ユング心理学における「影」について2:影は心ののびしろ

…このような影があってこそ、われわれ人間に、生きた人間としての味が生じるのであって、ユングも「生きた形態は、塑像として見えるために深い影を必要とする。影がなくては、それは平板な原型にすぎない」と述べている。影のないひとは、いかに輝いて見えても、われわれはその人間味のなさにたじろぐことだろう。

シャミッソーの有名な「ペーター・シュレミール」のお話は、影を失った男の悲哀を、うまく描き出している。この素晴らしい物語の最後に、シャミッソーは、この物語を皆さんにおくるのは、人間として生きるためには、第一に影を、第二にお金を大切にすることを知って欲しいためだと書いている。

これをみて、筆者はある精神分裂病のひとの夢を思い出した。夢のなかで、このひとは、自分の影が窓の外を歩いてゆくのを見るのである。自分の影が自分のコントロールを離れて、一人歩きを始めたら全く危険きわまりないことである。

分析を受け始めると、ほとんどのひとがこの影の問題にぶち当たる。(河合隼雄著『ユング心理学入門』培風館 p.102 改行は引用者)

※塑像(そぞう)粘土・油土・蠟ろうなどを肉付けして造った像。銅像などの原型としても造られる。

心身に起こるさまざまな病症はもとをたどっていくと、自身の心の全体性が躍動しないことで「よく生きられていない」という、深層心理の問題が契機となっていることは少なくない。

このような個人のなかにおける「よく生きられていない部分」のことをユング心理学では「影」と呼んでいる。そしてそれをいかにして認め自身の心に統合していくかというのが心理療法の、特に初期における治療の焦点である。

ところが影というものはそもそも、物体に光があたった時にあらわれる必然の現象である。それだけに影を統合し消失させようとする行為は、その母体の存在をも危うくさせる可能性にさらされる。

また引用文に「生きた人間の味」というふうに表現されているとおり、影はいわばその人の隠れた持ち味でもあるのだ。

芸術家などはこの影を原動力にして創作・表現活動をしている人がほとんどであるために、そうした職業にある人が精神分析を受ける際は、事前に治療者とクライエントの間で入念な話し合いが設けられるのが常である。

整体の臨床においてはどのように対応していくのか、ということを考えてみると、もちろん個人ごとに全くことなるオリジナルの対応をそのつど生み出していくことは当然であるが、人間の精神と肉体の間にある共通の反応を理解し活用することはとても有効である。

まず基本的な話として「受け入れる」という行為は身体上に硬張りや固さがあるうちはできない。うらを返せば、身体の硬張りを上手にゆるめることさえできれば、その治療は半分以上成功したといっても過言ではない。

そこで「いかにゆるめるか」という問題に直面するのだが、整体指導といっても心理療法といっても、実際にクライエントの内面にまでおよぶ変化を引き出すものは技術以前の「何か」によるところが大きい。

その何かのなかに雰囲気や環境というものもふくまれる。

まず人がゆるむために欠かせない条件の一つに「安心」があげられるだろう。ほっとするとか気持ちがよいと心から感じられる雰囲気や環境がまず最初にクライエントの人格を受け入れ、それによってクライエント自身が自分を受け入れるという筋道を学ぶことができるのだ。

だから強力な影(実生活にあらわれていない自分)からの圧迫に悩み苦しんでいるひとに出会った場合、わたしは「抱える能力」を有した心の豊かな人との積極的な交流をすすめることが多い。

つまり自分で自分を受け入れるためには、まず自分以外の人に受け入れられる必要があるのだ。

そうして「あるがまま」、本当にちからが抜けきったときにあらわれる無垢な自分像というのを少しずつおもてに出してくことで、影の統合はむりなく行われていく。

先の引用に示されたように、もちろん容易なことではないけれども‥。かといって不可能なことでもない。俗にいう「いい年の取りかたをした」などという表現は、影の統合がうまいぐあいに行なわれた人を讃えるほめ言葉のようにも感じる。

実際には自身の「影」とは分離したまま、「陽の当たっている自分」だけで生活を営み比較的穏便な生涯を終える例も少なくないのだが、必要なひとは「悩む」という動的な葛藤状態へ自ら向かい、影との対決を余儀なくされる。そのあたりは無意識の要求に委ねられていると考えて良いだろう。

基本的には人間の無意識層には人格の全体性に向けて変容・成長して行こうとする要求が内包されている。だからそうしたもともとの要求が自然に花開くような環境を与えることで自然治癒力も最大限に発揮される。

そういう意味では人が癒えていくためには必ずしも「専門的な治療の場」が必要かというとそうとも言えない。

じっさい影の統合にやっきになっている間はむずかしかったものが、旅行のようなレクリエーションの場でふいに緊張がゆるみ、そこからスムーズに自我の再構成が行われるような例も存外多いのである。

このような治療なき治療、一見して何もしていないような行為のなかにも自由で開かれた「場」というのが展開することで思わぬ治癒効果をもたらす。これは人間のなかにもともとよくなる力が備わっていることの証明でもある。

良き治療者はそうした生命のもともとの力を発揮させることだけに専念し、何もせずとも快方へ向かうことを最良の方法と考え、実践するのである。何故そのようなことが可能であるかといえば、影こそが成長の種だからであろう。

よく生きられなかった部分というのは、うらを返せばその部分をひっくり返すことで光に転ずる、つまり影をパートナーとしてその人の人生を充実させることができるのだといえる。そこで治療者はクライエントに対し影のマイナス面を伝えると同時に、「可能性」を得心させることができれば心身両面の治癒は大きく進展する。

軽微な視点の転換ではあるが、病症と対立し、こう着状態を生まないためには重要な技術である。病症を味方につけ、影を善用する、こうした態度は個人が心の全体性を取り戻していくうえで非常に重要な条件の一つ言えそうである。

 

関連リンク ユング心理学における「影」について:整体指導と心理療法のアプローチ法の比較 影をなくした男

ユング心理学における「影」について:整体指導と心理療法のアプローチ法の比較

昨日ミッドライフ・クライシスについて書いた記事でユング心理学の「影」という概念に少しだけ触れたが、実際には今まで否定的にみていた自分自身の資質を認め、受け入れていく作業というのは整体指導や心理療法の治療モデルの根幹をなすものである。

いわゆる自己受容と呼ばれるそれである。

最近は「あるがままの自分を受け入れて‥」という言葉をよく耳にするが、耳ざわりがいい反面、自己受容という作業はなかなかに困難なものである。

ものごと全般においていえるが、嘘というのは案外やさしく、真実は厳しいことが多い。それだけに自分自身が影に追いやった資質に肉薄するというのはそれだけ心のエネルギーを要する行為なのだ。

これについて河合隼雄著『ユング心理学入門』に判りやすい記述があるので、一部抜粋して引用する。

影の内容は、簡単にいって、その個人の意識によって生きられなかった反面、その個人が認容しがたいとしている心的内容であり、それは文字どおり、その人の暗い影の部分をなしている。われわれの意識は一種の価値体系をもっており、その体系と相容れぬものは無意識化に抑圧しようとする傾向がある

…影はつねに悪とは限らない。…それはむしろ、今後、自分のなかに取り上げられ、生きてゆかねばならない面と考えられる。つまり、今までその人として否定的に見てきた生き方や考えの中に、肯定的なものを認め、それを意識のなかに同化してゆく努力がなされねばならないのである。

このような過程が分析において生じるのであって、これを、ユングは、自我のなかに影を統合してゆく過程として重要視している。分析というと、何か自分の心理状態を分析してもらって、分析家に、あなたは何型ですとか、こんなところがありますが、こんなところはありませんかとかいってもらって終わるものと思うひともあるが、そんな簡単なものではない。

自分で今まで気づいていなかった、欠点や否定的な面を知り、それに直面して、そのなかに肯定的なものを見出し、生きてゆこうとする過程は、予想外に苦しいものである。影の自我への統合といっても、実際にするとなると、なかなか容易ではない。(河合隼雄著『ユング心理学入門』培風館 pp.101-105 太字、改行は引用者)

このように、一人の人格のなかには自分として相容れない異物のような資質があり、それが抑圧された結果として「影」が構成されている。

「マイナスや欠点は本人の努力によって克服すべきもの」という考え方はよく目にするが、こういった「前向きな」思考態度は欠点を欠点のまま受け入れ、上手に活かすという自然体(あるがまま)で生きていく道を死角に追いやることになる。

たとえばここにダイエットに関心をしめす女性がいたとする。するとその女性は「やせればきれいになる」という価値観がつよく入ってる人であるといえる。

そこで仮にやせることに成功して自信を持ったとしても、「やせていない自分像」は否定されたままなのだ。

だからつねに体重の増減によって安心したり不安になったりする気持ちは抜けきらない。

ところが2~3歳くらいまでの子供を見てみればわかるが、子供にはもともとそのような価値基準はないのである。

だからこのような場合、人生上のどこかで「やせていない=バツ×」という価値体系をどこかで持たされてしまったと推測することができるだろう。

そのような場合、理想としてはそうした価値体系を持たされたときまでさかのぼり、そのような容姿の変化で左右されない心の安定感を取り戻すことが自己受容の自然なプロセスである。

少し話はそれるが、野口整体では整体指導という臨床のなかにおいて、「潜在意識教育」ということを中核に据えている。

すなわち意識の深層に格納された、その人の心身全体における調和を阻害する「異物」を消失させることを目的としている点では、ユング派の心理療法によく似た面があるといってよいだろう。

違いをあげるとすればその手法にある。心理療法は言語を主体とし、その補助的手段として箱庭療法や遊戯療法、あるいは体操のような身体的刺激を用いるのに対して、整体指導の場合は言語と非言語の境界が曖昧であり、むしろさまざまな身体的刺激が溶け合って一つの技術体系をなしている点である。

つまり言葉もまた音を媒体とした身体的刺激として考えている面があるし、身体的刺激と言語作用を互いに相乗的に活かすことができるレベルになるまで指導者は訓練を積んでいく。

ともかく方法論はそのように違うにしても、身体上にあらわれた問題に対し、その原因を心の深層部に求めるという点では通底しているのである。

心理面においても身体面においても、表層部へのアプローチに留まる治療法は多数あるが、そのような方法のみでは充分に対応しきれないクライエントに対して上に挙げた2つの手法が有効となる。

逆にいえばクライエントの関心が表層の問題に留まっている段階では、充分に整体指導や心理面接の効果が上がらない、あるいはその真価を活かしきれないケースも出てくるから注意が必要である。ニワトリをさくのに牛刀を用いるようなもので、相手の求めに適った技術で対応するのは治療者の必要とする能力である。

これは整体の技術でいうところの「機・度・間」という言葉でも説明ができる。つまり機会・度合・間合の3要素によって技術の成否は決まるという考え方だ。クライエントにとって適切なタイミングで適量の刺戟を用い、その後の変化を待つ(見守る)という、このバランスを重んじるのである。

一方心理面接においても「機が熟す」という言葉を用いて、クライエントの心的エネルギーが充実し、自身の「影」と対峙できる気力や体力が認められるまで待つことを大切にしている。

いずれにしても相手のなかにある健全な生命力というものをアテにした技術体系であり、その点においても両者を相補的にとらえ理解を深めることでより高次の治療体系を開拓できる可能性を感じさせる。

また理論も大切だが、それを使いこなせるかどうかは個々の治療者の経験にもとづいた力量によるところが大きいのも事実である。内的世界における影との対決を助成できるのは、先にそうした体験を通過したひとである。

生命活動の根幹を司るのが深層心理であるが、そこに関わるためには治療者自らが歩んだ内的世界の散策経験がモノをいう。

フランスの詩人ポール・ヴァレリーによって「自分と折り合いがついた分だけ、人とも折り合いがつく」という言葉が残されているが、己を知った分だけ他者がわかる、というのが人間の特性ともいえる。

つまり豊かな人間関係を気づく鍵はつねに自己の内的世界における対話によって開かれる可能性を秘めている、といっていいだろう。そこで焦点となるのは、それまでそのひとが心の全体性へと向かう動きを阻害してきた「影」という領域と、どれだけ親密な関係を気づけるかどうかにもかかっている。

つまり自身の生み出した「影」はそうした暗いイメージとはうらはらに、その後の人生における光の可能性を宿しているのである。

その光を求めて他者の心理の闇に潜っていく勇気や慈悲といった心は、生命を活かす道を歩むうえで欠かせない共通の態度であろうとわたしは思う。

 

関連リンク 影は心ののびしろ 影をなくした男

ミッドライフ・クライシス(中年の危機)

先日引退表明をされた安室さんについていろいろ考えさせられた。いわゆるユング心理学でいう「中年の危機」(中年というとちょっと失礼な感じもするけれど‥)的な動きを思い浮かべる。

しかしいろんな噂が取りざたされているけれども、「仕事を辞めます」と宣言しただけで自分の顔が朝から晩までテレビに映るような人生というのは、それだけでも相当なエネルギーが必要なのではないだろうか。

それにしてもこんなに女性のファンが多いとは知らなかった。

妻の妹がときどきライブにいったりしてたが、聞いてみたら、なんだ妻も好きだというではないか。

自分と妻と安室さんは同学年である(ちょうど40歳)。孔子は数え年の40歳で「不惑(まどわず)」という理想をかかげたが、実際の40歳はといえばたいてい惑う。

いわゆる40歳を「人生の正午」と仮定して、その時期に前後して起こるミッドライフ・クライシス(中年の危機)といわれる現象である。整体指導を受けに来られる人をみていても、だいたい平均して、30代の前半から40代半ばくらいに第一次の人生の見直しが起こることが多い。

どういうものか簡単に説明すると、20代の後半くらいまでこれが「自分、らしさ」だと疑いなく信じて安定していたものが、40歳前後でもろもろの環境の変化にともなってぐらついてくるのである。

つまり人生の最初のうち(20年くらい)は保護者、養育者、社会的価値観などによって目に見えないレールの上を淡々と生きてきたものが、途中から「これって本当に私の人生だろうか?」という疑問が湧いてくる。

この段階で正直に自分と向き合う作業をはじめると、たいていは過去に失われた自分の目標や夢、それから持って生まれた本来の資質などが記憶の底から浮かび上がってくることはよくある。

これはユング心理学で「影(シャドウ)」とか「No.2(ナンバーツー)」とか呼ばれるものにだいたい相当する。

たとえばある一人の人間の中に「カリスマ・ミュージシャン」という表の顔(仮面:ペルソナ)があった場合に、そうではない自分というのが裏の顔(影に隠れてしまった自分)としてしまい込まれていることがある。

若くて日の出の勢いがあるうちは仮面をかぶって演じ続けることもできるのだが、人生の正午を過ぎ、「残りの人生」という見方が出てきたときに表舞台でうまく生きられなかった自分というのが気になりはじめるのだ。

著名人ともなるとその仮面が理想像にかたより過ぎていたり、プライベートの場でもおいそれと仮面を脱げなかったりなど、自身の自然な自我形成に支障をきたすことも多い。

だから時として「早すぎる引退」というようなことが起こったり、人によっては犯罪的行為とか、命の危険をともなう大胆な行動にまで発展してしまうケースまで散見されるのである。

そうした行為は社会一般の価値観に照らすと「悪しきこと」として処理されることも多いのだが、実はこうした行為こそが一人の人間として心の均衡、あるいは全体性を取り戻そうという重要な動きでもある。だからこのミッドライフ・クライシスを上手に経過することができると、人間性が一つ円熟という方向へ発展したことになる。

だから適切な時期に自我の立て直し(再構成)が行われることが人格の成長過程として大切なのだが、芸能人という職業はともすれば人格を無視された「商品」としての性質も備えている。だから本人の自由意志だけで進退を決定できないという実状もあるだろう。それにしたって、おそらく今回のケースでも本人の中に「もう辞めたくなった」という気持ちが少しずつ芽生え、確立していったのではないだろうか。

まあ人間というのは生きている間は要求し成長を続けるものだから、仮に職業面で「表舞台」を去ったとしても人生の舞台は表も裏もなく続いていく。

彼女の内面で何が起こっているのかは本当のところ誰にもわからないのだが、もっと個人の人生を引きで見ようと思えば、むしろこの辺りが自己実現へ向かう分水嶺といえばそんな気がするのだ。

実際のところ影として生きてきた自分を表の自我に統合する作業は大変な苦痛を伴う大仕事なのである。人にもよるが、一過性に人格の退行現象(子供返り)が起こったり、精神面でも物質面でいろいろな喪失体験を味わうこともある。

大抵の人は40歳になる前から人知れずこうしたことを大なり小なりくぐり抜けてくるのだが、有名税というか、職業柄こうしたごくごく内面の心理的な作業であってもいろいろなシガラミを対外的に処理しなければできないのだから、なおさら大変であろうと思う。今さらながら安室さんを応援したい気持ちはつよくなった。

ともかく何のかんのいっても一人の女性なのだ。一般の方となんら変わらず同じように悩むだろうし、変化し成長していく。10年後、20年後、その後の姿を見ることができたらいいなと思うのだが、何となくそれはむずかしそうな気もする。月並みだけど、残りの活動期間を無事に終えられたらいいなと思う。

関連リンク 中年クライシス ユング心理学における影について

丈夫に育てるには自分の力で(病気を)経過させる:整体は自分がやるものである

病気させないのがいいのではなくて、病気をしても、それを子供自身の力で経過させるということが正当な育児法です。病気になっても、それを自分の力で経過し、全うするのでなければ意味がない。それを、治さなくては治らないのだと決めている。怪我をしたところで、その人の自然に繋がる体の働きがあって、その働きで繋がるのでなくては治らないのです。傷口を縫っても貼っても、それは早く繋がるように仕向けることであり、それで早く治るかどうかも判らないのです。けれども縫ったり貼ったりしただけでは治ったのではないのです。自分の体の力で治った時に、治ったと言えるのです。

麻疹がうつるといっても、その体がうつる時期でなければ、一緒にいてもうつらない。そして麻疹を予防しようとすると肺炎をつくってしまう。今年も肺炎になりかけた麻疹が随分ありました。予防注射でも、その体に適った時期にきちんとすればいい。しかし体が自然と発疹するのは、ちゃんと体が時期を選んでいるのです。だから一緒にしておいてもうつらないのに、幼稚園に一日行っただけでうつって来たというようなことがざらにあります。だから体に任せて経過を乱さないで通れば、あとは丈夫になるのです。(野口晴哉著『健康生活の原理』全生社 pp.39-40 太字は引用者)

整体指導を行うということは、病気を治すとか、病気を予防するとかそういうことは本来の目的ではない。

自分の体の力で経過させて、その力を自覚させることが根本理念である。

先日の予防接種の記事の流れで、つらつら書いてきているのだが本当に今の子供は肉体的にも精神的にも薬漬けだ。

大人の薬物中毒の問題もにぎやかだが、こちらは表面化しているのだからいわば陽性の問題である。つまりその罪は重いが根は浅い。

これに対して子供たちの薬まみれは陰性化している分、根は深いのだ。予防接種は表の顔としては良いこと、善いこと、として推進されてきたものだがこの世の中に100%良いことなどありはしない。

守り、庇えば、そのときはいいかも知れないが、相手の立ち直る力を奪いとることにもなりかねない。

さらには「副作用」に関する情報はほとんど表面化していない。つまり良いことばかりに目がいって、それ以外の反応には目を光らせない。もしくは目をつぶる。だから見えないのだ。

科学の目というのは本来、客観性や平等性が必須なのだが「人間」が行なう以上は真の客観性が発揮されるということは大変に困難なのである。

大抵は個人の利害や嗜好が大いに反映されて、見たい結果だけが見えることは決して珍しくない。

もう少し咀嚼していえば、副作用らしき反応が見えてもそれを認めまいと思えば「エビデンスがない」と言い放っていくらでも潰せるのだ。

余程の公平性をそなえた人間でないかぎり、真実の追求よりも個人的利害の方が先立つのがこの世の常、人情というものである。

個人的には予防接種を打った子どもをみると、妙におとなしいと感ずる。病気にさえならなければ平和だと考えるのだから、養殖人間みたいなものが増えるのではないだろうか。

こういう態度こそ見たいように見るわたしの「主観」なのだが、これは整体特有の人間観ともいえる。科学的医療の検査と整体的観察の違いを突き詰めれば、人間をできる限り数値化して測るか、感性で捉えるかの違いなのである。

これはなにも医療を全面的に批判する話ではなく、実際に平均寿命は延びているのだから一般医療の努力とその功績は当然認められてしかるものである。

ところがわたしはその医療の仕事に従事されている方々から、その限界性についてお話を伺うことが少なくない。医療のプロの方が西洋医療のゆく先にはもう答えはないとおっしゃる。

その反面、野口整体という世界に可能性を感じておられる方もいらっしゃるということだ。

この構図を整理して表現すると、「人間を知る」というプロセスを定量化から定性化へとシフトようというのである。

西洋医療が数値化の精度を高める客観性を第一として進化してきたのに対して、整体流に感性の質を高めた上での主観性を見なおして、相補的に「生きた人間」を捉えていこうという分岐に立っているのが現代である。

その第一歩が病気の自然経過を体験し、自分の真の体力に気づくことだとわたしは思う。

これによって今まで無自覚に封殺されていた「自分の生命感覚」を目覚めさせるのだ。体が整う、整っていくというのはいつでも「自分の感じ」というものが出発点である。

現代日本人の多くは子供の頃からそうした自然経過の機会を奪われているのだから、こうした生命の感覚を取り戻すのは実は大変な作業なのである。

そのために意識を静めて、雑音を排除し、徹底して自身の身体になりきる時間が欲しい。

整体指導というのはそういう自分の生命に対する最大級の礼を具現化したものと思ったらいいだろう。

そうした心身の「沈黙の時」がいのちを養うのである。

病症の自然経過というのは野口整体の看板文句の一つともなっているが、ただぼやーっと放っておくことではない。

もう一つ積極的に静けさを養うという、真摯な態度があってはじめて可能なのだ。自分の健康は自分で保つ、丈夫になる、ということは「やってもらう」ことではない。

自分で取り組んでいる人がどうしてもわからないところ、手の届かないところを指導者が手伝うというのが本来の形である。

健康というのはまぎれもなく自身の心の生活の積み重ねなのだ。整体というのは自分がやるもの。指導者の力を活かすのも自分、活かしきれなければそれも自分の裁量なのである。

病気が身体を丈夫にし、大人の身体を育てていく

体に起こるいろいろな変動も、いろいろなコースを経て抵抗力がでてきます。熱が出たり、汗が出たり、その他いろいろなコースを通って経過する。それを中断したらどうなるか。人間が病気になるという意味が解らないで、なるべく罹らないようにしようとしていますが、小さな児から大きくなるのには、いろいろな黴菌や、何かに対する抵抗力をつけて、何処ででも働ける大人になっていかなければならない。だから、病気にさえしなければいいんだといったような育児法は、温室の中に囲っておくのと同じで、子供の将来を弱くするのです。病気を途中で中断してしまえば、子供が将来、途中でバタッと倒れるような、あるいは力を発揮出来るものも出来ないような、そういう体に育ててしまうのです。(野口晴哉著『健康生活の原理』全生社 pp.38-39 太字は引用者)

整体の基礎、基本の話である。そして基本は極意である。

まずここがわからなければ、という所であると同時にここさえわかれば完成なのだ。

実際問題、野口整体の本を読んでくる人は多いが病気に対する理解とか、死生観まで共感してくる人は意外と少ないことが最近やっとわかってきた。こちらもうかつだったものだ。

予防接種のことを書いた記事のフィードバックからもわかったが、やっぱり病気を漠然と怖がっている段階から脱していないのだ。

いや病気は怖い。

それは間違いではないのだが。

処置を誤ればいのちを落とす、そういう危険性はまちがいなくある。

だから、野口先生はこれを「火」に例えたわけだ。

火は非常に怖い。

扱いを間違えば人命もうばうし、家屋でも山でもみんな燃やして灰にしてしまう。

ところがその火の性質がよく理解できてくると、寒い時には暖を取って、またいろいろなものを煮炊きすることで地球上に食材を開拓してきた。

いま世界中に人間がいるのは、そういう進化の途中で火を使えるようになったことが非常に大きい。

それは火を大きくしたり小さくしたりするための知識や技術を修めているからである。

その結果、

人間だけが火を「使える」。

病気も同じである。

「これってどういうものなの?」っていうことをまず考えなければ、といっている。性質がよくわかれば「使える」、有効利用できる可能性が生まれるのだから。

ところが世間全般に「病気をどうやったて治すか?」という角度からしかアタマを使っていない。

つまり、

スタート地点がもうずれているわけだ。

病気は悪、っていう価値観が最初にあって、その上で「さあどうしようか」と踊ってるのである。

これは人類が「火は熱い、怖い、」というところでずーっと止まっているのと一緒です。

それで、こうやったら消えます、いや、こうすればもっと楽に消せます。そもそもこうすれば出火しません(予防医学)。ってことをもうずーっとやってるのである。

整体はまず、

「そうじゃあない」

と言っている。

病気っていうのは身体がマトモに還るためのプロセスである。

とまず最初に直感した。

だからその性質をよーく理解して、上手ーく使えば身体を丈夫にすることができる、って言い始めたのである。

そういう革命的見方が最初にバキッと入らないことには始まらない世界なのだ。きれいなコペルニクス的転回である。

「何いってるんだ?」と思う人は整体やらないでいいわけで、

縁の無い人なのだ。

「常識を疑え」というのもトレンド化してるが、今さら常識がどうとかじゃなくって、もっと自分の全身を使って「考える」習慣を持とうという話でもある。

いま私はどうなってるのか?を自分で感じて判断する、「主観」が重要な世界なのだ。

病気っていうのは基本苦しいものだが、経過していく過程に快感もある。治っていく、丈夫になっていくという、秩序に向かって行く快感がある。

そういうところにピッとアンテナが反応して、そうだ!と思う人をわたしはマトモだと思う。非常に少数派ではあるが。

そして真実に気づいた少数派はたいてい苦労する。

昔からそういうものなのだ。

でも知った以上は、嘘はわかってしまう。

そういうことで、整体という生き方をしようと思ったらもっと徹底的に勉強しなきゃあならない。自分の身体、日々の些細な変化、そういうものが逐一わかるようになるまで身体感覚を研いでいかなければ、あぶなくて「自然」なんて生き方はとてもできないのである。

自分の身体で勉強するしかない。

ちょっと古めの言葉を転用すると、「自存自衛」のための身体学である。

それには「覚悟」みたいなものがいるのだ。

わたしはそういうところが「禅門」に似てると思っている。

禅で悟りたいんです、救われたいんです、といってさらっと門をくぐって入ろうとしたら大抵は和尚さんにぶっ叩かれるのだ。

わたしは誰が何と言おうと、自分で自分のいのちを見極める。

そうい気概がやっぱり必要である。

そうすると、整体はものすごく楽しい。

自分が世界の価値観を握るわけだから。

病気もおのずと消えるし、不幸も消えていく。

そういう自由性をだれもが握っているんだが、開花させるかどうかは本人次第なのだ。

まずは「理解」から。それも直感がないとはじまらないんだが。

人が整体を選ぶのか、整体が人を選ぶのか。

わからないけれども、まずは「そういう生き方をしよう」と思うことが第一関門である。

直感と理解だ。

それが縁を生む、そう考えると整体をやるには素質や資質も重要だ。

野口整体と予防接種:子供を丈夫に育てる知恵と覚悟

太郎丸がもうすぐ3歳だ。そんなわけで存在すら知らなかったのだが3歳児健診の案内状が来た。

たしか1歳児検診?かなんかの時だったと思うが、現地に行くとあっちからもこっちからも子供の悲痛な叫び声が聞こえて、「こりゃあなんのための集まりだ‥?」と妙に疲れて帰ってきたことを覚えている。

「身長を測ります」とかいって子供のかかとをギューギュー引っ張ったりするのがちょっと見るに堪えなかった。医は仁術じゃなかったのか。このくらいの時期なら大きいか小さいかくらい抱っこすればわかるじゃあないか。

人間はモノではない。そういう当たり前のところをスルーして、ものも言えない子どもを捕まえて、呼吸もタイミングもなくガサガサやらるのは残酷である。健康診断で親子ともに精神衛生を乱されるというアイロニー。

加えてうちは予防接種を打っていないので、そこをかならず突っ込まれる。

整体の仕事をしていると年に1、2回くらいは「子供に予防接種を打っていいんでしょうか?」といったたぐいの質問をいただく。大事な子供のためなのだ。いくらでも情報は収集して、自分で考えて決断すべきである。

参考までに一つ書いておくと、水野肇著『誰も書かなかった日本医師会』か『誰も書かなかった厚生省』という本のどちらかにBCG(結核の予防を目的としたワクチン)についての記述があったと思う。

これによるとBCGの普及率の増加と結核の罹患率の減少については数字上はなんの関連性もない、という調査結果が表されている。わかりやすくいうと「BCGを打ったら結核にかからない」という数値上の証拠は取れていないのである。

全く「無関係」ではないかもしれないが、だからといって何がなんだかわからないものを盲信して体内に注入するという神経がわからない。

まるっきり効果がないならまだいいが、何かしら作用はしているんだろう?人間の身体というのは研究して解っているのはほんの一部、99%はブラックボックスなのだ。それでなくてもワクチン関連の被害報告は枚挙にいとまがない。

そうかといって「野口整体」をちょっとかじったくらいでいきなり薬も飲みません、病院の検査は一切受けません、という盲信から盲信への枝渡りも困ったものである。

整体という生き方はなにも「西洋医療と対立する」という位置で固定されたものではない。「自分のカラダで感じ、自分のアタマで考えて行動し、その結果に自分自身が全責任を負う」という自立の態度なのだ。そもそも自立とか自由というのはそういうものだろう。

自分の健康は自分で保つ。

こう聞くと耳触りの良さも手伝って「アライイワネエ」といわれるが、わるいけど整体はそんな甘っちょろいものではない。

つまり他人の弁(客観)に頼らずに主観を軸に生きていくわけだから、その主観が狂ったら全てご破算なのである。

整体生活を志すならそういう基本的な思想理解からはじまって、身体がまあまあでき上がってくるのに3~5年くらいはかかると思って欲しい。取って付けたように整体やったって整体にはならない。生兵法はケガのもとで、いのちが掛かっていることを忘れてはならない。

くり返すが「自分の考えで行動して、その結果に全責任を負う」。自然界ならあたり前のことなんだが、人間の場合はこの大事なことを他人に丸投げしたまま生きている人が大勢いる。

いわゆる指示待ち人間、責任転嫁型の人間を脱却しないかぎり、自立した健康も、自由も独立もないのである。

弱ければ、強くなるより他ない。

どんなことに出会っても息を乱さず生活できるようになるまで、人知れず静かに鍛えることである。そういう覚悟がないなら最初から整体なんぞやらないでいい。

論点が予防接種からずれてしまったが、医術というものはたとえその行為がどんな些細なことに見えても、自分の、あるいは肉親のいのちに関わる一大事であることを忘れないでもらいたい。

世相全般にもっと真剣になってもらいたい。もっともっと、生きること死ぬことを深く悩んでもらいたい、というのが正直な思いなのだ。

活元運動のからだ

活元運動をやっている人は一種の雰囲気がある、独特の身体になる。と教室ではよくいっているのだが、具体的になにがどう違うのだろうか。

ひとことで言えば「弾力」ということになるが、これはスポーツでいうところの身体の「バネ」とはちょっとちがう。

またゴリゴリの健康体というのともちがうし、押せばはね返ってくるような「活きの良さ」とでもいったらいいだろうか。まあ赤ちゃんのからだである。

ボディーワークつながりでヨガをやっている方もよくお見えになるが、おなじ東洋系でも理想とする形はちがうようだ。

ヨガの人はもっと静謐というか、弾力というよりは押されたら押されっぱなしのヒモのような印象を受ける。物静かな人が多いのもそのためではないか。

たまにテレビで野生動物ドキュメンタリーなんかをみると、整体とは斯くの如しと思うものだ。

普段は凡庸としているようだがいざ駆けだすと、一気にトップスピードがでる。肉離れなんかまずないだろうな。弾力のなせるわざである。

弾力以外に表現するとすれば気品とか気高さだろうか。

生命の尊厳というか、そういうものがその人の一挙手一投足からにじみ出るようになったら、ようやく「整体」というのが身についてきたレベルだ、と思う。

自分でハードルを上げている気がするが、体が整っているかどうかの基準として気高さはポイントである。

ときどき通っている人が妙に品がわるくなって来られることがあるが、大抵はそれより数週まえに情動をおこして身体を偏らせている。

整体指導はあくなき美の追求といってもいいだろう。人間、美しさがあるうちは大丈夫だ。

足の拇と腰:外反母趾は腰を治すことで再発しなくなる

人間は足の拇(おやゆび)に体重が乗ったことで、直立し両腕が使えるようになった。そしてさらに両手の親指が他の指から独立したことで言語が発達した。

こういう経緯からもわかるように、足の拇はヒトから人間へと自立させた立役者である。まさしく人間存在の要なのだ。

逆もまた真なりで、意欲をなくし、自立性を失いかけた人は足の拇に体重が乗らなくなってくる。これは腰が抜けたことによる随伴現象で、外反母趾の予兆でもある。外反母趾は生活の中で心の全体性が働いていないことを象徴しているのだ。

つまり足の拇・踵・小指の三点に重心がうまく分散されていれば、精神活動の健全さは実証されている。また精神活動はすぐに腰の体勢にも反映されるため、外反母趾の治療において腰を正すことは非常に有効であり必須のプロセスである。

実は足腰というのはお互いの刺激による双方向性がつよく、腰を正せば足も正されるし、足をしっかり使えば腰はより柔軟に丈夫に発達する。昔から足うらだけを刺戟して全身の治療を行なう技術がいくつも生みだされてきたのは、理論上おおいにうなずける話なのだ。

ここでは専門的な治療技術は抜きにして簡単な訓練法を紹介すると、拇の根元に力が「入るように、入るように」とそこに気持ちを入れて歩くだけでも続けていればかなり姿勢は変わるのだ。先にも述べたが「足腰」という言葉があらわすように、足と腰は一蓮托生のもので足を正しく刺戟ことで腰を整えることは充分可能なのである。

腰がかたい人はあぐらのような格好で、足の拇だけを手で持ってぐるぐる回してみると良い。しばらく続けると腰がゆるんで動いてくる。寝る前に行うと入眠もよくなるのでおすすめだ。

スポーツは悪か

スポーツトレーニングの害について書いたが、とうぜん反論もあると思う。

いや、スポーツは体育手段として有効なのだ。それだけに副作用にも同等に目を向けるべきだと言いたかったのである。何でもいいから身体を動かしていればいいだろう、という粗雑な感覚には危険がつきまとう。

実際問題、競技の勝利者には栄誉を与えられるが、僅かな数のスターが生まれる一方で相当数の人がケガや故障で中途脱落している。まあ両極端をついた話で、その中間層で適度に楽しんでいる人の数が最も多いと思うのだが。

しかし「健康のために‥」と銘打った時には、まず「健康とは何ですか?」という問いの答えから逆算していかなければならないはずだ。ゴールがわからなければ正しい道などありはしない。

いろんな切り口から答えられるが、最近気になっているのは「血流」である。

道を歩いているとジョギングをしている人をよく見かけるが、毎日走ったからといって血行がいいかというとそうでもない。いわゆる体の「偏り」を放置したまま一生懸命動いたところで、身体にはその悪癖を基礎とした誤った動作が繰り返し記憶されるだけである。

だから身体上から余計な緊張箇所を明らかにして、それを取り除かなければならない。それが容易にできなくて、みんな苦労しているのである。

整体には「鍵刺激」という言葉があって、整体操法とは身体にかかった鍵を開ける作業ということができる。正確な方法で行なえば小さな力でも変化を起こせる、ということの比喩だ。

逆にいえば間違った方法でいくらこじ開けようとしても、くたびれるばっかりで下手をすればこわしてしまう。

だから何でもかんでも当てずっぽうにやっていたんでは、ラチがあかないのである。

スポーツの是非という話から論点がずれてしまったが、まあ整体流の身体の読みというのは一種独特であるということを繰り返し強調しているのだ。

俗にいう「自然体」などという言葉が示すような、「筋骨隆々でたくましい」という価値観からは逸脱したもう一つの強靭さというものがある。

つまり「やわらかさ」というつよさ。

それは競技主義に偏り目先の勝ち負けなどに拘泥すると、あっという間にその姿をくらましてしまう。

本当はもっともっと自由に、楽しい方へ身体を動かせばただそれだけでいいのだ。

ルールも何もない広大な世界を全力で生きているとき、いのちは無制限に躍動する。

人間、ほんの一瞬でも目的を捨てて動くことができたなら、それは何より素晴らしいことではないか。

背骨感覚を鈍らせるもの

前回背骨の感覚を磨くことの重要性を説いたが、逆に言えばその感覚を鈍らせる行為を知っておくことも必要だろう。

すぐに思い浮かぶのは過度な食事(栄養過多)と過度なスポーツトレーニングである。

どちらも人間の生活にとって身近なものであるだけに、現代は鈍った身体が蔓延しているのだ。

この記事では後者について考えるが、最近改めて気が付いたのはやはりスポーツトレーニングによって育つ身体の隠れた弊害である。実際はスポーツといってもいろいろあるし、取り組み方もアマチュアからプロ、その中でも一流、超一流といわれるようなレベルのものまで考えると十把一絡げには語れないというのも事実なのだが。

しかしその多くは、成否の基準が記録(数字)や他者との相対的な成績に合わされているために、身体感覚を無視した破壊的なトレーニングが横行している。

もう少しやさしくいえば、スポーツというのは「記録のためなら少々の怪我はやむなし」という思想を、競技者と指導者、そして観客までが暗黙の了解を持っているという印象を受ける。時にそれが「名誉の負傷」などといわれ美談として賞賛されたりするが、まったく愚かなことである。

身体というのは本来、自らの内部感覚に則して動けばこわれない。

しかし記録を出すためには如何にその内部感覚を無視して突っ走るかという、いわば天然のリミッター解除がトレーニングの実態だったりする。そのために記録と引き換えにいのちを削るという問題が出てくるのである。

もう少しメカニズムを詳細に考えてみると、どうも随意筋の異常肥大が諸悪の根源ではないかと思うのだ。

あえて限定すれば、過剰負荷によるウエイトトレーニング(いわゆる高重量・低回数の動作)の反復が背骨感覚をもっとも鈍らせる。

これはまあ、自分でも経験があるからわかるのだが随意筋にテンションが掛かりっぱなしになるので背骨が動かなくなるのだ。

そうすると食欲を中心とした生理的欲求も微妙に狂ってくるので、身体感覚を規矩とした天然自然の生活からはどんどん遠ざかっていく。

むかし競技空手をやっていた経験からもいえるが、その当時周りにいた人たちを思い浮かべると怪我が異常に多かったし、中には「息が吸えない」などという妙な異常を訴えている人までいた。腹直筋が緊張しすぎているのである。試合に勝つためには有効な身体かもしれないが、いのちは縮む。

まあその辺りは価値観の相違である。

「人生に何を求めるか」によって「正解」は変わる、とうことだ。

だが、そうしたプロスポーツの影響でアマチュアの方までが健康のためと称して異常肥大した筋肉体を作るとしたら、それは指導者層のミスガイディングと言わざるを得ない。

平たく言えば筋力のみならず、あらゆる生理的平衡要求(持って生まれたバランス)をいかに活用するかが自然の健康を保持するための最重要課題であり、それが全てなのである。

我田引水的になるが、野口整体が活元運動に集約したという事実がその完成形といっても過言ではない。

先にも言ったように価値観や趣味嗜好の問題までは口出しできないわけで、ボディビルでも何でもやりたい人はやっていただいたらそれでいい。だがそうした行為がもたらす結果(功罪両面)までを熟知している愛好者や指導者は、おそらくだが、半数もいないのではないかと予想する。

まあ基本的には身体をどんなに鈍らせても、その鈍った身体が起こすさまざまな不祥事をまた親切に修繕しようという技術も日進月歩で発達している。

我々からすればあらぬ方向へ(そもそもが「方向性」などあるのかも疑わしいが)の進歩なのだが、整体として進む道とは全く別の方向であることだけはこの際はっきりさせてておかねばならぬ。

極論すれば外的価値観に隷属して生きるか、内部感覚を畏敬の念を抱いて生活するかの違いである。

まあこうした理論が身体感覚を通して腑落ちするまでには整体を専一にやっていっても数年はかかると思う。わたしなどは旧来の悪弊が(ある程度)抜けてくるまでに軽く10年を要してしまった。いわゆる筋肉馬鹿だったのだ。そこまでではないにしても、身体感覚、あるいは生命の原始感覚というようなものを完全に取り戻すには一定の歳月を要することは理解していただきたい。

ローマは一日にしてならず。整体とは純化した身体感覚の結集によって生まれるバランスの産物なのである。