整体操法は鎮心という処の押え方から勉強する

物事は最初に基本という名の極意から教えるようになっているから、これもそうなのだろう

鎮魂(タマシズメ)という言葉があるけれど、またどういう意味かはわからないけれども、つまるところ鎮まれば終わりなのだ

鎮まり切らないものは一体何なのか

ただそれを見ている自分が邪魔なのである

ぼそっと、或いはただ茫然と坐って静めようとしている間はたいてい鎮まらない

むしろ活気凛々と躍動して、我も彼も消えている時、鎮は不意に訪れる

動静一如

「魂のこと」など打ち捨て全力で生活している時、そこにたましいが現れるのだから不思議である

高速で回転する独楽のように、自身の体力をフル稼働して生きよう

出し惜しみは疲れを生む

出し切れば快がある

鎮まることで逆に亢まるのが人間のいのちだ

命の謳を聴け

ホームページの「当院の整体」のページをマイナーチェンジした

妻にイラレで図を作ってもらったのだが、これで少し発症のメカニズムがわかりやすくなったのではないだろうか

わからない人にはやっぱりわからないだろうが、いくらかでも感性が生きているなら自分の人生の舵をみすみす他人に引き渡してはならない

自分とは一体何者なのか

身体を通じて命に聴くことである

病症と対立することは広大な無意識に小さな自我が喧嘩をふっかけているようなもので、勝ち目がないばかりかその戦場となる肉体は荒んでいく

病気はいのちの聲である

生きられなかった自分の影であり、影のない人間は死んでいる

逃げれば等速で追ってくる

見つめると、その影も大切な自分であることに気づくのである

当院の整体

退路なき現在

昨日の記事を読むといかにも宗教を軽視しているようにも見えるが、私は宗教は尊いと思っている。

ただ宗教の定義がそもそも曖昧だし、現行のそれの多くが特定のドグマを擁立するだけの集団になっていることは残念だと思う。

だいたい捉われを捨てることが目的であるはずなのに、宗教活動をしている人の方が案外執らわれていたりするから妙である。これではむしろ執教的と言わざるを得ない。

無論宗教法人ばかりがドグマを有しているわけではない。

現代は大小高低さまざまな思想が横行している。

しかし人生上の苦境において思想でどうにかなるようなものは一つもない。仮にあったとしても、その思想に力を与えるのは自身の信念や気力なのである。

だから平素から「野口整体なら治るのではないかと‥」お問い合わせをいただくが、つまるところは「あなたが治りたいか治りたくないか」が焦点になる。

実際のところ俗にいう「ノグチセイタイ」などはもはやどうでもいい。そういう依りかかりの対象になりそうな全てのものをぶち壊して、裸の力で前進することが野口の説いた内容である。

結局自分を守ろうとするから弱くなる。

守ってくれたり、救ってくれるようなものなど何処にもないということが早くわかることが何より救いになるということなのだ。

そういう、最初に自立した人がその上で修行を積むことが、真の養生である。

何ごとも頼ったり頼られたりする関係に甘んじて、どうにかなっている内は花である。

『無門関』の第一則にも、「妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す」とある。

できるだけ早い段階で「どうにもならない事態」に直面し、自ら心路を絶することが自分を救う唯一の道なのだ。

事態が窮しているのに自分が窮することを先送りするのは得策とは言えない。

死中に活を見出すことだけが自分を逞しくし、道を切り開いてくれるのである。

もとより退路など何処にも無く、活路も無用である。

それが〔今〕なのだ。

すごいもの病

野口整体を看板に掲げている関係で、「大きな期待感」を持ってうちに来られる人は割り合い多いと思う。

もう5~6年前のことになるが、ある男性が腰を痛めて来院された。だいたいの腰痛はしばらく手を当てながら待っていると良くなっていくものだから、治ったからといって驚くようなことは何もないのである。

ただそうやって話を聞いていたら、その方はいろいろな「すごいもの」を遍歴していることが判ってきた。

よくありがちなのは、野口整体の愉気に目を付けるような方はレイキヒーリングもやっていたりする。そして講習に出て資格を取られたりしている。

でもそういう人が野口整体にも来られるのである。

その方もレイキをやられているし、まだ話を聞いてみるとスピリチュアル関連の占い師のところにも通っていたと言う。

それからナントカという行者のところで「特別な」瞑想も習ったことがあるし、ロルフィングの講習会にも出ていた。

そうやって、ずーっと「何か」をやられている。

やっていることの実体としては、自分というものの不全感を解消してくれる「何か」をずっと探しているのだ。

半世紀前ならこれは「宗教」の領分であった。

ところが自然科学の台頭によって大半の宗教は力を失っているから、今度はその後釜としてスピリチュアリズムとか民間療法がむりやり当て込まれているのが日本の現状なのだろう。

具体的に言うと難病なんかに罹った場合に、まず病院には行くけれども処置に不安があると次は食事療法をやったり、〇〇整体にいったりする、という構図だ。

これはある種の思想に頼ることで守ってもらおうという幼児的な願望の延長なのである。

現行の「宗教」と呼ばれているようなものも、だいたいはそういう「思想に堕ちてしまった」ものが多い。

つまり「こういう考え方で生活してみたらきっとラクになりますよ」ということをただ教えるだけの話である。

たったそれだけのことを言うために、まずその中心人物の周りを大勢の人で固めてなかなか会えなようにしてある。

そのうえ高い講習料を払ってやっと行くものだから、ある種の人は発達段階の「ある時期」においてこれが非常に助けになるのである。

ただ付け加えておくと、助けになっている内が花であって、やがて気がつくとそのことが大変な重荷になっていることもあるから要注意なのである。

何であれ、その「ある時期」がせいぜい20~30代くらいまでならいいが、中年を過ぎて初老に至ろうかという人までが自分以外の他にすがろうとしていたり、自立していたかと思う人が不意にある種の教義に取りつかれたりするのは、年齢とは裏腹に自我の発達が不充分であったと考えねばならない。

そういう人にとって野口整体というのも一種のまばゆい光として映るのも無理はないのである。

しかし実際はそうではない。

この世のことを延々と突き詰めていくと、結局最後は当り前のことしか起こらないのである。

そういう点で「悟り」とよく似ている。

「悟ったら」と思っていた世界と実際に「悟った後」で出てきた世界というのは大変な食い違いがあるのが常である。

その食い違いによって感涙にむせぶ人もあるかと思えば、ばかばかしいと思って歯牙にもかけない人もいるのだ。

何にせよ、「すごいもの」をずっと探し続けていると、最後の着地点というのはやはり一つしかないのである。

昔から言われているように、天上にきらめく星月に目が眩んで、掌中の珠を失ってはいけない。

自分にとって最も身近な、抜き差しならないものに着眼を正す意外に絶対の救いは無いのである。

人のことはどうであれ、何より自分が眩まされないことなのだが、引きずられないようにわざわざこんなことを書いているのかもしれない。

惺惺著。

喏。

七歳までは神様

先日、息子(三歳)と地下鉄に乗ったときに、となりに座ったおじいさんがすごくかわいがってくれた。

「かわいいねぇ、むかしから七歳までは〈神様〉だっていうよ」といわれて、「あーそうですかぁ‥」と思わず聞き入ってしまった。

そうだろうなぁ、と思う。

〈神様〉っていうのはつまり「私を超えた、漠としたもの」である。最近の私は、すぐにそれは「無意識だ」と固定的になってしまうのだけど、とどのつまりそれは「それ(es)」ではないか。

だから「ボク」という自我がまだふにゃふにゃで確立されていない三つ子なら、内なる〈神様〉ともつながりやすい。

もちろん、大人になってもまだ「自我がふにゃふにゃです」というのは困ってしまうのだが。かといってあんまりカチコチなのも、それはそれでいつも病気ばっかりしていることになりそうだ。

適度な柔軟性というか、いわゆる「遊び」的なこころの余裕がないと、体の方にシワ寄せがいって苦しむことになってしまう。

そういう意味では、子どもは大人よりもずっと感情と体が直結しているからすぐに風邪をひいたりじんましんが出たりする。そういうことで調整がつきやすいから大病もしにくいのだ。

大人からすれば、そういう子どもに触れる時間は貴重なのである。

うっかり変なものを信仰して拝むくらいなら、子どもと一体になって遊ぶ方がよほど宗教的であり功徳はある。

やはり七歳までは神様なのだ。

八歳から〈神様〉でなくなるのかどうかはわからないけれども、大人だって本当は誰でも意識を閉じればすぐに神(しん)は現れる。

そういえば子どもは体もやわらかい。

身体の弾力を取り戻し、顕在意識のレベルを下げることで目の前の問題事は消えてしまう。

理屈は非常に簡単なんだけど、実現するには自力がいる。

活元と坐禅をすすめるのもそのためだが、それを「取れる」人というのは本当に僅かに限られている。

普段大人の頭で子どもの世界をみているといろいろ教えたくなるが、本当は学ぶことが多い。

あまりそういう境界を設けず、一緒になって遊ぶことが何よりだろう。

三年寝太郎に学ぶ非努力的な問題解決力

先日禅仏教の本を読んでいたら、日本の民話『三年寝太郎』が出てきた。そういえば題名こそ聞いたことはあるけれど、詳しいことはよく知らない。「三年寝太郎って何?」ということでいろいろ調べてみると、ユング心理学における夢分析や共時性とも関わりの深い面白い逸話のようである。

wikiによるあらすじはこちら

旱魃に苦しんでいた村で3年間眠り続けた寝太郎という男がいた。仕事を何もせずただひたすら寝続けていた寝太郎に周囲の者は怒っていたが、寝太郎がある日突然起き出して、山に上って巨石を動かし、その巨石が谷に転がってぶつかり続け、ついには川をせき止め、川の水が田畑に流れ込んで村が救われる。寝太郎は3年間ただ眠り続けていたのではなく、いかにして灌漑を成し遂げ、村を旱害から救うかということを考えていたのであった。

こうして内容を知ってみると、いかにも日本的な感性を匂わせている気がする。ここでさらっと「日本的」などと言えるほど異国文化を知っているかといえばそんなことはないのだが‥まあともかく。

日本語には「果報は寝て待て」「待てば海路の日よりあり」「下手の考え休むに似たり」「笑う門には福来る」「棚からぼたモチ」などなど、うっかりすると単なる僥倖だのみともとれそうな諺が面白いほど存在する。言うまでもなく、これらに共通して言えるのは「何もしない」ということから生まれる思いがけない有益性を暗に示唆していることである。

ここでいう「何もしない」ということは、現代的には「考えない(考えすぎない)」と置き換えてもいいのではないかと思う。

最近は「瞑想」関連の本がたくさん出ているけれども、その背景には日々課される学業や仕事の重圧の前に「考えに考えた」結果フラフラになってようやく生きているような人がいかに多いか、ということがうかがい知れるだろう。

現代は小学生でもストレス性の腰痛になったり精神科で抗うつ剤を出されているのだからそれだけ状況は深刻である。また私のところに相談に見える人の中には、中学・高校から進学(高学歴)コースに乗ったことをきっかけに、徐々に、あるいは急激に心身のバランスを崩したというような方もいる。

こんな風にいわゆる学歴社会に象徴される知識偏重主義が生み出した現代的心の病の象徴が「うつ」ではないだろうか。

また、全ての人がそうではなかったかもしれないが、私が受験生だった頃は「睡眠時間を削る」というのは受験にまつわる一種のスタンダードであった。ただ後になって東大や京大に受かったような人にお会いすると、そんなに寝ないで勉強して合格したような話はあまり聞かないのだが‥。

そもそもが人間の体構造上、「寝ない」ということで得られるような成果はほとんどが近視眼的な目標に限られるだろう。なおかつ、そうした「努力」は外界における有益性を追求し過ぎた結果、個人の内的な(心の)世界や価値観に照らすと「有害な行為」であることも少なくない。

具体的いうと、仮にスポーツや学業で高い成績をあげても、もともとの本人の資質や価値観とはかけ離れた人生を生きている場合などがそれである。

また楽器演奏の世界では本当に小さな頃から取り組まなければ、その道の第一線で活躍するのはむずかしいようである。そのため「自分らしさ」もよくわかない幼年期の頃から、親の価値観に順じて半ば強制的に取り組む人も少なくない。そのせいか演奏家の方が青年・中年期あたりで心のバランスを崩して(取り戻して?)カウンセラーのもとを訪れる例もままあるようである。

概して「努力」というのは意識的に自分をコントロールして、やや強引に目標に向かわせる行為だ。しかし東洋思想においてはこれとまったく対極に位置する、「何もしない」という無為的態度を重んじる向きがある。老荘の曰く「無用の用」などにも常識的価値観を顛倒する妙が現れている。つまり何かしらの問題に直面したときに、あらゆる工夫を放擲して臨む「あるがまま」という在り方が代々珍重されてきたのである。

またこれに関連して、インド生まれの宗教的哲人クリシュナムルティによる「ものごとは努力によって解決しない」という言葉も思い浮かぶが、ここにも東洋的叡智が結晶化してよく現れていると思う。

ここで改めて三年寝太郎の物語に立ち返って考えると、毎年旱魃で苦しんでいる地域ならばそれこそ「寝る間も惜しんで」治水整備に力を入れる、というのがいわば正当な合理的努力である。もちろんそのようなことはさんざん取り組んだうえでの話だと思うが、このように「よく考えて」とる行動というのは「自我」という有限な(ともすれば卑小な)枠組みの中での思考的生産活動である。

一方寝太郎の取った行動は、合理的観点からみれば極めて非生産的な行為である。ところが結果としてそれが高い生産性のある行動として結実し、目に見える現象の世界においては「わずかな労力で村を救った」という事実がこの物語を結んでいる。このような場合、心の世界においてはむしろ「大仕事」が行われたとみるべきだろう。

うっかりしているとこの話は、パッと見「何が言いたいのか」わからない。昔話としては、わかりやすい教訓めいたものが見出しにくいのである。またいわゆる「マジメ」な人に言わせれば怠惰を助長するような間違った話ともとられかねない。

しかしよく考えてみれば、このような状況下で三年も寝転がっていることが果たして楽なものであろうか。もしかしたら寝ているくらいなら何かしら「努力でも」していた方がよほどラクではないかとも思える。「寝ている」という行動を選択した時点で既になかなかの大人物だと言えそうである。

ところで、実はこの物語を西洋のフロイト、ユング、アドラー等によって近現代に確立された深層心理学的な観点から考えてみると、なかなか興味深い内容に思える。

つまり「私」の中(こころの深層部)には私(=自我)を超えた大いなる智慧が潜在する、という考え方が両者を結ぶ共通項なのである。

念のため少しだけ心理学創世記の流れを簡単に表すと、中世以降、理性と合理的精神をあらゆる文化的発展の中心に据えた西洋において、まずフロイトが「無意識」を発見したことで西欧社会にセンセーションをもたらした。

後にその弟子筋のユングは、個人が明確に意識しずらい、心の無意識領域にこそ人生を拓くための強力な心的エネルギーが潜在していることを見出し、なおかつ自分自身がそのエネルギーの流れに順じて人生を全うすることで、範を示したのである。

この無意識の扉を開く鍵となるものが、自我意識の活動レベルを下げる「催眠」や「瞑想」、そして意識の半覚醒状態に現れる「夢」などである。因みにユングは時期を違えつつもこれらの全てにつよい関心を示し、ある程度の実修も行っていた。

この中でもとりわけ「夢」は誰もが身近に感じられるものだが、それだけに学術的には重要視されがたい向きもある。だが、その夢を湧出する「眠り」という行為は人間が意識の覚醒時には知り得ない「こころの深層部」とつながれる極めて貴重な時間なのである。

寝太郎がもし寝食を忘れて、昼夜を問わず働くことで治水が成って村が救われたというのなら、それはそれで美談には間違いないだろうがドラマ性は乏しいだろう。

そうしたいわゆる根性論は戦後以降の日本では特に好まれてきたが、往々にして挫折や悲劇性もつきものである。つまりやってもやっても、そのつど自然災害や人的障害によって道を阻まれ、下手をすれば事故などで命も落としかねない。

概して場当たり的な「努力」に目が眩んでいる時というのは、「人間の中に蔵された人智を超える存在」が死角になっている。物事には期せずして「やめたら、できた」ということはよくあるもので、このようなことは多くの方が日常生活の中ですでに経験済みのことと思われる。

そうかといって、「ただ」寝転がっていれば物事が万事解決するかといえば、そのようなことは断じてないことも周知の事実である。それだけに、このあたりの「人為」と「無為」のバランスというのがまた微妙にむずかしいものがある。

これについてユングは、知的にも文化的にも高い水準を持つ東洋の一部の国が経済的発展や自然科学の発達が遅れたのは、この無為的態度に偏り過ぎたことが原因ではないかと推察している。

このようなユングの意味深い考察から比すれば非常に稚拙ではあるが、私は最近、努力と非努力は5:5くらいの割りで執り行うのがよいのではないかと考えている。つまり一日の中に何もしない、ぼんやりとするための時間を積極的に設けるよう「努力」したらよいのではないか、というものである。

これに気がついたときは我ながら斬新な視点を確立できたとよろこんでいたのだが、古語にある「人事を尽くして天命を待つ」というのはまさにこのことを言っているのではないかとすぐに気がついた。

この様にこころのことを勉強していくほどに、古人の知恵には感嘆させられることが多いものである。とりわけ東洋の中でもいち早く西洋文明に感応し近代化を成し遂げた日本において、三年寝太郎の無為的態度を科学的に考えることは、現代の行き詰まりを打開し有意義に生きるためのヒントを見出す契機になるのではないかと私には思えるのである。

『こころの読書教室』を読む

目の前のクライエントさんのことは、いくら本を読んで探してもどこにも書いていない。それは本当にその通りなので、とにかく「ひとりの人」が来られたら「一生懸命その人の話を聴く」というのが、カウンセラーに残されているたった一つの武器と言えるかもしれない。

だからといって、読書が心理臨床に全く役に立たないかというと、これは役に立とうが立つまいが「是非とも読むべき」で、プロならば読まなければならない。いや、実際は大いに役に立つはずだ、と私は信じている(ただ、ほっとんど読めていませんが‥)。

カウンセラーにとっての読書は、例えるなら消防士さんが毎日筋トレをするようなものではないだろうか。筋トレさえしていれば人助けができるという訳ではないが、基礎体力は絶対にいるし、有事に備えるプロ意識の具現化という観点からも必須だろう。

とりわけ「こころ」を中心として人間の全体に向き合う「治療者」にとっては、読書は日々の食事や睡眠、呼吸と同じように当り前のことだと思う。

著者の河合さんが冒頭に言う、「(みんなもっと本を)読まな、損やでぇ」と投げかけた言葉のウラに、そんな含みを推理した。

読了後、何よりうれしかったのは「治癒」という現象の論理性に、非常に安定的な「枠組み」が構築されたことだった。つまり「〈治る〉とはこういうこと」、「こうなれば〈治る〉」ということの必要十分条件が立体的に捉えられたのである。

一方でモノゴトには安定的になり過ぎるとかえって死に近づく、という逆説的な面があるので(←動的平衡)、構築された理論に対して「本当にこれでいいのかな?」という第三者的な批評の慧眼はいつも開いておきたい、とも思っている。

話は行ったり来たりするけれど、この『こころの読書教室』が新潮文庫に入る前のタイトルは『心の扉を開く』(岩波書店)だったという。

「読書」という行為は心の深層へ通じる扉を開き、私自身が普段は心の下層に眠っている〈わたし〉に出会うこと。

またそこからさらに進んで行った先に、〈たましい〉とか〈いのち〉などと呼ばれる、生命の全体性と深くつながるための儀式によって人は癒され成長して行く、ということまでを示唆している。

ちなみに「心」から「こころ」へと表現が変わったのは、精神の領域をより広範囲に求めるという目的で、もとは夏目漱石の小説にならったそうだ。

さて、本書においてそのこころ(=無意識)の扉を開くための水先案内人として、適任と思う書物を全四部構成として一部当たり5冊ずつ。「まずはこれを読んでください」と紹介してくださっているので、それが計20冊。

これに加え、「もっと読んでみたい人のために」という括りで、さらに5冊ずつ。だから総計で40冊が掲載されていることになる。

一冊ごとに河合さんならではの読みの深さを背景に、優しいユーモアを織り交ぜた書評が豊かに綴られており、どれをとっても「あー、コレはぜひ読んでみたい」と思わせてくれる。

そして一部を読み終わると、氏の伝えたかった大切な「想い」が知らない間にこころの中にそっと贈られている、といった印象だった。

本書を通じて、「人間」というもの、そしてその人間が生きている「人生」という事実がいかに多面的かつ多重構造的であるか、ということを教えてもらった感じがする。

世間では時折り、「目的を見失うな」という言葉を耳にするが、目的が単一的かつ固定的であれば当然それだけ迷いにくくもなるし、進歩も早い。

ただしそれは人生50年などと言われていた時代なればこそ、有効な助言であったのではないだろうか。

いまや半数以上の方が長寿を保証されたかのような現代社会にあっては、むしろ人生の意義を多面的に捉え、いかに有用な道草を食うかということが来るべき死をより豊かに完成させるためには大切な「プロセス」になるのではないか、とも思える。

しかし体力的にも経済的にも、そして時間的にも限界のある人間にとって、自分の足で歩める「道」には限度がある。

当然のことながら性愛や生死にかかわる事象など、あまりにリスキーなことは理性的に避けなければならないし、そんな風に何かと制限つきの娑婆にあって、「本を読む」ということは(仮想とは言え)こころの体験値を安全に増やしてくれるありがたい行為であることは間違いない。

まあ、兎に角、「読まな、損やでぇ」という河合さんのユーモラスな愛情表現ともとれる一言に、本書の主旨はギュッと濃縮されている。紹介された本にはこれから一冊ずつご挨拶をして、丁寧に語り合っていこうと思う。

そして40冊分の物語を体験した後で、私自身が一体どんな〈わたし〉と出会うことができたのか、それが今から楽しみである。

SNS or MPK

お会いする方から「センセイ、ブログ読みましたよ」と言われることほどこっパズカスィことはない。

だったら書くのやめろよ、とツッコミたくなるが、まあ「仕事」なんですよ(だからそっとしといてください)。

野口整体が今日まで命脈を保ってきた要因として、創始者の圧倒的な文章量は無視できない。いわゆる「ノグチセイタイ」はそれらの余禄で食いつないできた、といっても過言ではないだろう。

真理というのはいつだって言語を超越したものだが、その掴み得た真理を他に示し、導くためにはやっぱりカタチが必要である。「言語」とか「態度」とか、そういった外形に支えられて真理は浮かび上がってくるのだ。

だからこそ、達磨大師は悟りを示すために九年間壁に対座したのである。

誤解が横行しているようなのであえて記すが、達磨は九年坐したことで悟ったのではない。自身が徹見した悟りを正確に現すために、「黙った」のである。これがいわゆる「面壁九年」の実相だ。

その最初の理解者が現れるまでに九年かかったという話である。

そう考えると現代のSNSは面壁九年の対極である。

大小さまざまな「ジョウホウ」がのべつ撒布されているが、一つ一つを丁寧にふるいにかければ人類を根本から救ウようなものは皆無に等しい。というか、むしろ迷ウ材料は一秒ごとに増すばかりだ。

そう激しながら、キーを叩く自分は矛盾の真っただ中に居るわけだが、最初に戻ると、そうした駄文の中にも時々、ダイヤの原石とか砂金も混じるから一概には捨てられないのである。

例えるなら「光」というのは、それのみで光ではない。

光源と開眼の融合した活動が「光」なのだ。

そういう意味で広大な世界の片隅に達磨を見出した慧可は秀逸である。

人類救済の鍵をその力でもぎ取り、「可能性」を繋いだのだから。

斯様に発信元と受信先、この二つのレベルがつり合うことで、「救い」も「悟り」も「光り」も“そこ”に現れる。

何にせよ光の方ががくすんでいては始まらないないので、少しでも駄文の質を上げるために今日も精進あるのみである。

暗夜光路

本当に、深く傷ついた人にしかわからない世界というものがある、と思う。

みんな同じ「世の中」を共有して生きているのだけれど、その「世界」は個体生命という鏡(≒心)に映しだされることで現前する。

鏡が平らに磨かれていれば「そのまま」映すし、たわんでいれば世界は「歪んで」見える。

もし鏡に傷がついていれば、世界はいつまでも血を流し続けるのだ。

「キズ」とは大なり小なり誰の中にもあるものだが、やっぱり程度の差というのは厳然として存在するようだ。また一度ついた傷や心の癖というのはなかなか払拭しがたいようである。

終生消えないということも決してめずらしいことではないし、というか自身を振り返って考えてみると「傷が癒えた」という実例に触れたことは無いかもしれない。

ただその傷を「味わい」のようなものに変えた人たちはいる。煎じ詰めると「癒える」というのは「元に戻す」ことではなく、「先に進ませる」ことであり、「それでも生きていく道を見つけ出して行く」ことなのかもしれない。

考えてみれば、現実をただそのまま映す無傷の鏡というのは、救いではあるけれども人生の物語性という観点からみれば「そういうもの」が生まれる余地に乏しい。

物語というとなんだが、言い変えると起伏、波のようなもの。

苦しみと同時に在る歓び、歓喜というのもそこにある。

何でもそうだが欠乏するから満たそうとする要求が生まれる。喜びを歓びとして感ずるためには、欠乏する体験が必要なのだ。

或いは「光」、というのも「闇」によってその存在を支えられている。光を真に光として認知するためには、本当の、漆黒の闇を知らなければならない。

だから傷を知らない人は、癒える快感も知り得ない。傷から血を流し、たわんだ世界が秩序を取り戻し治っていく、というプロセスを踏んだ人にしか見えない「光」が、やはりあるのだ。

裏を返せば闇の中にある人は、それが深い闇であるほど光の可能性を有している、と思っていいはずだ。身を持って体験するまでは文字通り暗中模索だが、良き治療者とはその光の気配を遠くにあっても匂わせることができる者かもしれない。

闇と傷、これを燃料とし、光と財産に換えることができる人を、僕は「人間」と呼びたい。

前スマホ世代

悲しいかな「スマホ時代」について行けていない。

具体的には、「読む」という行為。

肝腎なものはメディアとして信憑性の高い(と思っている)出版書籍で読みたいし、読むべきだ。それがだめならPC用の画面で、それもだめならしかたがない、スマホの小さな画面で読むか。

だいたい、そんな了見なのだが、「現代っ子(今2018年)」はほぼオールスマホで用を済ますそうではないか。

しかしよく考えてみると、昔は石版かなんかに文字らしきものを掘ってたのが、木簡・竹簡、それから皮に書いたりして、その後、紙が多用され、巻物は本になり、手書きだったものも活版印刷、そして(ちょっと飛ばして)デジタル化・・・

と、そういう流れから現代に漂着してきたわけだ。

だからまあ「言語による情報に目を通す」という目標達成のためなら、端末は何だっていいことはわかる。

そんな風に理屈の上から考えていくと、あとは何が邪魔しているのかといえば、テキは自分の既成概念、「記憶」ということになる。

そういえば一昨年あたり、坐禅会によく出ていたころに70過ぎの和尚さんがスマホをビシバシ使いこなして説法していたことが鮮明に思い出される。これぞ禅僧の面目躍如たる姿ではないか。

過去の習慣や概念に足を取られなければ、〔今〕あるすべてのものが自分の手足として自在に使えるのだ。

自分自身が淘汰の対象、旧世代の人間になるかどうかは、瞬間瞬間に過去の自分が死に切って、瞬間瞬間に生まれ変われるかどうかだろう。

まあ実は健康生活の原理も、根本的には個体生命が外界変化の波に乗り切れるかどうかなのだ。

「生きている」ということは換言すれば「可変性」である。

死んだものは裡なる力によって変化しない。

だから可変性が鈍くなるということは、それだけ死ぬ方向に近づいている、ということが言えるだろう。

まあ兎角「最近の風潮」に違和感を覚え、異を唱えたくなったら要注意だ。外界現象に突っかかって行く前に、内界の鈍りと身体の硬化を点検した方がよかろう。

能書きを垂れているうちに、スマホの波にも乗れそうな気がしてきた。

まあギャップ、違和感というのは自分という「個」の鮮度を保つための刺激として、有効利用できるのかもしれない。これは整体が「病気を活かす」理屈と一緒だ。