本当に、深く傷ついた人にしかわからない世界というものがある、と思う。
みんな同じ「世の中」を共有して生きているのだけれど、その「世界」は個体生命という鏡(≒心)に映しだされることで現前する。
鏡が平らに磨かれていれば「そのまま」映すし、たわんでいれば世界は「歪んで」見える。
もし鏡に傷がついていれば、世界はいつまでも血を流し続けるのだ。
「キズ」とは大なり小なり誰の中にもあるものだが、やっぱり程度の差というのは厳然として存在するようだ。また一度ついた傷や心の癖というのはなかなか払拭しがたいようである。
終生消えないということも決してめずらしいことではないし、というか自身を振り返って考えてみると「傷が癒えた」という実例に触れたことは無いかもしれない。
ただその傷を「味わい」のようなものに変えた人たちはいる。煎じ詰めると「癒える」というのは「元に戻す」ことではなく、「先に進ませる」ことであり、「それでも生きていく道を見つけ出して行く」ことなのかもしれない。
考えてみれば、現実をただそのまま映す無傷の鏡というのは、救いではあるけれども人生の物語性という観点からみれば「そういうもの」が生まれる余地に乏しい。
物語というとなんだが、言い変えると起伏、波のようなもの。
苦しみと同時に在る歓び、歓喜というのもそこにある。
何でもそうだが欠乏するから満たそうとする要求が生まれる。喜びを歓びとして感ずるためには、欠乏する体験が必要なのだ。
或いは「光」、というのも「闇」によってその存在を支えられている。光を真に光として認知するためには、本当の、漆黒の闇を知らなければならない。
だから傷を知らない人は、癒える快感も知り得ない。傷から血を流し、たわんだ世界が秩序を取り戻し治っていく、というプロセスを踏んだ人にしか見えない「光」が、やはりあるのだ。
裏を返せば闇の中にある人は、それが深い闇であるほど光の可能性を有している、と思っていいはずだ。身を持って体験するまでは文字通り暗中模索だが、良き治療者とはその光の気配を遠くにあっても匂わせることができる者かもしれない。
闇と傷、これを燃料とし、光と財産に換えることができる人を、僕は「人間」と呼びたい。