愉気と活元

先日の活元会は教材(レジュメ)なしの、実践重視で行こうと思ったけど、いつもの癖で結局「お話」が長引いてしまった。

そもそも治療というのは「思想の共有」が前提で、これがないと行えない。

だから巷で「野口整体」と呼ばれているものが一体「どんなことを考えているのか」をある程度わかってやっていただかないと、愉気(気の手当て)とか活元運動(自然の運動)とかを一生懸命やろうと思ってもやがては行き詰ってしまう。

ともかく〔いのち〕がどれくらいシッカリと、完璧に機能しているか、ということを自覚したうえで、その絶対性がそのまま発現するようにもっていくのが整体の基本理念だ。

だから愉気も活元運動もこちらからは「何もしないことで、すべてが整っていく」ということの、具体的な方法論である。

この二つを体得しておけば、まあおそらく他の健康法はいらない。もちろん好きならば食事療法も、体操法も、何でも取り入れてやったらいい。きっと相乗的に良い効果があがるはずだ。

それでも人間が考えたものは、枠と限度がつきまとう。ところが本能とか野生とか直観というものは、思想を乗り越えていつも超然としている。大体において、そっちでいった方がずっとラクだし、確かなのだ。

健康法に時間を割くのも、本来ならもったいない。本当は「野口整体」なんかすっかり忘れて、バンバン生きるのが一番いいだろう。

と言ってまた自分で矛盾を生んでしまったけど、愉気も活元も「覚えて→忘れる」ところまでがワンセット。そういうところは、サトリと一緒かもしれない。

一応の「ひと区切り」、というところはあるので、そこまでは一息でやってしまうと面白い。わかった後はそれこそ気ままに、仏道の方では「聖胎長養」っていう言葉があるけど、とにかく「何にもしないで健康」なのがなによりだ。

実践していくといつか必ずわかる、というそういう話。〔いのち〕というのは知っても知らなくても、最初から救われている。でも知ってみると、やっぱり安定感が違うかな。そんな気がする。

信仰の悲しみ

人が「信じています」というとき、それは大抵ある特定の考え方を「好んでいる」だけで、まだ「信仰」には至っていない、と思う。

例えば「〇〇さんを信じている」、「〇〇教を信じている」、というのは隠れた不信を前提とする、自己と周囲への決意表明みたいなものだろう。

本当の信仰というのは「一分の隙間も無い程に」という間も無いくらいに自分に貼り付いている思想のことをいうのである。

だから本当の信仰に至ったものは、もう自分からは「見えなく」なる。通称、「アタリマエ」。

ところで、現代の日本人がもっとも多く信仰しているものは、「カガク(疑似科学)」という客観性が奇形肥大した「あやかし」だ。

そのカガクはヒトから「視座」を奪う。

例えば食べたものの美味いか不味いかからはじまって、やがて健康かどうかを他人に訊ね、甚だしいのは幸せの基準を外に求め、ついには自分の愛する人がわからない。

カガクの洗礼を受けた者は、知らず知らずに〔自分〕が判らなくなり、早晩、緩慢な死に至る。

そのカガクの偏りに気づいた僅かな人たちも、またすぐに、近くに浮いてる端材をあさって握りしめる。

「握っていなければ浮いていられない」という、誤った観念もまた信仰であろう。

信仰、これを離れることは、生の豊かさを活かす第一歩である。

それは自然界を見れば判る。

信仰をもつ人間がいつも汲々とし、信仰なきあらゆる生命が生まれたままの姿で活き活き躍動している。

よく考えて欲しい。信じても信じなくても、はじめから「俺」はあったはずだ。

そして〔今〕もその「俺」だけが忽然とあって、周辺は、ない。

信仰さえしなければ、殺されることもない。

自分で自分を殺さぬことだ。

健康生活の必要充分条件とは、「只、信仰を持たぬこと」、これに尽きるのではないか。

何でこれがわからない

最近気がつけば、「これは闘いだ」と心中で呻いている。

独りの人間が、自身の〔いのち〕を拠り所として生活する。

この単純な理屈が、常識という分厚くニブい壁に阻まれることに、耐えがたい憤りを感じることが生活の全てだ。

因果なもので、その壁にナマ身でぶつかって行く傷みの中にこそ、自己の存在意義が燃え上がるのだが。

〔いのち〕というのは人間という個体生命の中だけに押し込められるものではない。生命即宇宙である。

これは観念でなく事実なのだ。

絶対性もそこにある。

何でこれがわからないのか、それがわからない。

わからなくしているのは〔自分〕である。これが死ぬとハッキリするのだが。

死中に活。苦中の楽。

死ねば生きてくる我が生命。

闘いはつづく。

できるなら、涼やかに、傷つけることなく斬り抜けて生きたい。

アントロポゾフィー医学

2月4日(日)、大倉山に出て『アントロポゾフィー医学から見た青年期の精神疾患』を聴講してきた。

アントロポゾフィー医学とは、、、シュタイナー教育から派生した医療体系といっていいのだろうか…。詳しいことは何も知らず調べずで行ったので(モノを習うときはこれが一番イイのだ)、まあホントにおノボりさんの感覚で楽しかった。

後日調べまして、正しくは↓↓のようなもの、だそうです。

アントロポゾフィー 医学 とは ルドルフ・シュタイナー 博士( 1861〜 1925) によって 始め られ た アントロポゾフィー( 人智 学) を 基盤 として、 イタ・ヴェークマン 医師( 1876〜 1943) の 協力 の 下 に 創始 さ れ まし た。 精神 の 内 なる 発展 と 魂 の 変容、 そして 健康 と 病気 に関する 認識 と 理解 を 深める こと で、 今日 の 医学 を 拡張 し、 真に ホリスティック な 取り組み へと 導く もの です。

山本忍. 三分節で考える病の意味: 甲状腺の気持ちを考える (Kindle の位置No.16-20). Magnolia books. Kindle 版.

自分は野口整体を標榜している関係でこれまで何度も「シュタイナー」を勧められているのに、聴いても読んでもアタマに入ってこないでいつも挫折している。

自分の国語力の低いこともあるが、シュタイナー学は峻厳な霊峰の匂いがする。だから生半可な気持ちではご縁にならないのだ、と勝手に結論付けていつも横目に通り過ぎてばかりなのだ。

かといって巷でライトに薄められたものを読んでも誤解や曲解が増えるだけだろうし、消化力のない胃袋に栄養物をつめ込んでも具合が悪くなるだけだろう。そんな理由から今回も「匂いを嗅がせていただいた」くらいだと思っている。

さて、講師の方は三名おられたが、自分が出られたのは時間の関係でお一人目の精神科医の塚原美穂子先生の講義だけだった。結論から言えば、のっけからおしまいまで「釘づけ」だったのだが。

先生によるとシュタイナーの言葉で年を追うごとに確かに「うん、そうだ」と実感されるのは、「医療とは、(詰まるところ)教育である」ということだそうである(おっしゃったことと記憶が違ったら申し訳ない‥)。

確かに、具合が悪くなってから、病気になってから、「さあ、これをどうやって治しましょうか‥」というのはどこまで行っても後手に回って、生命をリードする立場には至らない。

心の自然を保ち、体を損なわないように生活する態度を自ら学んで身に付けなければ、生命のはたらきに振り回されているうちに一生は終ってしまうのだ。

だから最終的に「教え、育む」というプロセスによって医療は完遂されるべきだ、とこういう結論になるのはよく考えれば自明の理である。まあ野口整体にも通底する理念だ。

それから、一度受けた教育というのはそれが良くとも悪くとも、破壊される(その影響下から脱する)のに30年はかかる、との由。

確かにそうなのだ。

自分の経験からいっても、だいたい小4からおかしなことになったのだが、当時を10才とすると、現在が40歳。今ようやく頭の中の氷が溶け始めた感覚がある。

いろいろな人にお会いした経験から鑑みると、40歳で「治りはじめ」たら、まあ〔中程度〕だと思う。

もちろんもっと遅くたって、いや遅ければ遅いで「治っていく過程」は素晴らしいことだし、早いから良いとも悪いともいえない。

治る時というのは必ず「その人の、その時」、なのだ。

そして治すのはいつも「環境」である。

環境などというと誤解を受けそうだが、それはいわゆる転地療養みたいに水と空気のイイところで、という話ではなく、患者がのびやかに安心していられる環境ということだ。

信頼できる人や信頼できる場所の力で生命の自由性ははじめて開かれる。

つまりコワゴワ、ビクビクするような「場」では自然治癒は起こらないのである。

そういう「治癒の場」を、何もない所にでも生み出す力を私は講師の塚原先生から感じた。立ち上がって話し始めた瞬間から治す人の雰囲気である。

個人的にはこれだけで充分な体験だった。音楽療法は体験できなかったので、またいずれ縁があれば。しかし最近とくに精神療法の世界にはノスタルジーを感じる。自分が受けたかったのは、施したかったのは、こういうことなのだ。

今回の体験で難しいシュタイナー学にも親近感を感じることができた。理解には程遠いけれども、どのような形であっても医療の世界に可能性を感じられることはうれしい。

体癖理解までの果てしない道のり

活元会のあと「体癖」の話になった。野口整体に興味を持たれると体癖は誰もが気になるのではないだろうか。

見ようによっては「動物占い」みたいで面白い。何故あの人はああなのか、自分はこうなのか、ということについて少しでも原因らしきものが解るとなるほど、ということがある。

ただ体癖を知ることと理解することには距離がある。

身体、特に腰椎を観て、触れて「〇〇種」である、ということがきちっと解るには歳月を要する。

仮にある程度分かるようになってからでも、今度はそれを「何のためにどう使うか」ということになるとさらに難しい。

整体指導ではこの体癖を「相手をよくする」ために活かそうと考えるけれども、人間の複雑性がわかってくるとその「よくする」ということがどのようなことなのか悩む。

ただこういうものが全くないよりはあった方がはるかに指針にはなる。最初にこの法則性を見つけ出し、体系立てた野口先生はやはりと呼ぶにふさわしい。

今の自分では体を見ても体癖も波もわからないことばかりであるが、自分なりに捉えられているところもある。慌てないで丁寧に学んでいこうと思っている。

人生のための治療

病気はツラい。

痛かったり痒かったり、或いはその病状を慮って余計に苦しんだり、「そんなことをあまり気にしてもしょうがないですよ」というのは心ある治療者の言葉ではない。

しかし病気を治すことだけに捉われる生活というのもまた辛いものである。

治療のために人生があるのではない。

人生を生きるために治療はある。

病気を治すことを考えつづけ疲れてしまったら、「ただ、生きてみよう」と思ってみたらどうかとふと考えた。

あなたには病気がないからそんなことが言えるんだ!とツッコまれたらそれまでなんだけど‥。

自然治癒によって治ったとき、大抵はもうそのことを忘れている。

昔からある言葉だけど、静養というのはスバらしい。

静けさを養うことだけが本当に魂を癒す、と思う。

身体を聴く

昨年晩秋あたりから精神療法の世界にどっぷりだった。吾ながら「深みにはまる」という言葉がぴったりの状態だと思う。

2009年の開業からおよそ5年くらいは野口整体一本槍で来て、開業前からの修業期間を含めれば10年ほど没頭していたことになる。

10年なら「修業歴」としてはさして長くはないと思えるが、ウラシマ症候群とでもいおうか、主観的には長いこと社会一般の価値観から隔絶していたような気もする。

いわゆる「ノグチセイタイ」というのは宗教なのである。だから教義という「枠」の中に入門する意志のある方以外は指導の対象にならない。例えるなら、禅門では修行者を「叩く」という指導法がまかり通っているが、あれを外でやるわけにはいかないのと同質の「壁」がある。

精神療法の代名詞とも言える「カウンセリング」はいわば、そういう異界と一般社会の橋渡しをしてくれるありがたい存在なのだ。

整体の臨床でもやはり対話は生命線である。「決め手は、対話力」なのだが、もう少し正確に言えば大切なのは「聴く力」だ。これがなければ、畢竟、人の心に関わる仕事はできない。カウンセリングはこのあたりのノウハウが100年に渡る厳しい学術の世界で切磋琢磨されてきた経緯から、学びの宝庫となっている。

具体的に自分が何を学んでいるかといったら、もっぱら「共感能力の育成」に心血を注ぐ日々だ。かなしいかな自分は元来未熟な人間である。だからスタートの時点で一般の方に大きく遅れをとってしまっているので、とにかくマイナスからゼロ(平均)の水準までは早いところ持っていきたい、というのが本音なのだ。

そんな「回り道」を逍遥しながら、あらためて自分の母国である整体の世界にたち帰ってみると、「背骨を読む」という技術はかなりのアドバンテージがあることに気がついた。

人間は恥ずかしければ赤くなり、怖ければ青くなるように、身体にはいつも本心、本音というものが現れている。だからそういう身体を観察する力を高度に発達させることは、心をリードしようとする職業では有力な技能なのである。

逆に身体を読む力の正確さを増していけば、裡なる言葉を聴きとる際に力強に支援してくれる。先に意識の「深いところ」で繋がったうえで、話を聴くのだから、理解のズレを小さくしてくれると思う。

一方で、人間が人間を「知る」ということは、不可能に等しいことも忘れてはならない。臨床において理解の「勇み足」だけは許されないもので、それだけに言語と非言語、両方から良質の情報を集積する能力は頼もしい存在なのだ。

一周回って元の位置に帰ってきた、という感覚だが懲りずにまた旅には出ようと思う。我が事ながら「かわいい子には旅をさせろ」といった感じで、いくら遠出をしても「野口整体」という親元からいっこうに離れることができない。「大きい世界」であることを、年々歳々思い知らされている。

またこれだけ親がしっかりしていると子供達は自由に創造性を膨らませることができるのだから、ありがたいと思う自分もいる。

河合隼雄著『中年クライシス』を読む:心でも体でも病症が人間を整え丈夫にする

開業当初はあまり年齢層が絞れていなかったが、現在せい氣院に通われている方は30代の前半から40代の半ばくらいの方が圧倒的に多い。

ときおり還暦を控えたような方も来られるけれども、だいたい3~5回(2~3ヶ月)通ったあたりで当初の主訴が解消されると同時に「卒業」されていく。

その主訴というのも腰痛や動悸、息切れ、血糖値の異常といった年齢相応のトラブルに対して、病院の処置に満足がいかずに来院されるというケースである。

整体操法によって「首尾よく治ってしまった」と言えば聞こえはいいけれど、こうした年長の方々に対して「その先」の可能性を感じていただけないのはやはり力不足なのだろう。

これとは対照的に、永続的に指導に通われているのは「自分自身に取り組んで、可能性を掘り起こしたい」という要求を感じさせる壮年期の方々である。

これがいわゆるミッドライフ・クライシスとか中年の危機とよばれる、精神的「ゆれ」に脅かされやすい年齢層の人たちだ。

ただし、この「中年の危機」は中年に限定されるかというと、そうでもないことに最近気がついた。というよりもそもそもが「中年」の定義自体が曖昧と言えそうだ。

ユングに倣って言えば、人生を日の出から日没に例えて40歳を〔正午:中年の真ん中〕とした。

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活元会 2017.10.14:「個性化」とは?人生の後半に充実感を持たせるための大切なプロセス

昨日は活元会でした。

今回の教材はこちら。


『ユング心理学と現代の危機』河出書房新社

著者は複数、湯浅泰雄、高橋豊、安藤治、田中公明の四氏。うち、高橋豊氏のパートから。

テーマは「個性化」です。

まず「個性化」というのが少し専門的ですから、これについてまず河合隼雄先生の『ユング心理学入門』より引用してみると、

個人に内在する可能性を実現し、その自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程を、ユングは個性化の過程(individuaton process)、あるいは自己実現(self-realizaation)の過程と呼び、人生の究極の目的と考えた。そして、われわれが心理療法において目的とするところも、結局はこのことに他ならないのである。(河合隼雄著『ユング心理学入門』培風館 p.220 太字は引用者)

と、このように書かれています。

この「自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程」というのをもう少し平易に表現すると、

自分の人格の成長を思って努力している過程」というような表現でもよいと思います。

この個性化こそが心理療法の目的である、というのが河合先生(元はユング)の論です。

そこで「どのようにしてその個性化を行なっていくか」ということが問題になるわけですが、ユングは自身の精神的危機を乗り越えて行く過程で「ヨーガ」を活用したと言われているのです。

つまりユングは当時の西洋にしてはかなり前衛的な試みとして、身体を通じて心の再編を行なうための実践的方法を追及していました。

そこに一つの強力なガイドとなったのが東洋思想と、東洋的な身体行法であったと考えられています。

当然ユングは年代的にも地理的にも日本の活元運動の存在は知るよしもありませんでしたが、この意識を閉じ、無意識に任せて行う活元運動は、自我を高次の全体性へと向かわせる手段として、非常に適しているものなのです。

野口整体には「全生」という、心を自我という枠から解放して命を全うする生き方を推奨する、教義があります。

これは先に挙げた心理療法における個性化、あるいは自己実現という概念と目標をほぼ等しくするものです。

当会の場合は、その「全生」あるいは「個性化」という方向へ生命を向かわせるための大きな推進役として「活元運動」を位置づけています。

何ごとも「目標をどこに置くか」で着地点は変わるものです。

志ある方は「よく生きる」という目標をもって、全身のちからを抜き、意識を鎮め無心のちからを体得しましょう。

次回、次々回の活元会は、10月9日(木)、28日(土)です。