お会いする方から「センセイ、ブログ読みましたよ」と言われることほどこっパズカスィことはない。
だったら書くのやめろよ、とツッコミたくなるが、まあ「仕事」なんですよ(だからそっとしといてください)。
野口整体が今日まで命脈を保ってきた要因として、創始者の圧倒的な文章量は無視できない。いわゆる「ノグチセイタイ」はそれらの余禄で食いつないできた、といっても過言ではないだろう。
真理というのはいつだって言語を超越したものだが、その掴み得た真理を他に示し、導くためにはやっぱりカタチが必要である。「言語」とか「態度」とか、そういった外形に支えられて真理は浮かび上がってくるのだ。
だからこそ、達磨大師は悟りを示すために九年間壁に対座したのである。
誤解が横行しているようなのであえて記すが、達磨は九年坐したことで悟ったのではない。自身が徹見した悟りを正確に現すために、「黙った」のである。これがいわゆる「面壁九年」の実相だ。
その最初の理解者が現れるまでに九年かかったという話である。
そう考えると現代のSNSは面壁九年の対極である。
大小さまざまな「ジョウホウ」がのべつ撒布されているが、一つ一つを丁寧にふるいにかければ人類を根本から救ウようなものは皆無に等しい。というか、むしろ迷ウ材料は一秒ごとに増すばかりだ。
そう激しながら、キーを叩く自分は矛盾の真っただ中に居るわけだが、最初に戻ると、そうした駄文の中にも時々、ダイヤの原石とか砂金も混じるから一概には捨てられないのである。
例えるなら「光」というのは、それのみで光ではない。
光源と開眼の融合した活動が「光」なのだ。
そういう意味で広大な世界の片隅に達磨を見出した慧可は秀逸である。
人類救済の鍵をその力でもぎ取り、「可能性」を繋いだのだから。
斯様に発信元と受信先、この二つのレベルがつり合うことで、「救い」も「悟り」も「光り」も“そこ”に現れる。
何にせよ光の方ががくすんでいては始まらないないので、少しでも駄文の質を上げるために今日も精進あるのみである。