整体の知見と世間のそれはさまざま面において異なる。その一つ一つをあげて説明していったらゆうに1年は講座が組めるくらいの面白さだが、その中でもつねづね思うのは「打撲」に対する見解の相違だろう。
打撲は恐ろしいのだ。一般的にはゴチッと打って「痛い‥」とうずくまって、しばらくして痛みが治まったら、もう大体いいんだろうと思われがちだ。しかし身体を丁寧に観ると打ったところとその周辺には何か動きが制限されているような、そこだけ時間が止まったような印象が残される。期間的には年単位、あるいは何十年とそのまま放置されることも珍しくない。
場合によっては打ってから、だいぶ経って患部からずっと離れたところに変動が出たりもするし、まあとにかく生きた身体に対する観察眼というか、見慣れた人にとっては容易に見つかる変動だけれども、何しろCTとかレントゲンには写らないので打撲が契機となっての体調不良というのは一般医療の死角になりやすいのではないか。
「どうやったらそういう古い打撲の跡は治るんですか?」というのが次なる関心の焦点だが、これは‥いろいろな代替療法があるので、「対応法は無限にある」というのが正解だろう。しかし、国内外のいろいろな民間療法を受けてきたような人を受け持つことがあるけれども、こういった打撲様の古傷に関しては整体法の独壇場ではないかと思うことがある。まあ実際世の中は広いし、「知らない」だけですばらしい治療者はたくさんいる。うかつなことは言ったらいけないけれども、整体法が古傷に関して一定に有効だというのは間違いない。
例えば整体以外では、骨とか関節にショックが残っているのは、再度同じ様な力を反対にかけて正規の位置に戻す、という考え方がある。つまり右に曲がったものを左に曲げ戻す的な発想。ところがこういう系統のものはほとんど功を奏さない。メカニズムを細かに説明できないけれど、人間の身体というのはもの(無機物)ではない。過剰なストレスがかかるとこわれる、という点ではものと同じだけれども、生きた身体というのは時間とともに治る方向へ動く。ここが違う。
そしてこの「治る」という構造についていえば、早く治そうとしても治らない、ということは知っておかねばならない。こわすときは本当に一瞬である。あっという間に致命傷までいきかねないのに対して、治るというはいつだって中庸の速度。丁度いい具合に治っていく。
ところがこの中庸は、人間が焦るとすごくノロく感じる。相対的な問題なのだけれども、人間が早く早くと焦れているとものすごく遅く感じるものだ。ところが本人も忘れていてふわーっとしていると、知らない間に治っている。そういう性質なのである。打撲はこの自然治癒が滞りやすいので、他者が気を集めて手を当てることで治り始まったりする、という話なんだけど。
まあそれにしても、そうやって治癒を手伝っていったとしても、古い打撲の経過というのは焦ってやろうとしてもむずかしい。首とか膝とか、そういう可動域の大きな関節周辺の怪我ならなおさら強い力は使えないし、じっと手に気を集めて触れながら看ていく。そういう方法が安全で、なおかつ効果が得られやすい、と思う。
いわゆる野口整体の愉気法だけれども、愉気をすることで古傷が痛みだしたり、その場所に汗をかくようになったり、お風呂に入ったらじんじんしたり、というような「反応」が現れやすい。こうなると時間が止まっていたところが動きはじめて、治りはじめたと考えていい。ようやく自然経過のはじまりである。
愉気のコツの一つは焦らないこと。ずーっと見守るように触れて観ていく。そうすると少しずつ秩序にならって、精緻に変化していく身体を愉しみながら観ることができる。こういうことをしばらくやってみると、身体を粗雑に使ってズバッとこわすようなことに対して嫌悪感が育ってくる。他人の身体でもそういう粗末な使い方は嫌だなと思うようになるのだが、いのちを大事にすることに関して、「自分」も「他人」もあったもんではない。
そう、いのちは大事。いうまでもないけれども。だが恐ろしいことに現代はのべつ幕なしに生命が軽んぜられている。そういう、生命に対する礼のない人は整体とも縁のない人。最近はそんな風に思う。こわすのは個人の意思でどうとでもなる、それもほんの一瞬。でも治るのは、大自然の恩恵によって刻々と確かな秩序の範囲の中でしか治らない。
それでも、どんなに愚かな身体の使い方をしてこわしても、いのちのある間は治していただけるのだからありがたいね。この世は本来、大道無門。だけれども、自分のいのちに対してこうべを垂れることのない人は、その門をくぐることができない。自分で敷居を高くして、自分で門に鍵をかける。当世は本当に変わった人々が多い、と感ずる次第である。