忙中閑あり

日本の現代社会を生きている人ならまず「閑(ひま)」な人などいないだろう。

ともかく「何もしていない」人など見つけること自体、困難を極める。

電車に乗っていてもスマホを凝視、降りても凝視、あるいはパソコンを開く、テレビを観る。

頭の中をあらゆるジャンルの情報が無作為に駆け抜ける生活をされている方が圧倒的に多い。

それが「良い、悪い」ということはまったく当人の趣味嗜好だが、そのような毎日にあって「本来の自分」というものを見失わずに生活ができるのかと、心配になる。

うちにお越しになられる方も総じて「忙しい合間を縫って」来られる方は多い。

まさしく「忙中有閑(ぼうちゅうかんあり)」の故事に倣うように、忙しいさ中にあって閑(静)を求めて来られるようである。

ただしこれは何も「忙しいさ中でも時間をひねり出し、お茶の一杯でも飲もう」という話ではない。

「忙しい」といっても「ひま」といってもそれは外の現象ではないのである。

「心を亡くす」と書いて忙しい。

こういう文字の成り立ちから言っても、「忙しい」とは物質現象ではなく心理現象であることは明らかだ。

そして心理現象とは即ち身体現象なのである。

心を亡くしているのなら、その心を蘇らせればいい。

これを生理学的にいうなら、脳のはたらきを切り替えることなのだ。

身体の力の一切を抜かなければ、頭は休まらない。

そのためには身体の中に緊張を点在させている未消化の感情エネルギーを見つけだし、よろしく流してやることである。

この世界には最初から「忙」という現象などない。

よって自分自身の心の掃除、そして体の整頓こそが忙中に閑を生み出す。

まさしく自他一如。身体は世界を映し出す鏡なのだ。

鏡の曇りを取り除けば、そこにはそのまま、あるがままの現在の様子だけが映される。

その時にはもはや「忙」も無し。「閑」も無し。

そうなればこの世界を取り換える必要も無し。

自分が自分に還れば、みんな消えてしまう。

本当の閑は「今、ここ」にあり、なのだ。

岸根公園 2017.10.8

先週の日曜日に引きつづきミツコ・太郎丸といっしょに岸根公園に出かけた。

3歳になったあたりをさかいに、あそべる遊具の種類がかくだんに増えた。

いっとき怖がっていたアミアミブリッジもはいはいで難なく突破。

 

ロングすべり台を滑走し‥

 

つり橋もガンガン渡り‥

 

ふぁいとー、いっっぱーつ!

 

こちらはかなりグラッグラのつり橋。

この難所で調子こいたお父はズボッと右足が滑落した。太郎丸もまきぞえになって(かなりキケン!)泣いたが、すぐにリカバリー。直後「オトーサンハ、アッチイッテテ!」と言い放つや単独踏破。鋼のスピリットを持つ3歳児に若干引く‥。それにしてもよく動いたわ。

帰り道、ベビーカーで寝落ちするかと思いきや全然元気。。これからますます体力もついてくると思うと、いやあ‥‥ねぇ(俺40歳)。

まあ整体指導に引退はないので、ちょうどいい刺激にはなるか。

いやしかし、厳然と歳はとっているのだと実感。

体力に自信あったけど、過信はいけないと反省もした一日だった。外路系の訓練だけは怠らないように、と活元だけは淡々とやっていく。

医者の不養生よろしく、整体指導者の不整体はゆるされない。生物は本来、生涯現役である。

活元運動のコツ「雑念について」:ポカンとできない、ポカンってどういうこと?3

問(60) 坐禅中雑念が次々と出てきてどうしようもない時がありますが、そういう坐禅でも宜しいのですか。また雑念とはどういうものですか。

答 うんそれで良いのです。それが今の様に、皆雑念、雑念というて、自分で考え過ぎているのです。教えられたものを、出てくると直ぐそう思うのです。それが雑念なんです。

…<中略>…一寸出ると、アアこれが煩悩じやというて、そういう考えを以て取り扱う。そしてそれを無くしよう、無くしようと思うから、それで間違うのです。(井上義衍著『玄魯随聞記』龍泉寺参禅道場発行 p.77 太字は引用者)

さて、さらに昨日から引きつづきである。「雑念について」。ちょっとくどいかもしれないけど‥。

活元運動は「あたまの中をポカンとして自然の動きにまかせる、それだけでよい」ということになっている。

そのポカンが誤解されやすく「なかなかポカンとなれません」とマジメにがんばる方がいるので、「もっといいかげんでいいですよ」というアドバイスをすることもままあるのだ。

上の引用は坐禅の話なので方法論がことなるが、まあ大事なところは共通している。

つまり、いわゆる雑念だとか、煩悩だとかいうものは放っておけばいい、という。

ここでまた「放っておく」と聞くと、「放っておこう」とがんばる人もいるのだが‥。

ただしこういうことも言える。

坐禅と活元運動の両方を経験した立場からいうと、精神状態は微妙にことなる。

活元運動のほうは個人のからだの特性や状況、疲労度合に合わせて適度な運動がでるので、自分の体験としては統一状態、というか良い気分に入り込みやすい。

いや活元運動の優性を説いているわけではなく、坐禅の場合は生活全体が禅という態度で行われないと、一般の方が趣味的に行っているだけでは意識が静まりにくいと思うのだ。

もう一つには「活元運動が出ない」とか、「いろいろ考えてしまいます」というひとは、そもそもがあまり回数をこなしていない初心者の方が圧倒的に多い。

ひとつには「慣れ」、なのである。

だからまあ、いろいろ考えているよりも繰り返し活元会に参加して、意識も身体も気持ち良くとけてなくなっていくような感覚をあじわってほしい。

だいたい4~5回もやれば、動きもこなれてくる。

興味のないひとにまで教えることは非常にむずかしいので、そんなことまではしないけど、活元運動は覚えておくと本当に便利なのだ。

便利というか、本来なら必須のものと思っている。

だいたい月に一回か二回、活元会で行うとして、それを一年くらいつづければからだの調整機能は安定するし、意識が騒がしいひとならだんだん落ち着いてくる。必要なときに運動が出るようにもなっているだろう。

きっとそのころには雑念とかポカンとか、そういうことも忘れていると思う。整体というものはあたまの勉強だけでは不充分で、環境とか場の雰囲気にひたることで少しずつからだに馴染んでくるものだ。

やり方さえ教わったら、あとは気の向くときにどんどんやっていって欲しい。1年もするころにはいろいろな恩恵にあずかれるはずだ。

活元運動のコツ「天心について」:ポカンとできない、ポカンってどういうこと?2

きのうの活元会の話のつづきになるけれど、野口整体の本には「ポカンとする」という表現がしょっちゅう出てくる。

それで最近気がついたことがあって、その「ポカン」という言葉の印象がつよいらしく、何か本当に頭が空っぽになってまったく念が浮かんでこないことを期待するひとがけっこういるのだ。

俗にいう「無心」とか「無念無想」とかいう言葉のイメージが先行して、自分がきちんと目が覚めて活動しているときでも「頭のなかに何にもでてこない」、そういうことが本当にあるように思われるらしい。

当然のことながらいくら「ポカン」といったって、そんな状態などありはしない。

あるワケがない。

少しこれに因んで仏道のほうから言葉を借りると、「目耳鼻舌身意(げん・に・び・ぜつ・しん・い)」というのがあるけれど、

これらは「六根」といっていわゆる「五官(五感)」、プラス「意」。意というのは、まあ心とかイメージのことを指している。

人間として生きて活動しているかぎり、この六つの感覚器官はつねに付随する、ということだ。

目が開いていれば必ず何かしら景色が見えるように、生きていれば頭の中にはいろいろな言葉やイメージがいつも去来しているのが正常なのである。

健全というのはこの正常さがそのまま現れていることで、それ以上のことを期待するのは誤り、というか欲ばり?

ところが「瞑想」とか「精神統一」なんて作り事をやろうとすると、この正常なはたらきであるはずの意識の活動を邪魔に感じるようになってくる。

俗にいう「雑念」とか「妄念」という取り扱いをして、とかく浮いてくるイメージをどうにかこうにか押しとどめようとするのだが、これは全くおかしなことではないか。

このあたりについて野口整体の『健康生活の原理』という本に「天心について」という見出しから始まる一文があるので、下に引用することにする。

天心ということ

活元運動も相互運動も、行うときに一番大切なことは、やり方ではありません。「天心」であること、が根本です。

天心で欲のない、相手に何ら求めることもなく、恩を着せることもなく、ただ自然の動きに動く、そういう心の状態でやらなくてはならない。

親切にしてやろうとか、やってあげる、受けているというような心があったり、自分の技術を誇るとかいう心でしてはならない。

…<中略>…

「心を空っぽにすることは難しい、無心になろうとすると、あとからあとから雑念がわいてくるのですが…」と質問した人がありました。けれども雑念があとからあとから沸いてくる時は無心なのです。

心が澄んできたから、雑念があとからあとから出ては消えるのがわかるようになったといえる。或る雑念が心から離れないで、次の雑念を生み出すようだといけないのです。

だから浮かんでは消える雑念のまま手を当てていれば動き出してくるし、動き出せばひとりでに雑念がなくなって、統一状態になります。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.124-125 太字、改行は引用者)

このように、つねに何か浮いては消えていくのが生きているこころの実相といえる。

そのために、からだを静止して自分の念の動きにフォーカスしてみると、いろいろなイメージが流れていることにはじめて気がつくのだ。

ところがそういう中に、他人を悪く思ったり、欲心めいたことが浮かぶとすぐそれを「雑念だ」、という人がいる。

わたしに言わせれば、そういう風にただ浮かんできたことを追っかけて、これは良いとか悪いとかいうこと自体に不自然さがある。

むしろそういう行為こそが人間的な欲心ではないかとすら思うのだ。

例えば雑草なんていう言葉もあるけれど、もともとはこの世界に雑草という草はない。

ところが庭の手入れなんかしていて、この花はのこそう、この草はむしろう、そうやって分別心を起こすから「雑草という取り扱い」が出てくる。

別にそのこと自体、人間の生活を邪魔しているということはめったにないのだが、そこに好悪の情を持ち出すから障りになるのである。

「雑念」というものもこれと同じだ。

頭のなかに出てきたものは、別になんにも邪魔にはなっていない。

悪心といったって欲心といったって、そんなものはそれを相手にしているわずかな時間だけが問題になるのであって、一日の生活全体を見渡してみれば、風呂に入ったりお茶を飲んだりして、そのことがすっかり消えている時間もいっぱいある。もとより人畜無害のものである。

そんなものをいちいち振り払おうとしてみたり、呼吸に集中するだの、数を数えるだのいろいろやって、それでも「気がつくと考えちゃってます」なんてやっているのは、徒労以外の何ものでもない。いわんや自分の念を怯えて逃げ回っているなど滑稽の極みではないか。

もっともっと、自然の、あたりまえの在り方について目をつけるつもりでいたらいいじゃあないか。

訓練してようやくそうなるような話ではなく、普段の一日の生活のなかにだって「ポカン」としている時間はいくらでもある。

おそらくは今朝だって「無心・無念無想」で靴を履き、出かけていったひとがほどんどだろう。

そういう時にはいっさい気にならないものが、ちょいと「集中」とか「精神修養」めいたことをやろう、なんていうともうそれが気になってぐしゃぐしゃになってしまう。そんな人が存外多い。

ただ、そのまんまにしておいたらいい。

放っておけば出てきたものは即座に消えていくことに気づくはずだ。

瞑想だって活元運動だって教える人が「きちっ」としていれば、そういうこともおいおいわかってくるはずなんだけど。

むしろ一つの「雑念」を三日も四日も、ずーっと取って置こうと思ったらそっちの方が大変ではないか。

消そう、流そうなんて思わなくたって、こころに浮かんだものはいつだって自然に流れていってひとつも跡を残していない。なんだ、みんな最初っから無心だったんじゃあないか。

それに気がついたらもう作り事はやめてその最初のところに帰ればいい。いや、実際ポカンてなったら帰ることすら忘れるんだけど。ポカーン‥。

活元会 2017.10.5:ポカンとできない、ポカンってどういうこと?

今日は10月最初の活元会でした。

長編の教材を用意していたのに今回は使わずじまい。あら‥。

いや、話の流れで「ポカンとするってどういうこと?」というテーマでしゃべった気がします。あんまり覚えてないんだけど‥。

それで教材は使わないで、日本に曹洞宗の禅を根づかせた道元禅師による『普勧坐禅儀』(みんなにおすすめできる坐禅の仕方)から下の一節、

心意識の運転を停め、
(しんいしきのうんてんをやめ、)
念想観の測量を止めて、
(ねんそうかんのしきりょうをやめて、)

とういうところを使って野口整体でいう「ポカン」についてつらつらーっとしゃべっていったと思います。

つまり、

ここらで一回、こころの働きということを一切やめてみましょうよ、

思いというもので、ものごとを測るのもちょっとの間やめませんか、

という感じでいいと思うのです。

そうすると、何がどうなるんですか?っていうと、

まあ何も起こらなくなるんですね。

世の中にさまざまな悩みの種とか問題がありますけれども、問題を起こしているのは必ず自分です。

つまり、現場はいつも向こう側ではなくこちら側。

その自分というはたらきの中でもあえて限定すると、

「頭の中」

ですよね。

そこがピタッと収まるように、自分自身を持ってってやる。

もう少しくだいていうと、

頭のはたらきが止まる、という「身体の構え」があるわけです。

そういうものがさっきの道元さんに代表されるお坊さんたちの修業の核心部分だと、わたしはつねづね思うのです。

そのために「坐禅」もあるし、それ以前に朝から晩までお寺の掃除をしたり、お庭の草をむしったり、ご飯を作って食べて、お茶碗を洗って、という「作務(さむ)」があるわけです。

そうやって、身体内に余剰エネルギーを残さないように自分自身をくまなく使っていく。

また、そういうことを出家した坊さんだけの特権と考えないで、われわれだってやれるし、またやれないと「救い」っていうものがもう本当にみなさんの日常の生活から遠い存在になってしまう。

それじゃあだめでしょう?

この身体というもので誰もが修行ができて、自分で自分を修めていく、救っていく、というそういういき方でなければ本当の意味でみんなの役には立たないでしょう?

活元運動っていうものはそういう系統の、つまり東洋的な身体行のエッセンスといって差し支えないものです。

だから体力のあるひとないひと、若いひともいれば年寄りもいるし、男でも女でも同等に行なえる、病気があるとかないとか、そういうこととはまったく別次元の生理的な作用の部分で訓練をしているわけです。

そして個人個人にピッタリ適合した体運動がきちんと行われることで、身体の脱力がすすんでいって、これに応ずるように頭のはたらきというのが徐々に静まってくる。

つまり「ポカン」になっていく。

こういうプロセスというか、ちゃんとした生理学的な道理があるわけです。

最近は、考えるのをやめましょう、頭のデトックスをしましょう、スマホを長時間見つづけるのはやめましょう、

と、

そういうことを巷でもよくすすめていますが、

頭が休まるとか、心の平安とか、安心とか、ポカン、

こういうものはみんな、

考え方とか思考形態のバリエーションではなくて、

身体能力なんだ、れっきとした身体の技術、なんだ、

っていうことを、

なるだけ早い段階でおさえてもらいたいのです。

つまり頭だけの問題ではなくて、

首から下の状況っていのがものすごく大事。

「悟り」だってそうでしょう?

道理とか理屈のものだったなら、文字で読んだり、話で聞けばみんな済むことになってしまう。

道元禅師だって中国(宋)まで命懸けで教えを乞いに行く必要はなかったってことになっちゃう。

ところがやっぱり、こういうものは自分自身の心と体をフルに使って、自分自身に実証してやる必要があるんです。

「ああ、なるほどな」

「ポカンとするっていうのはこういう状態なんだ」

「からだがこうなるから頭が休まるんだな」

っていうことを、実体験して、それで自分自身のちからにしていかなくっちゃあいけない。

人にやってもらうようなものじゃあないんだよね。

そういう意味で、みんなで修業しやすい環境を作って、一人ひとりが自分に取り組んでいく。

そういうような感覚で「活元会」っていうものを利用していただければ有意義な「場」になると思うのです。

昔からそういう場所のことを、

「道場」

と、こう呼んでいたと思うのです。

まあちょっと穿った言い方をすれば、

本当はいま、みなさんの身体のあるところが道場、といってもいいわけですけれど。

「歩々是道場」

っていったりしますしね。

ともかく体をこまやかに整えていく。

そうやって自分自身を大事に使っていく習慣を身に付けるんです。

粗雑なのはだめ。

だからポカンっていう「頭のはたらき」だけにフォーカスしないで、

自分の手足、枝葉末節から、腰、要の部分ですね、

そういったところまで、

体のパーツ、パーツをこまごまと、上手に手入れしながら丁寧に使っていく。

そういうことの積み重ねで、ようやく「精神」のはたらきっていうのは少ーしずつ上質な方向へ変わってくるわけです。

むかしから「精神修養」っていいますけど、そういうことだと思うんですよね。

ま、体のことでも心のことでも、現代はあまりにインスタントな手法に流されやすい、

世相全般にそういう風潮があると思うので、整体っていうのはまず、「そういうものとはちょっと違うんだよ」っていう認識は必要かなと。

なにも厳しいわけではないし、むずかしい話でもないと思うんですけど、着眼っていうか目のつけどころがちがっちゃうと、やっぱりいくらやっても成果は上がってこない。

「まちがいのない」ようにやっていただくことだし、こちらもミスガイドにならないように気をつけながら、これからもやっていこうと思ってます。

次回は、10月14日(土)です。

不易流行:これからの野口整体

夕方関内の歯医者に行く途中こんなノボリを見つけて感慨深い思いをした。

極真カラテと加圧トレーニングか。時代のうつりかわりを感じる。

昔はこんなんだったのに‥。

しばらく見ない間にフィットネス嗜好に寄ってきていて新鮮だったが、ビジネスとして生き残るためを思えばものすごく納得。どんな仕事でも二代目は大変なものだと思われる。

それにしても身体論というのはその時代を反映するものだ。

というよりは一人ひとり、個々の身体が結集して一つの時代を構成するといったほうが正しいか。

だからある特定の地域で行なわれる身体行法とかボディワークなるものをつぶさに分析すれば、ニーズから逆算してその時代や地域に生きる人々の身体像まで見えてくるはずだ。

「野口整体」というのも大正時代からつづく身体性や生命観の変遷の波にさらされ、それを乗り越え乗り越えしながら今日まで生きてきた。

往時にあっては虫垂炎とかチフスの患者もみていたというし、空襲で焼け出されたひとの火傷を手当てすることもあったそうである。

今となっては昔日の光景を簡単にはイメージできないが、事実そういう歴史があって現在に至ったのだ。

そんな歴史の中で野口先生の偉業の一つは霊動法を活元運動に改名したことだと思っている。

いや些細なことかもしれないが、何ごとも時代性に適合することは死活問題になる。

もちろん臨機応変を是としつつも、本質まで変節してはいけないが。

どんなものでも時代時代に必要とされる価値観を備えていなければ、本質がどれだけ優れていようが表社会からは淘汰されてしまう。

大正時代にはいわゆるオカルトブーム、いま風にいえばスピリチュアルブームがあったために霊とか魂といった言葉が現代よりもずっと生活のなかに浸透していたようである。

そこからくだって昭和、戦前・戦中・戦後と人間の主体が感性から思考へとシフトし、科学的な知見の比重が増すにつれてオカルトの権威と存在価値はうすれていった。

そこで「霊が動いて、魂を浄化する」といった宗教色の濃い観念論を脱し、「錐体外路系の訓練」という科学的見地をそこに付与したことで、淘汰の対象から逆に時代を牽引する立場を確立していったのである。

「いわゆる天才」の所業。全体を直観し先を見通す力は出色のものである。

ただし牽引といっても先を走り過ぎて、いまだに事勢は追いついていないのだが。

つまるところ野口整体が何を謳っているかといえば、自身の感覚に問う生活を勧めているのだ。そして、そのことを通じて「いのちを大事にしていく」という態度を、自分の一挙手一投足に現していく。

古今東西これ程わかりやすく説かれた生き方の道があっただろうか。

人間が太古のむかしからずっと営んできた生活をそのまま是とし、それを現代社会に矛盾なく体現していくのが「整体」である。

そもそもが健康、生きる死ぬといった不易の問題に対し、時代性とか価値観、宗教観なんていう極めて流動的なものさしで取り合っていくから話がややこしくなるのだ。

これじゃあ余分な軋轢だって増える一方である。

ところがそういう「人間の考え方」とか、「はからい」をずっと飛び越えたところで、万世を貫いて変わらないものがある。

「自然」

とはそういうものであろう。

だが現代風に「自然がいいよね」というとき、だいたいそれは「人間のつくった」自然である。

本来「自然と親しむ」というのは、森林浴とか海水浴とかそういう人為的なものの中にはありえない。

もっと、うんと身近なところに自然はある。

身近すぎるからこそ「出会えない」。

その身近な自然を体得するために、人間には着眼を正すための修業・鍛錬がいる。

しかしながら他人が作った、型にはまった鍛錬は形骸である。

一人ひとりが自己の感覚に問う、真摯な態度を前にしたときに自然はその姿を「美」として現す。

簡単なことなにだが、これを体現する人は少ないのも事実である。

それだけに、噛んで含んで誰もが呑み込める形へと再編をくり返しながら、細やかに需要に応えつづけるのも供給する側の務めだと思っている。

昔から自然を体得した人の中には、融通無碍とか自由自在とか、いっさいのとらわれから放れきっている生を自得した人は少なからずいるのである。

ところがそういうことに対して、現代ではすぐに「そういう昔の人たちはちょっと別だ」という向きもあるから、まずこれがいけない。

可能性はいつだって等しくある。

今も昔も人間は同じ人間ではないか。

その可能性を開く鍵はいつだって生と死の間にあって、

それは、

今日のいのちを静かに見つめることなのである。

元来、養生とは斯くの如し、だ。

しかしその見つめ方、その説き方、そういうものを新たに開拓していく独創性も体が乱れていれば生じない。

整体を説き、勧めるのはただ一点、いのちの最善の状態を保つことで全力を発揮し、今を生き切るためである。

体を整え身を修むる方法は、その核心を一にし、また万人に適するように応変できるものでなければならない。

技術の正否を相手の感覚に問うのも当然である。

愉気、活元運動、整体操法はいずれもその要項を充たす手段であることは言うまでもない。

これから人間が何世代つづいていっても、失われない価値がそこにある。

子どもが眠らない:そんなときは寝かしつけよりも起こしつけ

近ごろ太郎丸(3歳)が保育園から帰ってきてもガンガン元気である。

お世話になっているのが0~2歳児用の保育施設(来年卒園)なものだから、たぶん運動量が足りなくなってきたのだろう。

それにしても保育士さんは見事なものだと思っている。あんな小さな子たちを10人もあずかって、ケガをして帰ってきたことはほとんどない。

それだけ、慎重に遊ばせているのだと思うが、そろそろ太郎丸的にはモア・アグレッシブ、アンド・デンジャラスに遊びたいのではないかと推察する。

とうぜん夜も寝つきはイマイチなのだ。

そういうわけで、夕飯後は小走り散歩に出かけているのだが。

子どもの寝かしつけに関してはいろいろな情報サイトがあるし、そういう絵本も音楽CDもたくさんある。

そして「こうやったら寝ますよ」というハウツーは何十種類あるかわからない。

しかし、肝腎なところが見落とされている気もする。

つまり人間は疲れれば眠りたくなるようにできている、ということだ。

疲れなければ眠れないのは当然である。

だったら上手に寝かせる前に、上手に運動させることを考えるのが必定だろう。

そもそもが「寝かしつけ」という言葉にもうムリがある。

日が落ちたらパタッとなるような、充実した一日一日を心がけるのがスジだ。

そうはいってもどこもかしこも車が通る都心にあって、子どもが活発に遊べる環境を見つけること自体むずかしいのだが‥。

それにしても子どもにかぎらず現代人はもうほんっとうに運動が足りていない。

いや肉体労働をされている方は別として、人類史上ここまで動かない生活ははじめてではないだろうか。

それでいてまだ「栄養のあるもの」を探してせっせと食べているのだから‥。

収入と支出のバランスは完全に崩壊しているに、からだのほうがなかなかこわれないのは、それだけ調整作用が働いているからだといっていい。

「眠れない」というのもそうした調整作用の産物である。

それでもむりやり眠れば夢を見る。それがつづけばエネルギーが余ってイライラしだすし、八つ当たりも増える。そういう鬱散も行えないような「お行儀の良い」ひとたちなら病気で消耗するのがいちばん手っ取り早い。ケガもまた同じことだ。

病人、患者が増えるのはあたりまえである。

どれくらい前だったか、70代のおばあさんが来られてしきりに「眠れない」と訴えていたことがあった。「眠り」が重要な上下型体癖のひとだったので、これは大きな悩みの種である。

上下型の場合なら大脳のはたらき(考えごと)として昇華するので、そこまでにぎやかにはならないけれど。だいたいは頭の中で運動会をやっているだけで大事には至らずに済む。

ともかく眠れないというのは子供のそれと全く同じ理屈なのだから、それなら起きて便所掃除でもしたらいいのである。

よく考えれば人間なにが一番ツラいかといったら、眠れないことよりも、もう起きられなくなることではないか。

起きている間はもっと自在に、無目的に、躍動することを考えるべきである。

子どもの寝かしつけから話がそれたが、これらは文化人類学的な根の深い問題といえばそうなのだ。

それなら活元運動でどうだ、と思わないでもないがそれもやっぱり子どもにはムリがある。

世のお父さんお母さんともにお疲れだとは思うが子どもが小さな今だけである。もう一つ奮起してからだを動かしてやって欲しい。

その前に大人が体力の出し惜しみていては話にならないか。

そうするとやっぱり活元運動はいいね。

ともかく眠れないとなげくまえに、眠たくならない生活を正すべきなのだ。

動悸息切れにも必ず原因と治し方はある

だいたい年に2、3回だろうか。原因不明の動悸息切れのご相談をいただく。

「求心」を愛用する人もいぜん多いみたいだが、飲みつづけることに疑問を感じていろいろな治し方を探すうちに、ごくまれに「野口整体」に辿りつくらしいのだ。

そもそもがドキドキしているのだから、言わずもがなというか「不安」とか「心配事」がこころの底に潜伏している。そういう例が8割以上だと実感している。

ところが当の本人はというと「特に、悩んではいないと思うのですが‥。」という反応もめずらしくない。

いわゆる心身症とか離人症に類する徴候である。

しかしながら、不思議とこの手の相談は愉気だけで収まってしまうことがままある。

これを仮に精密検査なるものを通して、原因を追究し、それから治療法を定めて、効果を測定し、とやっていたら何年もかかってしまうかもしれない。

その点、からだというのは刺戟に対して実直だ。

ただし愉気で治った場合、本人は何がだめだったのか、なぜよくなったのか理性で納得できずに終わってしまう。

無意識層に漠とした安心感が沸けばそれで良いのだから、こちらも主命は果たしたといえるけれども、仕事としては画竜点睛を欠いたような不全感が残る。

つまり「またくり返すのではないか」という禍根を残しているのだ。

漠とした不安を漠としたまま解消するというのもわるくはないけれど、やはりお互い因果関係を理解したうえで治療を完了させたいものだ。

原因をたどっていくと「生い立ち」は外せないのだが、それがわかったからといって何がどうなるわけでもなく‥。

時計の針は先にしかすすめないのだから、「これから」豊かな人間関係をたくさん築いていくことが建設的態度といえばそうだ。

「今」が大切、というか人間だれしも「今」しかない。

少し横道にそれるが、心理療法では「実存分析」という学派がこのような考えで取り組むようである。

誤解をおそれずごくごく簡単に説明すると、人間の一生さまざまな問題、悩み、苦しみがあるけれど、つまるところ「今、気分が良いのか悪いのか」それだけではないか、といった見解である。

こうして見ると「こころ」というのは過去から現在まで体験してきた折々の色彩がすべて一層に映し出されている映写機みたいなものだ。

だから身体を通じて「うん、これでいいんだ」というピタッとした刺激が伝わることで、こころに掛かっていた緊張のが鍵が外れてしまうのだ。

結局、因果性というか治癒のメカニズムは説明できないのだが、赤ん坊が母親に抱かれることで体重が増えていくのと根本は一緒だと思う。

見てもらうとか、見守られる、ということは治療の原点である。

それなら、同じ病気をくり返したってまた手を当てればいいだけである。

その度に愛情の過不足が調整されていく。

そう考えてみると、病気というのは人と人をつなぐ役割もあるのかもしれない。

何より手を当てると意識が静まる。

これによって複雑に入り組んだ精神的葛藤が平癒に向かう、というのが自論だ。

エビデンスもなにもあったものではないが、何ごとも論より証拠、結果が全ての理屈である。

身体というのは、何層にも重なり複雑化した精神を「現在の姿」という一枚にまとめて表現してくれる。

そこが心理療法と比べた場合の、整体の大きなアドバンテージだろう。

もちろん全面的な整体優性論を説くつもりはなく、整体の特性の一つだという程度に留めておきたい。

安心感というのは身体現象であるということを知っておくだけで、治療法のはばが広がることを言いたかった。

やはり「こころ」といっても「からだ」といっても、それは一つの活動体の別の呼び名なのだ。

健康に向かえば整体に背く

人格は全身の緊張弛緩のバランスでいくらでも変わる。

腹筋が硬直していれば、何かと気忙しくなりこころの余裕はなくなるし、

首の前側がちぢめば思考は同じところをどうどうめぐりする。

からだを上手にゆるめることさえできれば、こころの内外にあるあらゆる問題が解決する。

だからそのゆるめる手立てを正確に覚えることが大切なのだ。

ただ単にリラックスするだけではゆるまない。

エネルギーが余っていれば、まず充分に動いて消費させねばならないし、

眠りの質も高いに越したことはない。

それぞれのからだに合った運動が行われれば、からだの内も外もみんな穏便に収まる。

道はひとつ、

からだの要求にそって動き、休めること。

「赤ん坊は見事にそれをやっているが、大人はむずかしい」

そう思う大人もいるが、そう言っている人のからだにもやっぱり自然は息づいている。

これから努力してそうなるのでなく、

最初からそうなってるものに気がつくかどうか。

真に向かえば生に背く。

目のつけどころが変わればそれでいい。もとより簡単な話なのだ。

なぜ健康なのかわからない:荘子を読む

知は其の知らざる所に止まれば、至れり。『荘子 内篇 第二』

何も知らないとき、すべてがわかってる。

何もしなくても体温は保たれる。

疲れれば眠くなる。

欠乏すれば食べたくなる。

余ればこわす。

なぜ健康なのかわからなくても、みんな健康だ。

「なぜか」がわかってしまうと、健康は失われる。

健康になろうとする行為がむしろ健康を乱していないか。

ときどき、考えてみよう。