鼻血

最近立て続けに「鼻血が止まらなくてびっくりした、怖かった」という話を伺った

「季節がら」もあるのかもしれないが、血が出ることに恐怖感を覚えると体のどの部位でも止まらくなる

また、ウソかホントかはわからないけれども、自然界には「出血多量」という死因は無いそうである

動物の場合は死を空想しないからだと思うが、人間は「もしや」という空想が悪い方向にいくと身体がそちらに引っ張られやすい

ところで野口整体の場合は「出ている症状を止める」ということはめったに行わない

鼻血なんか洗面台のうえで身をこごめてポタポタ出していれそのうち止まるのである

本当にやっかいなのは体内の出血で、これが脳の中で起こったらやっぱりまずい

鼻から外に出ている分にはそういう怖さはない

生命には常に平衡要求というのが働いているので、基本的には身体はいつも「最善の一手」しか打たない

そいうことが体験的に心底わかってくると、こういう不安はやがてなくなるはずだ

不安定という安定性

生きている人間というのは絶えずゆれているものである

この、いわゆる「ゆらぎ」によって生命の平衡は保たれている

健康指導や精神論などを説く際に、ともすればその微妙なゆれによって安定が保たれているという事実を忘れがちになるので気を付けねばらない

例えば整体操法を施した後でも、重心が定まり気持ちが一定に纏まる感覚は大切なのだが、相手の中にある「ゆらぎ」を完全に奪ってはならないと思う

「個性化」という、自己のアイデンティティを日々新たにして行くプロセスは、不安や不満という見えない心の炎に炙られることで蒸留され活性化していくものである

ともすれば世の中の「強力な指導者」というのはこうした「ゆれ」をピタリと止めてしまう力があるために、個性化の自然な流れを止めてしまいかねないのである

ヒトラーの演説を聴いているドイツ国民などはその典型だと思うが、そこまで烈しいものでなくても俗にいう「カリスマ」的な人に就き従いたくなる裏には自己変革に伴う不安定さ、という見えない苦痛から忌避したい要求が隠れている

つまり「ゆれ」の不安に耐えられない人ほど、特定の団体やドグマの中に自己を没却し、一過性に心の安定を図ろうとしやすい

しかし、このとき自己は「固定的」になっているのであって、これは言葉の響きとしては「安定的」と似ているようだが実際は異なる状態である

整体指導という技術はこの「ゆらぎ」を止めるものではなく、身体を整えることで自分を取り巻いているゆれのレベルを明瞭にすることを目的としている

例えば船旅の最中に海が時化(シケ)になった場合、先ず船体に破損なく、船長を中心に乗組員の意識がしっかりしていなければならない

この時に、風向きやその強さ、海の荒れ具合に加え、時刻や現在地が正確に捉えられるので各々適切な対処ができるのである

整体と言うのは、この船体を正常に保ち、船員をノーマルな意識に導いていく行為といえる

この時に自分の置かれている「状況」と言うのが非常によく見えるからだ

体が整うことで精神が落ち着き、「不安定である」という現象に対する漠然とした恐れや焦燥が消え、その不安定さを逆に有効利用して「安定的」な状況を生み出すことができる

こうして考えてみると安定的と言うのは、先ほどの固定的というあり方とは対極に位置することが判るはずだ

人間が身心ともに安定するためには不安定さを内包しなければならない、といういわゆるパラドックスだが、このような視点を持つことで自身の不安やゆれに対して、一定の関心とある種の歓迎的な態度を持てるのではないだろうか

動的平衡とか動中の静などという言葉は、こうした逆説の妙を上手く言い表した古語であると言えよう

いかにも東洋的な思想だがこれを具現化した状態の一例が野口整体の活元運動である

まさにゆらぎの中に安定を見出すためには秀逸な方法と言えるだろう

かかとの割れ

使えば治るシリーズで思い出した

やっぱり1ヶ月くらい前だったと思うが右足のかかとが少しひび割れてザリザリになっていた

これは比較的簡単で四股を400回、二日続けて踏んだら二日目の晩にはなめらかになった

99%の人が何のことだかわからないと思うのでちょっと説明を

かかとがガサガサに割れるのは腸骨の動きが鈍くなったことの随伴現象である

実はこれ、性が枯れはじめた頃になりやすい

ともかく骨盤、仙腸関節の可動性を取り戻せばかかとの割れは治る

いろいろ試してみたけれど四股が一番効果的だったのである

問題が回数だが、自分がやり始めると止まらないタイプなので、400回とか1000回とかなるけれど

きちっと正しく踏むことができれば10回、20回でも効果は充分ある、と思う

潜在需要の高そうな情報だけど、このブログで発信したくらいでは絶対に広まらないだろう

見つけられた方は僥倖と思って、どうぞお試しください

健康のために軽い運動

1ヶ月ほど前になるが実は腰痛に悩まされていた

医者の不養生はともすれば同情の一つも買えるけれども、整体指導者の不整体は許されない

恥なのである

いろいろ調整を試みるもよくはならず、難渋しながらどうにか仕事をやり過ごしていたのだが回復の波は期せずして訪れた

結論から言えば、庭の草むしりと冬物の片付けで脚立に登り降りしていたら調子が戻ってきたのだ

治そう治そうと工夫したり庇ったりしているうちはかえって治らないという典型のような話で、勉強にはなった

こうして書くと可笑しな話のようだが、世の中には存外こういうものが多いのである

例えば、「念のため」「大事を取って」と言いつつ、要らぬ入院を長びかせてせっせと病人を育てていることがある

別の例えで言うと、右手がかじかんだからと言って、その冷たくなった右手を左手で一生懸命さすっていたらどうなるか

親切に左手がさすっている内はいくらかいいかも知れない

だがその間左手は仕事ができないし、やがては疲れて嫌気も指して来るかもしれない

結果右手が動くようになればいいが、なかなかそう上手くはいかない

正解はそのかじかんだ右手を使って逆に左手を擦るのである

そうすると血行が良くなり、たちまち体温と感覚は戻ってくるだろう

こんな風に、人間というのは守られたり庇われたりすることでどうにかしようと思っているうちは決して丈夫にはならない生き物である

多くの場合病気や故障の実体は余剰体力の発奮材料なのだ

苦しいからと言って余分に寝ていれば余剰体力はますます堆積して、やがて腐りはじめる

その結果、どうどうめぐりと言うか、体力が余ったためになお毀していくという負のスパイラルにはまってしまうのだ

そうこうするうちにやがて弱くある自分自身に快感を覚えて、いつまでも病気でいたいという無意識の要求にのみ込まれてしまう人がいる

そういう状態になった人のことをはじめて「病人」と、こう呼ぶ

人間は眠るのも食べるのも病気をするのも、みんな溌剌と動いて自分の命を出し切るためにやっていることである

自分が知らず知らず毒されてきた潜在観念に気づき、一掃しないかぎり弱い自我は変えられない

健康のために軽い運動などという遠慮がちな態度はやめて、健康のことなど打ち捨てて思い切り動くことが養生だ

最終的には、自分の正体を明らめる以外に治療の手立てはないのである

名前はない

愉気って何だという質問だが、人間の気力を対象に集注する方法だ、と考えたら良かろう。人間の精神集注は、その密度が濃くなると、いろいろと、意識では妙だと思われることが実現する。穏やかな太陽の光でも、集注すると物を焼く。光はレンズで捉えられるのだが、気は精神集注によってちからとなる。それ故、愉気するには高度な精神集注の行えること、恨みや嫉妬で思いつめるような心ではない、雲のない空のような天心が必要である。(野口晴哉著『健康の自然法』より)

ときどき愉気はレイキヒーリングとどのように違うのですか?と訊ねられるが、そもそもレイキのことをよく知らない

と思ったら、よく考えると愉気が何だかもわかっていないではないか

しかしもう一つ踏み込んで考えてみると人間が生きていること自体が、何がどうなって生きているのか解ってやっている人などいないのだ

特にこういう生命原理に近いようなものは、探ったり追っかけたりしているうちはそれらしい理屈に掴まるだけで実態そのものに突き当たることは無い

ただ、手を当てると何かが起こるのであって、それに名前を付けたのは人間である

そしてどう使うかを決めるのも人間なのだ

流派や方法論、名称は気になるところだが核心はそこにはない

人間の位(くらい)というのがちからの根源であり、その上で精神の平衡を保つことが全て

名前はどうでもいい

健康の自然法とは流石言い得て妙である

30歳からのハローワーク

ユングは自らの心理学を「人生後半の心理学」と説いたそうである

最近はせい氣院で行なっている仕事も「人生後半の整体指導」ではないかと思うことは多い

客層が自分の年齢を基準に形成されるからかもしれないが、最近は40歳前からの自己変革を求める人が割りに増えている

だいたいその辺りから自分の人生を逆算して考えるようになるし、時期を同じくして職業の選択もシビアになってくる

見ていると20歳前後で就職をされた方が、軒並み30歳くらいで最初の職業的人生を見直す時期に差しかかるようである

実際に転職を機に来院される方もいるし、転職すべきか迷われていた方が整体指導を受けながら、がんばって続投の道を歩んでいく場合もある

現代日本ならではの特徴かも知れないが、人格発達の目安としては20歳代で自分を客観視する目が徐々に養われ、30代はその目を使ったいわゆる「自分探し」が活発になる

そして40代は「補償の時節」というか、前半生で生きられなかった部分の「生き直し」を図ろうという心の動きが目立つ

そういった事情から「30歳の就活」が人生最初の職業選択だと思っても良いかもしれない

やや論点がずれるけれども、大事な選択のときには雑音をカットすることが鉄則である

つまり「右か左か」という大切な岐路に立ったらそれまで外に向いていた心の目を内に向け、ひたすら「意識の鎮静化」に努める、ということだ

意識を静めて自己との対話に徹することで、はじめて「自分の道」は深層意識の下層部から浮かび上がってくるのである

大抵の学校は卒業間近になると適性検査などを行ってそれが職業選択のよすがにでもなると思っているようだが、ああいったものは迷う材料が増えるばかりで無益な行為である

いつだって答えは中心にあるのだ

本来ならば思春期・青年期の教育課程の中で「中心にアクセスする方法」、「周辺を消す方法」を指導しておく方が人生の難局においてはよほど助けになる

このブログでも折に触れ瞑想の必要を説くのはこのためなのだ

ハローワークの手段が瞑想、というややエキセントリックな流れになってしまったが、いつだって最終的に頼りになるのは自身の判断力を曇らせない澄んだ精神とそれを支える身体であることを知っておきたい

いま就活をしている人もそうでない人も、「整体である」に越したことは無いのである

やさしさに包まれたなら

なんだかんだ言って「やさしさ」は大切だ

「やさしさとは何か」と考えていくといろいろな定義が生まれそうだが、ここではいわゆる母性原理のようなもの指している、と思う

整体指導という「人を癒し育む」仕事においては父性も母性も同等に大切なのだが、現代(戦後)の日本社会では父性がますます希薄になってきているために、メンタル系の指導者には「コワモテ」の人が目立つ

具体的に言うと、占い師などでも「あなたはこういうところがダメ!今日からこうなさい」などというような、ズバッと言ってくれる人の需要が一定にあるのだ

そもそも父性と言うのは実社会の厳しさを象徴し代行するのが役割である

つまり家庭という外界から閉ざされ保護された領域内おいて、父親は疑似社会的な役割を担い、子どもに適度なストレスを与え鍛えていくのが理想だ

しかし人間の成長には父性も母性もバランスよく求められるのは当然で、あまり男性的な論理性や合理性の枠を押しつけられると人間はやがて野性味が薄れ、しなびてくるものである

たまごを孵(かえ)すためにはそうしたストレス以前に程よく快適な温度が必要なように、「いのち」を生かすためには快と安堵が基点になる

今にして思うと30代は自分自身が父性を求めていたせいもあって、仕事の態度にも固さが目立っていたのではないかと思う

しかし西洋で生まれ発展してきた「カウンセリング」に関心を持ち始めたあたりから、治療現場における「やわらかい母性」の価値を新たに認識し始めたのかもしれない

以前ある心理臨床家の言葉で「(治療者たるもの)自分の人格的偏り、治療の偏りに敏感であれ」というものを読んだことがある

だからって自分の「偏り」が解消されたなどとは思わないが、何かしらの見えないコダワリが一つはずれたのだとは思いたい

くり返すが、何ごともバランスが大切なので「父母性のどっちが‥」という言い方はできないけれども、ともかく今は「やさしは大切」と思った、ということに留めるつもりだ

人間は誰しも「無自覚の偏り」の宝庫である

道に完成はないのだ

体育と精神医学

心のことだと体と関係が無いように考えている人は沢山いる。心理学と生理学を別箇にしているからであろう。その為に精神身体医学とか、心身一如たれとかいう意見がおこるが、始めから心身が分離している人間などは一人も無い。分離していたのは学者の頭である。体育を土台とした教育ということを教えて主張しなければならないのはこういう考えの人が多いからである。(野口晴哉『叱言以前』全生社 p.61)

現代は心と体のつながり、分離ということが取り沙汰されて久しい。昨今はない心と体が無関係だと言う人はそれほどないかもしれないが、かといって心の問題に対して身体的な導きによって処理のできる人というのはやはり稀有である。

なぜそれができないのかと考えていくと、まず治療者や指導者が自分自身の心理と生理とのつながりが希薄になっているからではないだろうか。

人間は自分の身体感覚を投影して他者を測るために、治療者がいくら心理学や生理学を頭に覚え込ませても、身体がにぶっていればそのにぶさのレベルでしか人間を理解できない。

しかし人間は大昔からお腹が空けばイライラするし、おしっこを我慢していれば落ち着かないのである。

こういうイライラとか落ち着かない感じを「治そう」と思ったら、何か食べるとか排尿することがいちばんピッタリした「治療」である。

それを何かイライラするんだったらちょっとカウンセリングをしてみましょうとか、気持ちが安定する薬を出しましょうといったなら、誰もが「妙だ」と思うはずである。

ところが精神医学の世界では、ときおりこういう妙なことが治療として行われているのが現実である。

気分は身体の生理機能に直結するのと同時に、身体が気分をリードしていることも多々ある。

つまりその実態は不即不離であり、というよりも最初から「一つである」ということだ。

だから対話でも手技でも「その人の全体を掴まえたうえで」行なえばそれは全人間的治療になる。

ところが同じ話を聴くのでも個人から切り離された「話(音声)」だけを聞いていたり、手技療法を行なうのでも関節とか筋肉、内臓だけに触れていたのでは対象者を生命の中心(裡)から動かすことはできない。

そもそもが「病気」と呼ばれるものの大半は心理と生理が乖離しかかっている状態から心身の一体感を取り戻すために起きている。

だからその病気をうまく利用して、身体の自然性を取り戻すことが治療の本義となるべきである。

そういう観点から治療行為の本質を突き詰めていくと、身体を中心に据えた教育、すなわち「体育」ということが自ずと求められるのである。

もちろん整体ばかりがすばらしいといは言えないけれども、身体の生理を度外視した教育や心理を省みない治療はやはり片手落ちではないだろうか。

もっともっとこういう「整体学的」とも言える人間理解の一般化に貢献したいと私は思う。

内なる美

近頃は対話型の精神療法の勉強にいそしんでいたが、やはりフィジカル面では背骨が大事である

先日あるカウンセラーさんと治療談義をしていた折、「心理療法では、〈治った〉と判定するのはどのポイントですか?」と訊ねたら、「忘れたとき」とおっしゃっていた

また、それにつづいて「身体が変わったとき」とも言われた

確かにどちらもそうだ

忘れたときは身体も変わっている

そして人間は対話でも変わるし、手技(皮膚の接触)でも変わるのである

カウンセリングの場合は「もう大丈夫ですね」という両者の合意によって治療終結の確認をとるのが理想の終わり方だが、整体では指導者が身体の変化を観ることをもって結了するのがならいである

ただ指導者とクライエントはその時は一体化しているので、両者の主観的には「どちらともなく、これでいいのだ」という感覚を味わうことになる(間主観性)

いずれにせよ、この時背骨には通った感覚が出てくるのが本当である

整体指導では伏臥した相手に跨って背骨のキワを押える型があるが、これは直接的に中枢神経系にはたらきかける技術であって、おそらく脳の作用に反応を起こさせやすいのだと思う

しかしいくら肉体を押えても意識のあり方が変わらなければ、身体はまた同じように偏ってしまう

だからどちらにしても目指す所は、「現在意識の崩壊と再構築」であり、これを誘発することが治療行為の根本にある

対話で自我崩壊が起こるならばそれはそれで結構だし、身体の接触による刺戟で変わるなら迷わずそちらを使う

これを表現するのに整体では鍵刺激、という言葉がある

鍵というのは、鍵穴の構造にあった形のもの使用して、正しい方向に動かせば簡単に開く

玄関の扉でもこの「鍵」があるから容易に開くのであって、これがなければ蝶番から扉自体を外すなり、破壊するなりしなければ開けることはできない

だから技術というのはありがたいのである

ただ鍵の構造を理解するより、人間の構造を理解することの方がはるかに難解であることは誰もが認めるであろう

だから整体では一にも、二にも、「観察」を重んじるのだ

何ごとも「解れば」出来たも同然なのである

ところが人間というのは探れば探るほど、「解る」ということからは遠ざかっていく

人間は頭で理解しようとするとかえって解らない、だからこそ整体指導者は主観を磨き、身体を観るのだ

背骨はその中心になるが、全体を通して「美しさ」があればそれは「善し」である

やがてはクライエント自身に自らの美しさを観じる心の眼が養われることが肝要で、高度に洗練された審美眼に耐えうる動作と生活が展開されればそこに「整体」が現れる

つまりカウンセラーがいうところの「身体が変わった」のだ

何ごとも「美しい」ということは本物である

さらに、美しさを観じることができるのは、自らの内に美を有するものだけだ

健康とはそういうものである

美と健は同じ事象の別の呼び名なのだ

師弟関係の完成

最近本のツンドクが折り重なって、何から手を付けたらよいかわからなくなっていたのだが、1年前から停泊中の『ユング自伝』をようやく読みはじめた

プロローグ

私の一生は、無意識の自己実現の物語である。無意識の中にあるものはすべて、外界へ向かって現れることを欲しており、人格もまた、その無意識的状況から発達し、自らを全体として体験することを望んでいる。…(『ユング自伝』みすず書房より)

言うまでもなくユングを理解するうえで、精神分析を創始したフロイトの存在は無視できない。

フロイトなくして「ユング」なしであり、ユングが「ユング」になるためにはフロイトとの一時的一体感は不可欠であった

そして最後の完成のところで、フロイトを否定しなければならなかったのだから、師弟関係の完成にまつわる矛盾やドラマ性をラジカルに象徴している

「個性化」を中心に置いた彼の心理学は、そうした他者との深い関わりの中で起こる幸福な一体感と独立期に起こる悲しみのインパクトによって生まれた気がしてならない

論語においては「15歳にして学に志し、30歳にして立つ」というが、人間というのは最初何を目指したらいいのかわからないものである

そこで先ずは手近なお手本を見つけて歩みはじめるが、しばらくすると必ず妙な感じが起こってくる

つまり師であろうと親であろうと、結局はそれが「他人」であるという事実に愕然とするのである

昔から先人の犯した過ちを繰り返すことを、「同じ轍を踏む」というが、別にこれは過ちに限定せずとも他人の轍を踏んで歩み続ければやがて自分の人生を踏み外すのは当然である

だからこそ、三歩下がって師の影踏まず歩いていたような者が、不意に自分の轍に気づいて先達と離別の道を歩みはじめることを「恩返し」と言ったりするのだ

日本画の長沢芦雪などがその妙例だろう

俗に「名人に二代目なし」などというが、裏を返せば二代目からは名人が出ないという話で、この言葉自体がすでに師弟関係の限界性を物語っているのだ

また野口晴哉は中川一政との対談内で、師弟関係のリミットは10年と論じている

それ以上ずるずるつながっていると師を超える人間は一人も出なくなってしまうというのだ

自分もそういう人たちをたくさん見てきたが、世に言う「名人」とか「カリスマ」という存在は考えようによっては近所迷惑なものかもしれない

ここで再び論語を引用するが「教育」に関して

学んで思わざればすなわち罔(くら)し
思うて学ばざればすなわち殆(あやう)し

という言葉を残し、人に就いて学ぶことと自分で考えることの両輪を説く

個人的には今の日本人は全般に「学び過ぎ」ではないかと思う

特に高校、大学、院と、俗にいう「高等教育」に進むにつれて、自分の頭で考える力をどんどん失っていく人がいる

そこまで行くともはや何を言ってもやっても、だいたいがどこからかの借り物になってしまうのだ

本来自分の最高の師は自分なのである

それを弁えた上で、他人からとれるものがあればとればいい

「教える、教わる」というのは個性化の、特に初期の過程で誰もが通る道といえばそうだが、自立の前の深い一体感の中に「悲しみ」の種が隠れていることは知っておく、あるいは教えておくべきかもしれない

だからこそ、それを知っている人はみだりに師に就いたり、弟子を取ったりしないのである

日本では親鸞がそうだし、ユングは自派の組織化を快く思っていなかったというが、それだけ「孤」であるということに強い人たちだったのだと思う

孤独と孤立と自立はどれもみんなちがう

禅の独坐大雄峰などというのが自立の極みだろうが、一方で自立の前には先ずどっぷりと安全な保護環境に依存することが必要であることも否めない

別れは人を大きくすると言うが、

やっとのことで辿り着いた深い人間理解のすぐ先にある別れ

こういう相反する物事の悲しさを知る上で、師弟という関係性はやはり人間の発達においてある種の有用性はあるのかもしれない

そういう観点からもユングが自伝を遺してくれたことは個性化の一つの好例として、稀有な記録だと思うのである