体が整うのは難しい

恐らく、これからのカウンセリングという点では、これは日本ということだけではなくて、世界的に、心と体の問題というのは一番大きな問題になるだろうと、私は思います。その中で外国人の人がすごく注目してるのは、例えばヨガとか禅とか、そういうようなものです。体を整えることによって、だんだん心を整えていく、そういう考え方。

しかし、かといって、これはものすごく難しいことなんです。なぜ難しいかといいますと、私の話を聞いて、「よし、これはうちでもやろう」てなもんで、中学校の生徒をみんな連れて、「座りなさい」なんてやっても、これはまず効果はありません。というのは、「座る」ということは大変なことでして、さっき言いましたように、座るまでにずいぶん仕事があるぐらいなんです。そのときに、ただ中学生を下手に座らしても、その子たちが本当に座っていなかったら、これはやっぱり意味がないんです。中学生は、座らされて「足がしびれるなあ」とか、そういうことばかり思っているかもわかりません。

だから先生自身が、自分が座るということが、一体どういう意味を持っているのか、あるいは中学生に座らせるということに、どんな意味があるだろうか。私みたいに五十の人間が座るのと、何でもかんでもともかく暴れたいと思っている子供たちが座るのと、意味が同じなのかどうか。そういうこともやっぱり考えないといかんでしょう。そういう意味で、のべつまくなしにやって効果があるのかどうか、私は疑問に思いますけれども、ともかく心と体の結びつきというのは、どうしても考えていかねばならないと思っています。

そしてこれは単に、いま言っているように、心と体という意味で、体を体を動かすということだけじゃなくて、私はたとえば、箱庭療法をやっておりますが、箱庭なんていうのも、結局やっぱり体が関係してくるんです。砂が手に触れますね。水でぬらした砂なんかをさわってみる。こういうことが、ものすごく大事なことになっているように思うわけです。(河合隼雄著『カウンセリングを考える(下)』創元社 pp.154-155 太字は引用者)

これは河合隼雄先生が昭和55年、大阪四天王寺において「これからのカウンセリング」というタイトルで話された講演内容の一部です。

個人的に非常に面白い、というか心理学と整体的知見の両方にまたがる核心をついた問題提起だと思うのです。

時代性も大切で昭和55年(1980年)というのはちょうどヨガブームの走りにあたり、これから女性を中心にカラダを通じて積極的にリラックスする時間を取ろうという動きがはじまるわけです。

現在はご承知のようにヨガブームはピーク時よりもやや沈静化して、本当の理解者というかコアなファンを基盤に一定の市民権を保持した状態で安定している。つまり心の問題というのに対して体からアプローチしようという切り込みの使命は果したという形で、「ある程度の」功は奏したとみていいと思うのです。

ある程度の、という条件付けをしたのはやはりそこには非常に高い技術を要するからで、「充分に果した」とは言い難いのも確かでしょう。

体を整えることによって、だんだん心を整えていく、そういう考え方。しかし、かといって、これはものすごく難しいことなんです。」という先ほどの引用以降は坐禅を例にとっているのですが、「何でもかんでも坐っていれば、坐らせれば良いわけじゃあないんですよ」といっているのです。年寄りが坐るのと、思春期の子供が坐るのとではもうそこから意味あいがちがってくる、などともいっています。

つまり本来は心身に絶えず起こってくる諸問題というのは個人をよくみたうえでそれぞれの答えを創造していかなければいけないのです。

その「個人をよくみて」というところで、豊富な経験に基づいた高い技術性が求められます。だからこそ「難しい」ということになってくる。

そういう難しさに的確に応えられる手段の一つとして「野口整体」というのは非常に有力だと私は思います。つまり徹底して「身体の様子からその人を理解する」という態度が「これからのカウンセリング」に表された問いかけに対する答えになっているからです。

実はこの講演が行われた時点で野口先生は亡くなられています(1976年没)から、「これからの」というよりもすでに展開している事実があるのですけどね。ただし野口先生が活躍されていた時期というのは河合先生は主に海外で心理学の研鑚を積まれていましたので、おそらく接点をもつことがなかったのではないかと思うのです。

河合先生ほどの見識でしたら、野口整体の真価を瞬時に見抜いて非常に高く評価されたのではないかと思うのです。

つまり野口先生は最初から心と体を分けて考えるのはおかしい、といっているのですから。自らフロイトに高い関心を示し、自身の潜在意識教育の理論を構築するうえで援用もされていますが、やはり近代科学の問題点というのを早期に看破しています。つまり医学は意志をもたぬ肉体(死体)ばかりを研究し、心理学は言語を中心にして心だけを見ようとする、それだけでは生きた人間を、ましてや個人を充分には捉えきれないよ、といっているのです。

そこで整体指導者というのは何よりも「生きて動いてたえず変化する身体」というのを徹底的に読む訓練をするのです。もうこれだけを生涯突き詰めていく仕事といってもいいくらいです。つまり「個人」という壮大なブラックボックス(クライエント)に対し、一人の人間(指導者)が全存在を懸けて取り組んでいく。

こういう躍動する生命と生命が本気になってぶつかることではじめて「整体指導」はできると考えるわけです。河合先生が難しい、といわれる所以もこのあたりにありそうです。

まずはそういう「指導ができる人間」が育つのがむずかしいですし、またクライエント自身も自分の心身に起こっている表層的な問題からそこまで掘り下げていって、「自らの自己に向かって行く」という態度に至るまでが難しい(稀なのです)。

いわば「需要」も「供給」も潜在していて発生しずらい。かといってそのいずれもゼロにもならないのです。やはり少ないながらも、自身の中にある問題の根本に向き合おうとする人はおられますし、人間存在の矛盾というものに正面からぶつかって生きてゆこうという人も時代・地域を問わず必ずいますから。そういう方の存在によってこういう心の問題とか身体上の難問に応える仕事というのはなくならないで済んでいるともいえますね。

そういう意味でこの河合先生の講演から40年ほど経つ現在、本当の意味で個人に向き合う医術や教育の必要性が浮き彫りになってきていると思うのです。「野口整体」というものに縁を持たれた方は、どうかそういった価値までを射程に入れて取り組まれると実りのある出会いになると思います。なにごとも求める気持ち次第なのですけれどもね。

生きている間に、いのちの奥深さというものをできるだけ追究する学問として、いくら学んでも学びつくせない深みがあります。本当に何をやるにしたって生きている間だけなのですから、どうか自身の身体をもって、自身に内在するちからを実証したいものです。