信仰の悲しみ

人が「信じています」というとき、それは大抵ある特定の考え方を「好んでいる」だけで、まだ「信仰」には至っていない、と思う。

例えば「〇〇さんを信じている」、「〇〇教を信じている」、というのは隠れた不信を前提とする、自己と周囲への決意表明みたいなものだろう。

本当の信仰というのは「一分の隙間も無い程に」という間も無いくらいに自分に貼り付いている思想のことをいうのである。

だから本当の信仰に至ったものは、もう自分からは「見えなく」なる。通称、「アタリマエ」。

ところで、現代の日本人がもっとも多く信仰しているものは、「カガク(疑似科学)」という客観性が奇形肥大した「あやかし」だ。

そのカガクはヒトから「視座」を奪う。

例えば食べたものの美味いか不味いかからはじまって、やがて健康かどうかを他人に訊ね、甚だしいのは幸せの基準を外に求め、ついには自分の愛する人がわからない。

カガクの洗礼を受けた者は、知らず知らずに〔自分〕が判らなくなり、早晩、緩慢な死に至る。

そのカガクの偏りに気づいた僅かな人たちも、またすぐに、近くに浮いてる端材をあさって握りしめる。

「握っていなければ浮いていられない」という、誤った観念もまた信仰であろう。

信仰、これを離れることは、生の豊かさを活かす第一歩である。

それは自然界を見れば判る。

信仰をもつ人間がいつも汲々とし、信仰なきあらゆる生命が生まれたままの姿で活き活き躍動している。

よく考えて欲しい。信じても信じなくても、はじめから「俺」はあったはずだ。

そして〔今〕もその「俺」だけが忽然とあって、周辺は、ない。

信仰さえしなければ、殺されることもない。

自分で自分を殺さぬことだ。

健康生活の必要充分条件とは、「只、信仰を持たぬこと」、これに尽きるのではないか。