目の前のクライエントさんのことは、いくら本を読んで探してもどこにも書いていない。それは本当にその通りなので、とにかく「ひとりの人」が来られたら「一生懸命その人の話を聴く」というのが、カウンセラーに残されているたった一つの武器と言えるかもしれない。
だからといって、読書が心理臨床に全く役に立たないかというと、これは役に立とうが立つまいが「是非とも読むべき」で、プロならば読まなければならない。いや、実際は大いに役に立つはずだ、と私は信じている(ただ、ほっとんど読めていませんが‥)。
カウンセラーにとっての読書は、例えるなら消防士さんが毎日筋トレをするようなものではないだろうか。筋トレさえしていれば人助けができるという訳ではないが、基礎体力は絶対にいるし、有事に備えるプロ意識の具現化という観点からも必須だろう。
とりわけ「こころ」を中心として人間の全体に向き合う「治療者」にとっては、読書は日々の食事や睡眠、呼吸と同じように当り前のことだと思う。
著者の河合さんが冒頭に言う、「(みんなもっと本を)読まな、損やでぇ」と投げかけた言葉のウラに、そんな含みを推理した。
読了後、何よりうれしかったのは「治癒」という現象の論理性に、非常に安定的な「枠組み」が構築されたことだった。つまり「〈治る〉とはこういうこと」、「こうなれば〈治る〉」ということの必要十分条件が立体的に捉えられたのである。
一方でモノゴトには安定的になり過ぎるとかえって死に近づく、という逆説的な面があるので(←動的平衡)、構築された理論に対して「本当にこれでいいのかな?」という第三者的な批評の慧眼はいつも開いておきたい、とも思っている。
話は行ったり来たりするけれど、この『こころの読書教室』が新潮文庫に入る前のタイトルは『心の扉を開く』(岩波書店)だったという。
「読書」という行為は心の深層へ通じる扉を開き、私自身が普段は心の下層に眠っている〈わたし〉に出会うこと。
またそこからさらに進んで行った先に、〈たましい〉とか〈いのち〉などと呼ばれる、生命の全体性と深くつながるための儀式によって人は癒され成長して行く、ということまでを示唆している。
ちなみに「心」から「こころ」へと表現が変わったのは、精神の領域をより広範囲に求めるという目的で、もとは夏目漱石の小説にならったそうだ。
さて、本書においてそのこころ(=無意識)の扉を開くための水先案内人として、適任と思う書物を全四部構成として一部当たり5冊ずつ。「まずはこれを読んでください」と紹介してくださっているので、それが計20冊。
これに加え、「もっと読んでみたい人のために」という括りで、さらに5冊ずつ。だから総計で40冊が掲載されていることになる。
一冊ごとに河合さんならではの読みの深さを背景に、優しいユーモアを織り交ぜた書評が豊かに綴られており、どれをとっても「あー、コレはぜひ読んでみたい」と思わせてくれる。
そして一部を読み終わると、氏の伝えたかった大切な「想い」が知らない間にこころの中にそっと贈られている、といった印象だった。
本書を通じて、「人間」というもの、そしてその人間が生きている「人生」という事実がいかに多面的かつ多重構造的であるか、ということを教えてもらった感じがする。
世間では時折り、「目的を見失うな」という言葉を耳にするが、目的が単一的かつ固定的であれば当然それだけ迷いにくくもなるし、進歩も早い。
ただしそれは人生50年などと言われていた時代なればこそ、有効な助言であったのではないだろうか。
いまや半数以上の方が長寿を保証されたかのような現代社会にあっては、むしろ人生の意義を多面的に捉え、いかに有用な道草を食うかということが来るべき死をより豊かに完成させるためには大切な「プロセス」になるのではないか、とも思える。
しかし体力的にも経済的にも、そして時間的にも限界のある人間にとって、自分の足で歩める「道」には限度がある。
当然のことながら性愛や生死にかかわる事象など、あまりにリスキーなことは理性的に避けなければならないし、そんな風に何かと制限つきの娑婆にあって、「本を読む」ということは(仮想とは言え)こころの体験値を安全に増やしてくれるありがたい行為であることは間違いない。
まあ、兎に角、「読まな、損やでぇ」という河合さんのユーモラスな愛情表現ともとれる一言に、本書の主旨はギュッと濃縮されている。紹介された本にはこれから一冊ずつご挨拶をして、丁寧に語り合っていこうと思う。
そして40冊分の物語を体験した後で、私自身が一体どんな〈わたし〉と出会うことができたのか、それが今から楽しみである。