昨日ミッドライフ・クライシスについて書いた記事でユング心理学の「影」という概念に少しだけ触れたが、実際には今まで否定的にみていた自分自身の資質を認め、受け入れていく作業というのは整体指導や心理療法の治療モデルの根幹をなすものである。
いわゆる自己受容と呼ばれるそれである。
最近は「あるがままの自分を受け入れて‥」という言葉をよく耳にするが、耳ざわりがいい反面、自己受容という作業はなかなかに困難なものである。
ものごと全般においていえるが、嘘というのは案外やさしく、真実は厳しいことが多い。それだけに自分自身が影に追いやった資質に肉薄するというのはそれだけ心のエネルギーを要する行為なのだ。
これについて河合隼雄著『ユング心理学入門』に判りやすい記述があるので、一部抜粋して引用する。
影の内容は、簡単にいって、その個人の意識によって生きられなかった反面、その個人が認容しがたいとしている心的内容であり、それは文字どおり、その人の暗い影の部分をなしている。われわれの意識は一種の価値体系をもっており、その体系と相容れぬものは無意識化に抑圧しようとする傾向がある。
…影はつねに悪とは限らない。…それはむしろ、今後、自分のなかに取り上げられ、生きてゆかねばならない面と考えられる。つまり、今までその人として否定的に見てきた生き方や考えの中に、肯定的なものを認め、それを意識のなかに同化してゆく努力がなされねばならないのである。
このような過程が分析において生じるのであって、これを、ユングは、自我のなかに影を統合してゆく過程として重要視している。分析というと、何か自分の心理状態を分析してもらって、分析家に、あなたは何型ですとか、こんなところがありますが、こんなところはありませんかとかいってもらって終わるものと思うひともあるが、そんな簡単なものではない。
自分で今まで気づいていなかった、欠点や否定的な面を知り、それに直面して、そのなかに肯定的なものを見出し、生きてゆこうとする過程は、予想外に苦しいものである。影の自我への統合といっても、実際にするとなると、なかなか容易ではない。(河合隼雄著『ユング心理学入門』培風館 pp.101-105 太字、改行は引用者)
このように、一人の人格のなかには自分として相容れない異物のような資質があり、それが抑圧された結果として「影」が構成されている。
「マイナスや欠点は本人の努力によって克服すべきもの」という考え方はよく目にするが、こういった「前向きな」思考態度は欠点を欠点のまま受け入れ、上手に活かすという自然体(あるがまま)で生きていく道を死角に追いやることになる。
たとえばここにダイエットに関心をしめす女性がいたとする。するとその女性は「やせればきれいになる」という価値観がつよく入ってる人であるといえる。
そこで仮にやせることに成功して自信を持ったとしても、「やせていない自分像」は否定されたままなのだ。
だからつねに体重の増減によって安心したり不安になったりする気持ちは抜けきらない。
ところが2~3歳くらいまでの子供を見てみればわかるが、子供にはもともとそのような価値基準はないのである。
だからこのような場合、人生上のどこかで「やせていない=バツ×」という価値体系をどこかで持たされてしまったと推測することができるだろう。
そのような場合、理想としてはそうした価値体系を持たされたときまでさかのぼり、そのような容姿の変化で左右されない心の安定感を取り戻すことが自己受容の自然なプロセスである。
少し話はそれるが、野口整体では整体指導という臨床のなかにおいて、「潜在意識教育」ということを中核に据えている。
すなわち意識の深層に格納された、その人の心身全体における調和を阻害する「異物」を消失させることを目的としている点では、ユング派の心理療法によく似た面があるといってよいだろう。
違いをあげるとすればその手法にある。心理療法は言語を主体とし、その補助的手段として箱庭療法や遊戯療法、あるいは体操のような身体的刺激を用いるのに対して、整体指導の場合は言語と非言語の境界が曖昧であり、むしろさまざまな身体的刺激が溶け合って一つの技術体系をなしている点である。
つまり言葉もまた音を媒体とした身体的刺激として考えている面があるし、身体的刺激と言語作用を互いに相乗的に活かすことができるレベルになるまで指導者は訓練を積んでいく。
ともかく方法論はそのように違うにしても、身体上にあらわれた問題に対し、その原因を心の深層部に求めるという点では通底しているのである。
心理面においても身体面においても、表層部へのアプローチに留まる治療法は多数あるが、そのような方法のみでは充分に対応しきれないクライエントに対して上に挙げた2つの手法が有効となる。
逆にいえばクライエントの関心が表層の問題に留まっている段階では、充分に整体指導や心理面接の効果が上がらない、あるいはその真価を活かしきれないケースも出てくるから注意が必要である。ニワトリをさくのに牛刀を用いるようなもので、相手の求めに適った技術で対応するのは治療者の必要とする能力である。
これは整体の技術でいうところの「機・度・間」という言葉でも説明ができる。つまり機会・度合・間合の3要素によって技術の成否は決まるという考え方だ。クライエントにとって適切なタイミングで適量の刺戟を用い、その後の変化を待つ(見守る)という、このバランスを重んじるのである。
一方心理面接においても「機が熟す」という言葉を用いて、クライエントの心的エネルギーが充実し、自身の「影」と対峙できる気力や体力が認められるまで待つことを大切にしている。
いずれにしても相手のなかにある健全な生命力というものをアテにした技術体系であり、その点においても両者を相補的にとらえ理解を深めることでより高次の治療体系を開拓できる可能性を感じさせる。
また理論も大切だが、それを使いこなせるかどうかは個々の治療者の経験にもとづいた力量によるところが大きいのも事実である。内的世界における影との対決を助成できるのは、先にそうした体験を通過したひとである。
生命活動の根幹を司るのが深層心理であるが、そこに関わるためには治療者自らが歩んだ内的世界の散策経験がモノをいう。
フランスの詩人ポール・ヴァレリーによって「自分と折り合いがついた分だけ、人とも折り合いがつく」という言葉が残されているが、己を知った分だけ他者がわかる、というのが人間の特性ともいえる。
つまり豊かな人間関係を気づく鍵はつねに自己の内的世界における対話によって開かれる可能性を秘めている、といっていいだろう。そこで焦点となるのは、それまでそのひとが心の全体性へと向かう動きを阻害してきた「影」という領域と、どれだけ親密な関係を気づけるかどうかにもかかっている。
つまり自身の生み出した「影」はそうした暗いイメージとはうらはらに、その後の人生における光の可能性を宿しているのである。
その光を求めて他者の心理の闇に潜っていく勇気や慈悲といった心は、生命を活かす道を歩むうえで欠かせない共通の態度であろうとわたしは思う。