、この腰がぐらつくと人間は主体性を失う。

動物が元来持っている主体性を再度獲得するために、動物にはない身体意識(腰)が要るのだから面白い構図だ。

 

「人間」というのはそういう、どこまでも後天的教育を要する文化の産物だ。

整体の目的をずっと煎じ詰めていくとどうなるか。それは「ヒト」を「人間」にすることかもしれない。

人間とは何か、という問いがまたここで求められるけれども、そこには「質」の高低差も当然あるだろう。

 

つまりは先に述べた「自我」。これを上質にするために一歩一歩進んで行く意志を有した者が「人間」であると信じたい。

そういう「せめて、人間らしく」と自分を励まし歩む人にとって、整体は最良のよすがになるだろうと思っている。

自分を取り戻す物語

手塚治虫の作品に『どろろ』という物語がある。

連載開始が1967年という古い(半世紀前の)作品だが、アニメにもなったし続編も含めて複数の漫画家の手によって何度もリメイクされ、実写での映画化もされている。だから、メジャーではないにせよ未だに知名度のある手塚作品の一つだと思う。

 

『どろろ』-あらすじ(冒頭)

室町時代の中ごろ、武士の醍醐景光は、ある寺のお堂で魔物に通じる48体の魔神像に天下取りを願い出て、その代償として魔神の要求する通り、間もなく生まれる自分の子を生贄として彼らに捧げることを誓う。その後誕生した赤ん坊は身体の48箇所を欠損した状態で生まれ、母親と引き離されて化け物としてそのまま川に流され、捨てられてしまう。医者・寿海に拾われた赤ん坊は彼の手により義手や義足を与えられた。14年後、成長した赤ん坊は百鬼丸と名乗り、不思議な声に導かれるままに自分の身体を取り戻す旅に出る。…(ウィキペディアより)

 

主人公の百鬼丸は実父によって身体をばらばらにされてしまう。魔物に奪われた状態で生まれてくるのだが、これを一つ一つ、自分の力で取り戻していく話だ。

 

私はある時期このストーリーに著しく惹かれた。

自分の身体を自分で取り戻す。

しかもその身体を奪ったのは肉親、父親なのだ。現代風にいえばこれは「毒親」かも知れない。

いわゆるSFだが、この構図を知った時はどうにも看過できなかった。

 

ところで整体指導という仕事は、錆び付いた身体感覚を覚醒させる(取り戻す)ものだ。

生命というのは本来全きもの。欠けたところはない。

それなのに多くの人が成人するまでにあらゆる部位を(比喩的に)「欠損」してしまう。

思うように動かない身体、感覚されない身体、

何故だろうか…

 

それは「躾・教育」という名のもとに本々の「その子らしさ」を曲げられたり、覆い隠されたりしてしまうからだ、と私は思う。

 

それも誰あろう、そのほとんどが養育者や保護者による愛情の手によって癖付けされた結果なのである。

さらに百鬼丸と同じように、はじめは何故自分がそういう境遇で生まれてきたのかを知らない。

それどころかその悲劇性に気づいてすらいないのだ。

 

ところが自分自身が主体性を持って「生き」はじめたときに、本人はいつしか言い知れない違和感を覚える。

それはどこかが決定的に「悪い」というはっきりした異常感ではなく、

何か変だ、妙だという、うす甘い、鈍い感覚として。

 

そして少しずつ勇気を出して自分のルーツを探り始めるようになる。

それにつれ障害(魔物)があわられ、今の自分の実力でぶつかり、傷つき血をながしながら、どうにかそれを突破(倒)して、自分の身体を一つ一つ取り戻していく。

 

そうやって一回限りの「人生」という物語を創っていく。

戦い傷つくたびに自分のルーツが明らかになっていく。

そして「事実」が浮かび上がる度に、悲痛な思いが全身を支配する。

この姿は整体やカウンセリングの臨床における「クライエントの成長過程」に似ていると、私の目には映ったのだ。

 

劇中の百鬼丸は当初、義手義足のみならず、目や耳、鼻、五臓六腑、あらゆるところが人工の代替品で生活している。

生活自体は出来ている訳で、

このままでいれば、このまま…、何とかやっていけなくもない。

しかし何もしなくても問題は向こうからもやっていくるのだ。

 

人はどうしても自分の宿業とぶつかりながら、自分を取り戻すための道を歩むはめになる。

みんな大なり小なりその身の内に、何かしらの悲劇を持ち合わせているものだ。

 

それなら、

身体を失うこと、自分自身を見失うことは、

不幸なことだろうか?

…と、改めて考えてみると、

今の私は一概に不幸だとは思わなくなった。

 

それどころか程度の差はあれ、人生の本質とはみなそんなものだと思うようにもなっている。

整体をやろうとやるまいと、人格の全体性に向かってじわっじわっと日々よじ登って行くのが「人間」なのかもしれないと、

今はそう思う。

 

そもそも人の生き方は「幸・不幸」という2つの原色に分けられるものではないし、

不幸の只中に幸福の種を芽吹かせる栄養が在り、幸せに満ちた時すでに不穏な気配に包まれていた、というような経験を持ち合わせている人はきっといる筈だ。

もしかしたら不幸をひっくり返して幸せに変えていく仕事こそが、人間に生まれた最大の醍醐味かもしれない。

それも「誰か」と伴に。

 

物語の中で百鬼丸は旅の途中では何度も失意に暮れ、行き詰る。

そこで、必ず「人」に出会う。

人は人に躓くが、その躓き傷ついた人を救うのも、やっぱり「人」なのだ。

 

漫画『どろろ』では、芋虫同然の体で生まれた百鬼丸に最初の義手義足を与えた医師・寿海がいるし、折に触れふらりと現れては助言を呈する琵琶法師など、主人公に対し無条件の味方となって手を差し伸べるキーパーソンが複数いる。

これと同じように整体指導者やカウンセラーは基本的にクライアントの味方である。

そして「どろろ」のような相棒でもあり、伴走者になる時もある。

また時には主人公を苦しめる「敵役」のような役割も担う。

なんであれ、一人の人間が十全に育つには、善とも悪ともつかない肉薄した位置で、相手に本気で関わり合おうとする「人間の力」が不可欠だ。

 

四国お遍路に「同行二人」という言葉が付いてまわるように、

「道を歩む」には、見守る人の存在が重要なのだ。

 

これを治療の現場に置き換えて考えてみると、

「治る」ということは、実は苦しい作業なのである。

私は勇気を出して治っていく道を歩む人に、励まされることが多い。

だから自分が「見守る人」なのかというと、とてもそういう一方的な立場に立つ感覚は持ち合わせていない。

 

私に限らず、みんな自分の物語の中で「失われた自分を取り戻す」旅をしている、と思っている。

この世界はそういう「人」の交わりで構成されている気がするのだ。

道に迷いそうになった時、

その傍らで本気で生きている人の放つ輝きが、自分の足元を照らず光りになる、ということがある。

ひと言でいえば、

「旅は道連れ、世は情け」

だとすればそういう意味で、この世はみんなお互い様のお陰様、ではないか。

 

話は戻って、

実はこの『どろろ』の原作は完結していない。

打ち切りのような形で終わったらしいのだが、

そんなところも私は好きだ。

 

百鬼丸が全ての身体を取り戻して「おしまい」なんて結末はありえない。

生きているとは、目的地のない躍動なのだ。

道の途上を全力で生きて、その途上で死ぬ。

不完全という形で完成された今を、精一杯生きるとき命は輝く。

 

何処にでも転がっている輝きではないけれど、

その可能性は全ての命の中に宿る。

私はその輝きを間近で見たいがために、

自分の命を光らせたいと、

今も道の途上でそう思っている。

戦艦大和を創った身体

先週は妻の法事に同伴して3日ほど広島・呉に行ってきた。期せずして小旅行になったのだが、呉といえば今も『この世界の片隅に』を思い浮かべる。それほど自分にとってはセンセーショナルだったし社会的にもまだその余熱を感じている。

アニメの情景をイメージしつつ現地に着くと北は山(急な斜面)、南は海という景観は確かに映画の一場面を彷彿とさせた。

初日は大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)に行くことになった。館内は膨大な情報量で一つ一つ丁寧に観て回ったら1~2時間では到底見きれないボリュームである。戦艦大和の建造から最後の戦いに至るまで、各周辺の情報と展示物が満載なのだ。

実際「大和」の名前こそ有名だが細部に関しては知らないことが多い。

大和 1941年に竣工、排水量6万4000トンを誇る、旧日本海軍の超弩級戦艦。当時では世界最大級の戦艦だった。沖縄に出撃途中、米軍の攻撃を受け撃沈。この情報は当時発表されなかった。(映画『この世界の片隅に』HPより)

例えば最大時速は50kmとあり、想像していたよりもはるかに鈍重に感じたものだ。加えて運用コストがものすごく掛かったらしい。合理性より情緒を重んじ、手段と目的が入れ替わりやすい日本人の特性が現れている点で、やはりこれは“象徴”だと思った。

ところで戦争関連の情報に触れると必ず頭をよぎるのは、幕末から昭和にかけての日本人の急変ぶりである。小泉八雲などは、これだけの歴史的激震に耐えながら国家の主体性を失わなかった例を他の国ではみないと論じている。ピーター・ドラッガーも日本民族は世界屈指の問題解決能力を有していると賛じているのだ。総じてこの国は歴史や伝統に固執する頑なさと、機をみては変じ適応していく二つの特性を併せ持っている。

例えばこの大和という戦艦が完成したのは1940年である。黒船来航が1853年だから、蒸気船の威容に幕府が震撼してから、薩長の新政府が立ちあがって国産の軍艦(世界最大)が建造されるまで100年と経っていない。

古来から他国の知識を吸収し、新たな価値を生み出し発信するというのが日本の特技である。かつて中国から伝わった刀剣が国宝級の美術品にまで高められたことなどもその好例だろう。「職人魂」というのか巧緻な模倣力を基礎に物事の本質を掘り下げ、潜在する可能性を発掘する力に長けているのだ。

模倣という視点を少し広げれば、往時は帝国主義・富国強兵という国家レベルでの模倣の対象が身近にあった。だからこそ世相全般が上昇傾向にあったのだと私は思う。「こうすればいい」という具体的な手本があることで回り道をせずに進化できるのだから、1年・3年・5年という僅かな歳月でもその姿はがらりと変わっていく。幕末から明治という時代、峻烈な社会情勢に付随して躍動の気配が定着しているのはそういう事情によるものと思う。さらにいえば戦後も米国など模倣の対象は身近にあり続けた。

ところが現代はどうかというと情勢はだいぶ異なっている。国の形、人間の姿、何を規矩としてどこに向かったらよいのか。はっきり「これ」だと答えられる人はいるだろうか。個人的な好みはあるだろうが、一体全体どこに向かっているのかという「全体性の流れ」そして「先行き」というのが一見して掴みづらい。

時に感性論哲学の芳村思風氏が「東洋の逆襲」という観点を打ち出してから久しい。中世から近現代まで続いた西洋から東洋という文化の流れが、東洋から西洋へと逆転し始めたという主張である。現実に西洋の一部の人が東洋から何かを学ぼうという姿勢を俄かに感じる。その何かを一言でいえばそれは「精神性」だと思うのだが、身心と一(いち)として見る整体の立場からみれば、それを「身体性」と言い変えたい。

東洋と西洋は精神も違うが、それ以前、土台としての身体が違う。近代日本は西洋の合理性を手にした時に、固有の身体性を喪失した。そう思うと今の日本が「やまと」から学べることは大いにあるだろう。失われた身体を復興するための、体育を中心とした教育の潜在需要を感じるのだ。

かつては農耕という文化的背景を基礎にした強靭な下半身と長い息が備わっていた。これを養うために、歩くことも正坐することも激減した現代でそれをいかに行なうかが課題である。活元運動はもちろん奨励するのだが、「坐る」という技術を行うには積極的にその効用を説く必要がある。「一坐の功をなす人も積みし無量の罪ほろぶ」という坐禅和讃の一節を、体感的に理解できるようにと整体指導の意を新たにする次第である。