背骨感覚を練磨する

精神療法の世界でも現代は身体から心にアプローチしていく手法が多数考案され実践されてきている。このブログには何回も登場しているがアレクサンダー・ローエンのバイオエナジェティクスなどはその好例である。

しかし「体が整うのは難しい」の記事でも書いたが、体から心にアプローチする数ある手法のなかでも「質」という点では野口整体は他のあらゆる方法と比較しても群を抜いている、と思う。そもそもが基本的に体と心の間に「距離」を設けて見ていない。そこは「身即心、心即身」という不即不離の関係を見い出し、最初から一つのものとして決着している。そこが文字通り根本的に違う。

近年は巷にも「体をリラックスさせれば心もリラックスできます」、あるいは「体が整えば心が整います」という謳い文句はあふれているが、そのリラックスや整い方を追究すると具体性はゼロにひとしい。

いわゆるリラックスということで言えば、ムードとか観念的なもの(ノリ)に流されやすく、「まあ気はココロで、よくなったような気がする」といった程度のところで妥協しようと思えばいくらでもできる。

また「体が整う」にしても背骨が真っ直ぐに見えるとか、肩や骨盤が水平であるとか、そういった次元のもので済まされているものも少なくない。背骨に着眼しているというところまではいいが、その多くは整体的観察眼や審美眼で捉える「背骨」とはかけ離れた物体を見ているという気がしてならない。

生きた人間の身体はたえず動いている。その中でも中枢神経系の通り道である背骨はその生体活動の現状をつぶさに写し出しており、これに対する整体の観察と読みは精緻を極めるのだ。

何故そこまでして背骨に執心するのかといえば、背骨が利かなくなることはその肉体の部分的な居眠り状態を意味するからである。それは身体の中の一部が稼働しないまま生活しているということであり、これを自動車に例えるなら当人の知らない間に故障個所をいくつも抱えながら走行しているようなものなのだ。

ただし人間の身体は機械のように単純ではなく、また無思想に動いているわけではないので多少の故障・居眠り箇所があっても他がそこを補って動きづづけられる。そうした目に見えない無数の安全弁の働きの支えられているからこそ、誰もが一見して円滑な生活を送ることが出来ているのである。

ところがそれも当然、プロスポーツや技巧的職人の様な心身共に高度な技量を要求される仕事をするにあたっては大きな障害になるし、また何らかの事情により一定期間つよいストレスにさらされた場合にもそうした背骨の鈍りはケガや故障の遠因となる。

そういった事情から整体指導の臨床ではまず背骨の観察が要となり、また被指導者の背骨感覚の養成が重要課題となっている。これを鈍らせている「生活習慣」や「思考態度」、「動作的な悪癖」をひとつひとつ露わにし、漸次再教育を行っていく必要があるのだ。

ところが一般的には、少々具合が悪い程度のものならそこらの整体院(代替療法)に行って、本当に重篤な症状や病名が付いたら病院に行く、という態度の人が多いと思うのだがこれは全く残念な了見違いというものである。

強い痛みが出てからようやく身体のことを思う様な、そういった鈍重な感覚のままでは整体指導は行えない。もちろんはじめは全く訓練のされていない、感覚の鈍麻した現代人の身体からスタートするのであるが、いつまでもそうした低い身体性のままでよしとするようなズサンな感受性では、早晩整体指導を受ける資格を逸するであろう。

わずかな変調に対しても機敏に反応し、感受性を順ならしめることで自らの心身を先に先に整える。そうして生活の質的向上を図るというのが整体指導の本来の姿なのである。その感覚練磨の中でも文字通り柱となるが背骨なのだ。繰り返すがここが全身の中枢神経系であり、身体全体の円滑な運用を司るコントロールセンターなのである。

まずはその重要性を「知る」ことで整体の入り口に立つことができるし、実践し体現するのはさらにそのはるか先に位置している。整体とは人間にとっての峻厳な霊峰であることも知らねばならない。全生への道とは斯様に果てしないものなのである。