背骨感覚を練磨する

精神療法の世界でも現代は身体から心にアプローチしていく手法が多数考案され実践されてきている。このブログには何回も登場しているがアレクサンダー・ローエンのバイオエナジェティクスなどはその好例である。

しかし「体が整うのは難しい」の記事でも書いたが、体から心にアプローチする数ある手法のなかでも「質」という点では野口整体は他のあらゆる方法と比較しても群を抜いている、と思う。そもそもが基本的に体と心の間に「距離」を設けて見ていない。そこは「身即心、心即身」という不即不離の関係を見い出し、最初から一つのものとして決着している。そこが文字通り根本的に違う。

近年は巷にも「体をリラックスさせれば心もリラックスできます」、あるいは「体が整えば心が整います」という謳い文句はあふれているが、そのリラックスや整い方を追究すると具体性はゼロにひとしい。

いわゆるリラックスということで言えば、ムードとか観念的なもの(ノリ)に流されやすく、「まあ気はココロで、よくなったような気がする」といった程度のところで妥協しようと思えばいくらでもできる。

また「体が整う」にしても背骨が真っ直ぐに見えるとか、肩や骨盤が水平であるとか、そういった次元のもので済まされているものも少なくない。背骨に着眼しているというところまではいいが、その多くは整体的観察眼や審美眼で捉える「背骨」とはかけ離れた物体を見ているという気がしてならない。

生きた人間の身体はたえず動いている。その中でも中枢神経系の通り道である背骨はその生体活動の現状をつぶさに写し出しており、これに対する整体の観察と読みは精緻を極めるのだ。

何故そこまでして背骨に執心するのかといえば、背骨が利かなくなることはその肉体の部分的な居眠り状態を意味するからである。それは身体の中の一部が稼働しないまま生活しているということであり、これを自動車に例えるなら当人の知らない間に故障個所をいくつも抱えながら走行しているようなものなのだ。

ただし人間の身体は機械のように単純ではなく、また無思想に動いているわけではないので多少の故障・居眠り箇所があっても他がそこを補って動きづづけられる。そうした目に見えない無数の安全弁の働きの支えられているからこそ、誰もが一見して円滑な生活を送ることが出来ているのである。

ところがそれも当然、プロスポーツや技巧的職人の様な心身共に高度な技量を要求される仕事をするにあたっては大きな障害になるし、また何らかの事情により一定期間つよいストレスにさらされた場合にもそうした背骨の鈍りはケガや故障の遠因となる。

そういった事情から整体指導の臨床ではまず背骨の観察が要となり、また被指導者の背骨感覚の養成が重要課題となっている。これを鈍らせている「生活習慣」や「思考態度」、「動作的な悪癖」をひとつひとつ露わにし、漸次再教育を行っていく必要があるのだ。

ところが一般的には、少々具合が悪い程度のものならそこらの整体院(代替療法)に行って、本当に重篤な症状や病名が付いたら病院に行く、という態度の人が多いと思うのだがこれは全く残念な了見違いというものである。

強い痛みが出てからようやく身体のことを思う様な、そういった鈍重な感覚のままでは整体指導は行えない。もちろんはじめは全く訓練のされていない、感覚の鈍麻した現代人の身体からスタートするのであるが、いつまでもそうした低い身体性のままでよしとするようなズサンな感受性では、早晩整体指導を受ける資格を逸するであろう。

わずかな変調に対しても機敏に反応し、感受性を順ならしめることで自らの心身を先に先に整える。そうして生活の質的向上を図るというのが整体指導の本来の姿なのである。その感覚練磨の中でも文字通り柱となるが背骨なのだ。繰り返すがここが全身の中枢神経系であり、身体全体の円滑な運用を司るコントロールセンターなのである。

まずはその重要性を「知る」ことで整体の入り口に立つことができるし、実践し体現するのはさらにそのはるか先に位置している。整体とは人間にとっての峻厳な霊峰であることも知らねばならない。全生への道とは斯様に果てしないものなのである。

こわすときは一瞬、治るのはゆっくりゆっくり

整体の知見と世間のそれはさまざま面において異なる。その一つ一つをあげて説明していったらゆうに1年は講座が組めるくらいの面白さだが、その中でもつねづね思うのは「打撲」に対する見解の相違だろう。

打撲は恐ろしいのだ。一般的にはゴチッと打って「痛い‥」とうずくまって、しばらくして痛みが治まったら、もう大体いいんだろうと思われがちだ。しかし身体を丁寧に観ると打ったところとその周辺には何か動きが制限されているような、そこだけ時間が止まったような印象が残される。期間的には年単位、あるいは何十年とそのまま放置されることも珍しくない。

場合によっては打ってから、だいぶ経って患部からずっと離れたところに変動が出たりもするし、まあとにかく生きた身体に対する観察眼というか、見慣れた人にとっては容易に見つかる変動だけれども、何しろCTとかレントゲンには写らないので打撲が契機となっての体調不良というのは一般医療の死角になりやすいのではないか。

「どうやったらそういう古い打撲の跡は治るんですか?」というのが次なる関心の焦点だが、これは‥いろいろな代替療法があるので、「対応法は無限にある」というのが正解だろう。しかし、国内外のいろいろな民間療法を受けてきたような人を受け持つことがあるけれども、こういった打撲様の古傷に関しては整体法の独壇場ではないかと思うことがある。まあ実際世の中は広いし、「知らない」だけですばらしい治療者はたくさんいる。うかつなことは言ったらいけないけれども、整体法が古傷に関して一定に有効だというのは間違いない。

例えば整体以外では、骨とか関節にショックが残っているのは、再度同じ様な力を反対にかけて正規の位置に戻す、という考え方がある。つまり右に曲がったものを左に曲げ戻す的な発想。ところがこういう系統のものはほとんど功を奏さない。メカニズムを細かに説明できないけれど、人間の身体というのはもの(無機物)ではない。過剰なストレスがかかるとこわれる、という点ではものと同じだけれども、生きた身体というのは時間とともに治る方向へ動く。ここが違う。

そしてこの「治る」という構造についていえば、早く治そうとしても治らない、ということは知っておかねばならない。こわすときは本当に一瞬である。あっという間に致命傷までいきかねないのに対して、治るというはいつだって中庸の速度。丁度いい具合に治っていく。

ところがこの中庸は、人間が焦るとすごくノロく感じる。相対的な問題なのだけれども、人間が早く早くと焦れているとものすごく遅く感じるものだ。ところが本人も忘れていてふわーっとしていると、知らない間に治っている。そういう性質なのである。打撲はこの自然治癒が滞りやすいので、他者が気を集めて手を当てることで治り始まったりする、という話なんだけど。

まあそれにしても、そうやって治癒を手伝っていったとしても、古い打撲の経過というのは焦ってやろうとしてもむずかしい。首とか膝とか、そういう可動域の大きな関節周辺の怪我ならなおさら強い力は使えないし、じっと手に気を集めて触れながら看ていく。そういう方法が安全で、なおかつ効果が得られやすい、と思う。

いわゆる野口整体の愉気法だけれども、愉気をすることで古傷が痛みだしたり、その場所に汗をかくようになったり、お風呂に入ったらじんじんしたり、というような「反応」が現れやすい。こうなると時間が止まっていたところが動きはじめて、治りはじめたと考えていい。ようやく自然経過のはじまりである。

愉気のコツの一つは焦らないこと。ずーっと見守るように触れて観ていく。そうすると少しずつ秩序にならって、精緻に変化していく身体を愉しみながら観ることができる。こういうことをしばらくやってみると、身体を粗雑に使ってズバッとこわすようなことに対して嫌悪感が育ってくる。他人の身体でもそういう粗末な使い方は嫌だなと思うようになるのだが、いのちを大事にすることに関して、「自分」も「他人」もあったもんではない。

そう、いのちは大事。いうまでもないけれども。だが恐ろしいことに現代はのべつ幕なしに生命が軽んぜられている。そういう、生命に対する礼のない人は整体とも縁のない人。最近はそんな風に思う。こわすのは個人の意思でどうとでもなる、それもほんの一瞬。でも治るのは、大自然の恩恵によって刻々と確かな秩序の範囲の中でしか治らない。

それでも、どんなに愚かな身体の使い方をしてこわしても、いのちのある間は治していただけるのだからありがたいね。この世は本来、大道無門。だけれども、自分のいのちに対してこうべを垂れることのない人は、その門をくぐることができない。自分で敷居を高くして、自分で門に鍵をかける。当世は本当に変わった人々が多い、と感ずる次第である。

体が整うのは難しい

恐らく、これからのカウンセリングという点では、これは日本ということだけではなくて、世界的に、心と体の問題というのは一番大きな問題になるだろうと、私は思います。その中で外国人の人がすごく注目してるのは、例えばヨガとか禅とか、そういうようなものです。体を整えることによって、だんだん心を整えていく、そういう考え方。

しかし、かといって、これはものすごく難しいことなんです。なぜ難しいかといいますと、私の話を聞いて、「よし、これはうちでもやろう」てなもんで、中学校の生徒をみんな連れて、「座りなさい」なんてやっても、これはまず効果はありません。というのは、「座る」ということは大変なことでして、さっき言いましたように、座るまでにずいぶん仕事があるぐらいなんです。そのときに、ただ中学生を下手に座らしても、その子たちが本当に座っていなかったら、これはやっぱり意味がないんです。中学生は、座らされて「足がしびれるなあ」とか、そういうことばかり思っているかもわかりません。

だから先生自身が、自分が座るということが、一体どういう意味を持っているのか、あるいは中学生に座らせるということに、どんな意味があるだろうか。私みたいに五十の人間が座るのと、何でもかんでもともかく暴れたいと思っている子供たちが座るのと、意味が同じなのかどうか。そういうこともやっぱり考えないといかんでしょう。そういう意味で、のべつまくなしにやって効果があるのかどうか、私は疑問に思いますけれども、ともかく心と体の結びつきというのは、どうしても考えていかねばならないと思っています。

そしてこれは単に、いま言っているように、心と体という意味で、体を体を動かすということだけじゃなくて、私はたとえば、箱庭療法をやっておりますが、箱庭なんていうのも、結局やっぱり体が関係してくるんです。砂が手に触れますね。水でぬらした砂なんかをさわってみる。こういうことが、ものすごく大事なことになっているように思うわけです。(河合隼雄著『カウンセリングを考える(下)』創元社 pp.154-155 太字は引用者)

これは河合隼雄先生が昭和55年、大阪四天王寺において「これからのカウンセリング」というタイトルで話された講演内容の一部です。

個人的に非常に面白い、というか心理学と整体的知見の両方にまたがる核心をついた問題提起だと思うのです。

時代性も大切で昭和55年(1980年)というのはちょうどヨガブームの走りにあたり、これから女性を中心にカラダを通じて積極的にリラックスする時間を取ろうという動きがはじまるわけです。

現在はご承知のようにヨガブームはピーク時よりもやや沈静化して、本当の理解者というかコアなファンを基盤に一定の市民権を保持した状態で安定している。つまり心の問題というのに対して体からアプローチしようという切り込みの使命は果したという形で、「ある程度の」功は奏したとみていいと思うのです。

ある程度の、という条件付けをしたのはやはりそこには非常に高い技術を要するからで、「充分に果した」とは言い難いのも確かでしょう。

体を整えることによって、だんだん心を整えていく、そういう考え方。しかし、かといって、これはものすごく難しいことなんです。」という先ほどの引用以降は坐禅を例にとっているのですが、「何でもかんでも坐っていれば、坐らせれば良いわけじゃあないんですよ」といっているのです。年寄りが坐るのと、思春期の子供が坐るのとではもうそこから意味あいがちがってくる、などともいっています。

つまり本来は心身に絶えず起こってくる諸問題というのは個人をよくみたうえでそれぞれの答えを創造していかなければいけないのです。

その「個人をよくみて」というところで、豊富な経験に基づいた高い技術性が求められます。だからこそ「難しい」ということになってくる。

そういう難しさに的確に応えられる手段の一つとして「野口整体」というのは非常に有力だと私は思います。つまり徹底して「身体の様子からその人を理解する」という態度が「これからのカウンセリング」に表された問いかけに対する答えになっているからです。

実はこの講演が行われた時点で野口先生は亡くなられています(1976年没)から、「これからの」というよりもすでに展開している事実があるのですけどね。ただし野口先生が活躍されていた時期というのは河合先生は主に海外で心理学の研鑚を積まれていましたので、おそらく接点をもつことがなかったのではないかと思うのです。

河合先生ほどの見識でしたら、野口整体の真価を瞬時に見抜いて非常に高く評価されたのではないかと思うのです。

つまり野口先生は最初から心と体を分けて考えるのはおかしい、といっているのですから。自らフロイトに高い関心を示し、自身の潜在意識教育の理論を構築するうえで援用もされていますが、やはり近代科学の問題点というのを早期に看破しています。つまり医学は意志をもたぬ肉体(死体)ばかりを研究し、心理学は言語を中心にして心だけを見ようとする、それだけでは生きた人間を、ましてや個人を充分には捉えきれないよ、といっているのです。

そこで整体指導者というのは何よりも「生きて動いてたえず変化する身体」というのを徹底的に読む訓練をするのです。もうこれだけを生涯突き詰めていく仕事といってもいいくらいです。つまり「個人」という壮大なブラックボックス(クライエント)に対し、一人の人間(指導者)が全存在を懸けて取り組んでいく。

こういう躍動する生命と生命が本気になってぶつかることではじめて「整体指導」はできると考えるわけです。河合先生が難しい、といわれる所以もこのあたりにありそうです。

まずはそういう「指導ができる人間」が育つのがむずかしいですし、またクライエント自身も自分の心身に起こっている表層的な問題からそこまで掘り下げていって、「自らの自己に向かって行く」という態度に至るまでが難しい(稀なのです)。

いわば「需要」も「供給」も潜在していて発生しずらい。かといってそのいずれもゼロにもならないのです。やはり少ないながらも、自身の中にある問題の根本に向き合おうとする人はおられますし、人間存在の矛盾というものに正面からぶつかって生きてゆこうという人も時代・地域を問わず必ずいますから。そういう方の存在によってこういう心の問題とか身体上の難問に応える仕事というのはなくならないで済んでいるともいえますね。

そういう意味でこの河合先生の講演から40年ほど経つ現在、本当の意味で個人に向き合う医術や教育の必要性が浮き彫りになってきていると思うのです。「野口整体」というものに縁を持たれた方は、どうかそういった価値までを射程に入れて取り組まれると実りのある出会いになると思います。なにごとも求める気持ち次第なのですけれどもね。

生きている間に、いのちの奥深さというものをできるだけ追究する学問として、いくら学んでも学びつくせない深みがあります。本当に何をやるにしたって生きている間だけなのですから、どうか自身の身体をもって、自身に内在するちからを実証したいものです。

まず自分の力み(緊張)を知ることから

「まず力を抜こう」ということはしきりに言われるが、実はものすごく根の深い話だ。

誰でも力を入れるのは簡単だが、入れた力がどれくらい抜けたかというのを判定することはむずかしい。

厳密に言えば少し訓練した判定者がそばにいればすぐ分かるのだが、力みが習慣化したクライエントにとってはそれが一人ではなかなか判らない。

惰性的に体調が悪く悩んでいるような人は、立っていても寝転がっていても少し刺戟するとピクッと力が入ってしまう。

そういう動作が当たり前になってしまっているのだが、こちらが触れながら「ここの力が抜けますか?」と問い掛けると、そこでだいたいは自分の力みに気づかれる。気づくけれどもそこですぐにクタッとゆるむかというとそうとは限らない。というより、それだけではほぼゆるまない。

概して高齢になるほどむずかしようだが、それでも3~4回指導を受ける間にはいくらかはゆるんでくるし、表面的な問題(頭痛や肩こりのような身体上の不快感)ならそれだけで消えてしまうこともざらである。

いろいろな難病の相談を受けることもあるが、原因を集約してみると「無意識の力み」であるといってまず相違ない。

ただしその原因が多岐に渡るので、ここで個人差というのが非常に重要になってくるのだが先ずは自分の中に起こっている力みに気づくことが入り口になる。

あまりにも単純すぎてありがた味のない理論かも知れないが、結果が複雑に見えるからと言って原因まで難解なものと考えるから多くの治療プロセスが混迷するのではないか。

自分の感覚を信じて磨いていくことが自立した健康生活への確かな道なのだ。

ただゆるめようとしてもゆるまない

ボディワークの世界は全般に「やわらか」ブームだ。やわらかさこそが身体の理想の状態という仮説のもとに、そのためのリラクセーション法は無数にある。

どれでもいいから自分に合ったものを選んで専心に行えば、適切なプロセスを踏んで心身のゆるみはある程度まで深まっていく。

ところがそもそも「ゆるまないのはどうしてか?」というと、ここにも様々な理由が見つかる。つまり緊張の原因は何かという問いに対する答えだから、これまた無数に存在するのだ。

説明モデルはいろいろあるが、ここでは比較的平易に纏められている成瀬悟策著『リラクセーション』にある緊張の4タイプを次に紹介することにする。

1.「その気」が起こす「準備緊張」

2.習慣化、慢性化する「恒常緊張」

3.状況によって起きる「場面緊張」

4.予期的なイメージのよる「イメージ緊張」

個々の説明はやや専門的になるの割愛するとして、だいたいはその名前の通りと思って大丈夫と思う。この中で人の健康生活を最も侵害しやすいのは2の恒常緊張である、と思う。他の3つは環境さえ変われば解放されるが、恒常と名のついている2のタイプは文字通り解放されることなく何年も何十年も個人の中にあり続ける可能性をもっている。

これをいかにしてクライエントに自覚させ、ゆるめるかというのは心身の健康にたずさわる者にとっての一大テーマであるといってよい。

簡単にいえば身体内外の緊張をゆるませようと試みるとき、その人は「ゆるませようとする自分」と「緊張を生み出している自分」との対立関係に直面することになる。

その結果、身体上の緊張がゆるんでいく過程において、漠とした陰鬱なイメージが沸いて来たり、イラ立ちや焦燥感にかきたてられることを訴えるクライエントは少なくない。

これはアレクサンダー・ローエンも自著の中で繰り返しあらわしているが、身体の緊張の多くは過去に体験した負の情動を氷漬けにして閉じ込めているものだという。だからその解凍をする(筋肉を弛める)という行為は過去に封じた不快体験を一つ一つ味わっていくことに直結するというのだ。

実際にことの真偽を証明するのは大変むずしい話だが、わたし個人の体験からもこの理論は大いに賛同する。つまり身体がゆるみ、治癒力が働き始める前というのはその前兆として非常に重怠い気分に落ち込んだり、癇癪を起しやすくなったりなど、人によって表し方は様々だが今までの安定した自我が揺さぶられ、不安な感覚におそわれる。これは自分が体験してきたことだしクライエントの中にも同様の例を何度となく見てきた。

リラックス体操やヨガ教室などに定期的に通っている人の中には、「そんなことはありえない」と否定される方もいると思うが、それは意識の浅いところでゆっくりと安全に変革が行なわれているのだと推察する。いわゆる気分のリフレッシュとして、サッパリとした気持ちでおわれる気持ちの良いワークなのである。

特に大人数で「場」を作り、全体主義として行われる場合は上記のようなスタイルに収まりやすい。誤解のないように付け加えるがこのようなやり方が悪いとか不充分であるという話ではなく、独自の意義と有用性のあるとても良いものであることには変わりない。

これとは別に個人セラピーのような形式で個別の身体に深くコミットしていった場合に、先に述べたような不安現象は起こりやすい。この負の体験を上手に潜り抜けられると(たいていのクライエントはそうした能力を潜在させているが)、緊張をたえず作り出していた過去の自分の崩壊がはじまり、リキミみやコリから解放された新しい自分にスポットが当たるようになってくる。

多くの代替療法の治療プロセスというのは、こうした活動をいかに支えるか、というのが根幹でその方法や理論は無限にあると思っていいだろう。人によってゆるむための難度もかなりの差があり、概して難しい人ほど時間を要し、抜けた後の解放感も大きい。

その難しい工程を、先ほど紹介した成瀬氏は「自らによる自己変革」とまで表現しているが、これは決して大袈裟な表し方とはいえないだろう。それだけ変わる、治るという動きには心身のエネルギーを要するのだ。

さまざまなリラックス方法をくり返し試してもなかなか思うように成果があがらない、という人はもしかしたら他者の力を借りてもう一つ自己の内面に踏み込んでいく方法が有効なのかもしれない。これもタイミングが大切なのだが、機が熟し「その時」になると自ずからそういう出会いに至る行動を起こし、多くの人が非常に巧妙に治っていく。日頃からつくづく思うのは「人間」の心理も身体も実に精妙に構成されているものだということである。

「異常感」を育てる

整体指導の目的は「自分の身体の異常が自分でわかる」ように訓練をしていくものです。確かに「身体を整える、整えてもらう」といったらそういう面もなくはないけれども、もうすこし丁寧にみるとその人の中にもともとある「整っていくための力」がきちんと発揮されるように、小さな異常に対しても敏感に反応する身体を育てているといった方が的確です。

現代を生きる人の大半は、健康というのは外部要因によって冒されやすく、病気になったら専門家にお願いして治療をしてもらうと考えている方が多い。そうすることによって、痛いものも痛くなくなるし、痒いものもじきに痒くなくなる。そういう便利な構図に依存して、実際自分自身の中に何が起こって、どういう処置によってどうなったのかを考えるような、そういう頭の使い方というか体の感性というのはあまり使わなくていい様になっています。

だから「自分の身体」だけどその身体の感覚というものをそもそもあまり信用していないし、むしろ感覚全般が錆び付いているので「何かおかしいぞ」と気づいた時にはもう烈しい痛みとか目に見える大きな異常だったりする。

整体指導的立場から見た場合に、そういう生活態度のことを「不整体」とこういう風に呼ぶことになっています。そのためにこれを「整体」という、自ずから整っていく本来の姿に戻してやらなければならない。そこで鍵となるのが当人の「身体感覚」であり、その中でも「何か妙だ」という感じをいち早く察知する「異常感の育成」が重要になるわけです。

具体的には「自分の身体に気を集める」、というそういう態度をひらすら鍛錬していく。おそらく昔の人はみんなそうやって、自分の身体に責任を負って生きていたと思うのです。例えばお百姓さんなんかでも「ケガをしたら病院に行けばいい」というような甘えは許されない。ひと月も畑に出られなくなったら死活問題なわけですから、われわれよりももっと自分というもの、その身体の在りようをしっかりと掴んでこわさないように気を付けていたと思います。

ところが近頃のように人々の価値観も生活も複雑になって、頭も忙しくなってくると、それまで自分自身の身体(内面)に向かっていた意識はたえず外を飛び回っているようになる。これが鈍りのはじまりです。

そこで例えばわたしのやり方だと直接手で「触れる」とか、対話でもって「感覚を問う」という方法で「そこ」に注意を集めていく。最近知ったけれども心理療法で行なわれる「フォーカシング」という技法とは理論的にとても近い。「今どういう感じがするか?」というのが自分の健康を自分で保つための入り口なのです。

こういうことを地道に繰り返していくことで、今まで外に行っていた心が自分の身体内に帰ってくる。本当に「主」が帰ってくるという表現がしっくりくるのだけど、自身の健康を保つ主体というのは常に「あちら」ではなく「こちら」にあるわけです。だからいつでもこちらの感覚から出発していくようにシフトしなければ「体を整えて生きる」といって頑張っても自立した健康には結び付かない。

治療という現象の主体はクライエントとか患者の方に在る、というのが整体指導の立場です。そういう点では心理カウンセリングも同じであって、「クライエントが自分で治っていく」ということがまず真ん中にどんとあってカウンセラーはその力が発揮されるための環境の整備に尽力する。自分の中にある「異常」の部分、「妙だ」という感じを感じる力を育てていくことによって、治癒がはじまるわけです。

ともかく治療の原理をずっと辿っていくと、当人の治癒力に頼っている事実に突き当たるし、治癒力が発動する要因が「これは治さなければ」という、異常をいち早く発見できる鋭敏な感覚であることがわかります。だからこそ整体の目的を「体を敏感にする」という一言に集約できるわけです。ここのところを理解して指導を受けられるのと、理解がないのとでは回を追うごとの結果に差が出てくる。そうやって自分の感覚を信用できるところまで発達させることが健康生活の原理になっていく、ということです。

リバウンド

最近、有名ダイエットジムで頑張った人たちが一部でリバウンドしているという記事を読んだ。昔からダイエットとリバウンドは切っても切れない関係のようだけれど、整体指導・心理療法にもこれと似たような現象はあると思った。

少し近しい業界では、短期間の自己啓発セミナーに行った直後に目をピカピカさせていた人が、1年後に見たらなんとなく元通りになっていた、というような話がある。

ダイエットもそうだが人間が急にガラッと変わったなんていう時には大抵注意が必要だ。最低でも半年・一年は経ってみないことには本当のところは判らない。いや本当は30年とか、その人の死に方まで観ないことには解らない。それくらいの執念で丁寧に観ていくと、「変わった、変わった」と言っても中身は殆ど変わっていないことぐらいは分かる。

一過性のダイエットと同じく、「環境」だけを強引に変えてしまったことで「自我」が適応障害を起こして変性しているだけだったりするのだ。それで結果的にやつれてたり、過剰にハイになっていたりしているだけで、どうも酒に酔っているのとさして変わらないような気もする。当然そのとき全体の調和は消えているのだ。

審美観のマヒしている人たちは「痩せたんだからそれでいーじゃないか」と思うのかもしれないが、「美しさ」の条件の一つに「調和」というのは欠かせない筈だ。

そもそもが、太っている人にはそういう思考形態があり、体癖素質があり、仕事や家庭環境を含めた生活の全体がある。その結果として体がふっくらしているのだから、その全部が調和していて無理がない。場合によってはそれで美しいことだってあるわけだ。

ところが食事と随意筋のコントロールだけに特化して脂肪を減らしたところで、全体としては「何か変になっている」といった妙な印象を受けることがある。だいたい人間の生命活動を支えている99%以上は不随意部分の自然調和機能であり、その不随意的活動を支えているのは無意識とか潜在意識とかいわれる心の深層部にある。

人はしきりに「変わりたい、変わりたい」というが、残念ながらそう簡単には変わらない。それはなぜかと言ったら、健常者の「自我」というのはそれだけ堅牢なのだ。また、そうでなければ、実際困る。

例えば昨日「あなたを信用して仕事を任せませす。」といった相手が、今日になったら「すいません、ボクは今までの生き方はすべて間違っていることに気づきました。今夜からインドに発って瞑想してきます。」とか言われたんではたまらない。そういうことが起こらないように、過去からの続き物としての自我というのがあって、それによって人間はお互いの生活の均衡が保たれているという面がなくもない。

ところが世の中には「二つ良いもの、さてないものよ」といって、そういう自我の安定性が古くなり役に立たなくなりかけている「自分」をいつまでも変えさせない元にもなっている。

そのために表面だけをいくらいじくっても、内から奥から、その人の「定番になっているもの」が出てきてしまうのだ。だから一見簡単そうな相談であっても、他人様の身体とか心理に立ち入るということは一定の覚悟と謙虚さがいる。安請け合いは禁物なのである。

経験の豊富な治療者というのは概して、相手の「全体」をこわさないように、乱さないように、静かに入っていって小さく仕事をすることが多い。少し仕事をして、変化を観る。どんな分野でもそうだが真のプロというのは目覚ましい結果を出すことよりも、大失敗しないことの方がよほど大事であることを知っているものだ。

繰り返すが少しいじっては間をおいて、そして全体を観る。これの繰り返し。そうしていくことで相手の力も有効に使えるし、こちらも時間は掛かるが小さなエネルギーで安全に結果を出すことができる(※ラクをするという意味ではありません)。それは結果さえ出ればその前後は知らん、という帳尻合わせの成果主義ではなく、「何故そうなったのか?」という原因に着眼する求道的精神に起因する。

ありがちだが、「結果」と「過程」の主従関係も見誤ってはいけない。言うまでもなく主体は後者にある。さらにすすんで、その「過程」を引き起こした、大本となっている「何か」を見極めなければ本当の「仕事」というのはできないものだ。ダイエットも整体指導も心理療法もコミットするべきは「結果」ではなく「過程」であり、「原因」なのである。

五種体癖の働き方・生き方

横浜駅西口にいたパントマイマー。きれいな肩と前腕にしばらく見とれた。五種というのは手(前腕)を動かすことに快感があるらしく、体操選手やダンサーには5種の濃い人が多い。

何よりパントマイマーという職業が冒険を好む5種的な動きそのものだ。これがもし二種や六種だったらこんな風に往来に立つこと自体がまず考えられない。

重心が前(つま先)にあるので、体勢をよく前のめりにしている。そのせいなのか、何かと前に前に出てきやすい。というより、たえずつんのめっているようなものなので「前に出るという衝動を抑えられない」といった印象を受ける。

それにしても、こういうふうに身体の素質とライフスタイルがマッチングしていると、見ているほうまで何となく落ち着くからふしぎだ。

身体と動作と風景が融け合って、一枚の絵のように観える。帽子がなかったらまた違って見えたろうけど、かぶり方まで巧い。自分を客観視できるということは高尚な能力だ。

しかし自分が「何故そうして生きているのか」までを理解して生活する人となると、その数はぐっと少なくなるだろう。そういう意味で整体的な観察眼というのは、身体と生き方の不一致を見つけ出し正すためにあると考えてもいいと思う。

擬死再生

「修業で山に入るいうんは擬死再生やで」

数年前に関西で山岳修行をしたときに、同行した先輩修行者からいわれた言葉を思い出した。

昨日の「窮すれば…」を書いて読んでたら浮かんで来たのだけど、「擬死再生」というのは簡単に言うといっぺん死ぬということ。これはもちろん比喩として聞かないと大変です。

いっぺん死んで、それで人生はおしまいというのでは修行になりませんから。

だから「擬」死ということが本当に大事で、言いかえると「恰も死んだかの如く」という事でいいですね。

そもそもが何故こんなことを修行者に強いるかというと、その人の人生が「今までの自分」では乗り越えられない局面に差し掛かったことを想定しているのだと思うのです。

変わらなければならない、今変わらなければこれ以上は現実に適応できないというような、いわゆる窮し切った局面。昔の人はこういう時に上手い具合に山に入って、昨日までの惰性で生きてきた自分をいっぺんご破算にして、再生を願う(生命の刷新)。そういう文化が古く日本には根付いていたらしいのです。

整体指導という仕事はこの「擬死再生」を山という環境に拠らずして行なう現代式の神事と思ったらいいと思います。

つまり病気になったとか、精神が病んだという時、大変キツイことだけれども一旦はその全責任を当人に自覚してもらいます。

そうやって日常の空間でありながらも心身を疑似的に追い込んでいくという、「癒し」という表の顔とは裏腹にある所では非常に厳しい面があるわけです。

山の厳しさというのはこれとはちょっと違って、ツルッといったら本当に死んでしまう危険性もなくはありません。修行で命を落としてしまったらそれは「死行」です。もうそれ以降は行ができなくなります。

考えてみると、よく生きるために、変な死に方せんでもええようにと「行」は行うわけですから、模擬的に(それでもかなり大変になる時はありますけれども)死に親しんで、それでギリギリのところで変わっていくという方法があるならそれは理想的です。

もちろん山岳修行がわるいとか、これはそういう話ではありません。ただヘタとやると本当に危ないですから、そのためにきちっとした先達さんがいて、その人に守られ抱えられしながら、フゥフゥ言ってフラフラになりながらも安全に行ができるわけです。

むしろ言いたいのは、整体指導とかカウンセリングいうのはそういう厳しさというかキケン性もはらんでいることを自覚していないと、ある所でびっくりされることがあります。

どちらも上手な先生がやると、非常に効果があります。

よく効く薬だと思ったらいいかもしれません。

それだけ効くわけですから、当然毒性というか、心にも体にも強く作用します。

これが時として辛いんです。

本気でやっていかれた方はみなさん判ります。

ところがそうやって、やっとこ変わっていって抜けた時の爽快感も知っているから整体の指導者もカウンセラーも、そのクライエントと一緒になって耐えて忍んでついていける面があるわけです。よく考えたら山を歩く時の先達さんみたいなもんですね。

先達さんというのは何度も何度も山を登って降りてを経験している人だから、新米行者さんの何がどうツラいかもだいたい判るわけですし、どの辺から楽になるとか、行を終えた時の達成感とかも知っています。

何でもそうですが指導者というのはそうやって先に大変なところを経験して、少なくとも1回以上は大きな「山」を越えてきていることが資格というか条件になりますね。

自然の山もありますし、人生上の山もあります。谷もあるかもわかりません。

そういう所を人知れず越えて生きている人というのはやっぱり「見えない指導力」があるわけです。

そういう人がまず安全な環境を作って、そのなかでわざと苦労をさせて、その苦労を一緒になって味わいながら一緒に変わっていく。死にかけるような思いをしながらフラフラになりながら変わっていく。本当に擬死再生といったら、これほどピタッとくる言葉もないんじゃあないかと思います。

人間が治るとか変わるというのはやっぱり大変なもんだと思います。ユングは自分自身を「魂の医者」と言ったそうですが、やっぱりそこには本当にいのちが掛かっています。

そういう気持ち、畏怖のような念がない人はお山にも入れてもらえませんし、自分の身体にも門前払いを食います。まず誰よりも自分自身を甘くみたらいけない。生命に対する礼というのは易しいけれども、それに気づくには擬死再生の体験が必要なのかもしれない。

窮すれば変ず

「窮すれば通ず」という有名な慣用句の原型が「窮すれば即ち変じず、変ずれは即ち通ず」であることを最近知った。もうちょっとやさしくすると、「困りきったら変わる、変わればなんとかなる」ということだ。

いずれも事態は困り果てた時に思わぬ好転があるという意味に変わりはない。因みに英語の場合は次のように言うらしい。

When things are at the worst they will mend.(物事は最悪の事態に陥ると好転するものだ)

この「変ず」といい「mend」という、その変とか改という動きが閉塞した事態を切り開くための鍵となる。

人が苦境に陥った時によく「成長する」、「乗り越える」という言葉を聞くが、これらの表現はすでに一つの方向に動きが固定されている感覚を覚える。つまりマイナスからゼロへ、ゼロからプラスへといった印象で、これはいわゆる価値観の「居つき」を意味している気がしてならない。

もし居ついたままの価値観でも何とかなるとしたら、その人はまださほど窮した状況にはいないのかもしれない。それならそれで構わないし。

結局のところ「治療」という行為を煎じ詰めると、生体の「変化」を助ける行為ではないかと思うのだ。

その個体が変化しやすい環境を整え、それを守る。

感じとしては、ライ麦畑から落っこちそうになる子供をそっと救い上げて見守るように。そうやって保護し続けることが生命の自由性を最大限に発揮させ、そして変じ、通じることを可能にするのではないだろうか。

だから治療の場ではまず徹底的に安全な環境を作る。そしてその防護壁の範囲内で適量のストレスをかけ、疑似的に「窮する」ように働きかける。その窮する感覚を治療者は共有し、一緒になって変化していく。

非常に抽象的だけれども、これは対話型カウンセリングのような治療モデルをずっと単純化した図式だ。そしてこれは整体指導にも通じる理論であると思う。

理屈はシンプルにまとまったが、これを千変万化する個人の状況に合わせて行えるかどうかは治療者の経験と感性に依拠する。理屈がわからないでやっているよりはずっといいだろうけど、理論と実際は常に一致しない。その一致しないズレの中で誰よりも先駆けて窮し、変ずるのが治療者の役目ではないだろうか。