前スマホ世代

悲しいかな「スマホ時代」について行けていない。

具体的には、「読む」という行為。

肝腎なものはメディアとして信憑性の高い(と思っている)出版書籍で読みたいし、読むべきだ。それがだめならPC用の画面で、それもだめならしかたがない、スマホの小さな画面で読むか。

だいたい、そんな了見なのだが、「現代っ子(今2018年)」はほぼオールスマホで用を済ますそうではないか。

しかしよく考えてみると、昔は石版かなんかに文字らしきものを掘ってたのが、木簡・竹簡、それから皮に書いたりして、その後、紙が多用され、巻物は本になり、手書きだったものも活版印刷、そして(ちょっと飛ばして)デジタル化・・・

と、そういう流れから現代に漂着してきたわけだ。

だからまあ「言語による情報に目を通す」という目標達成のためなら、端末は何だっていいことはわかる。

そんな風に理屈の上から考えていくと、あとは何が邪魔しているのかといえば、テキは自分の既成概念、「記憶」ということになる。

そういえば一昨年あたり、坐禅会によく出ていたころに70過ぎの和尚さんがスマホをビシバシ使いこなして説法していたことが鮮明に思い出される。これぞ禅僧の面目躍如たる姿ではないか。

過去の習慣や概念に足を取られなければ、〔今〕あるすべてのものが自分の手足として自在に使えるのだ。

自分自身が淘汰の対象、旧世代の人間になるかどうかは、瞬間瞬間に過去の自分が死に切って、瞬間瞬間に生まれ変われるかどうかだろう。

まあ実は健康生活の原理も、根本的には個体生命が外界変化の波に乗り切れるかどうかなのだ。

「生きている」ということは換言すれば「可変性」である。

死んだものは裡なる力によって変化しない。

だから可変性が鈍くなるということは、それだけ死ぬ方向に近づいている、ということが言えるだろう。

まあ兎角「最近の風潮」に違和感を覚え、異を唱えたくなったら要注意だ。外界現象に突っかかって行く前に、内界の鈍りと身体の硬化を点検した方がよかろう。

能書きを垂れているうちに、スマホの波にも乗れそうな気がしてきた。

まあギャップ、違和感というのは自分という「個」の鮮度を保つための刺激として、有効利用できるのかもしれない。これは整体が「病気を活かす」理屈と一緒だ。