動悸息切れにも必ず原因と治し方はある

だいたい年に2、3回だろうか。原因不明の動悸息切れのご相談をいただく。

「求心」を愛用する人もいぜん多いみたいだが、飲みつづけることに疑問を感じていろいろな治し方を探すうちに、ごくまれに「野口整体」に辿りつくらしいのだ。

そもそもがドキドキしているのだから、言わずもがなというか「不安」とか「心配事」がこころの底に潜伏している。そういう例が8割以上だと実感している。

ところが当の本人はというと「特に、悩んではいないと思うのですが‥。」という反応もめずらしくない。

いわゆる心身症とか離人症に類する徴候である。

しかしながら、不思議とこの手の相談は愉気だけで収まってしまうことがままある。

これを仮に精密検査なるものを通して、原因を追究し、それから治療法を定めて、効果を測定し、とやっていたら何年もかかってしまうかもしれない。

その点、からだというのは刺戟に対して実直だ。

ただし愉気で治った場合、本人は何がだめだったのか、なぜよくなったのか理性で納得できずに終わってしまう。

無意識層に漠とした安心感が沸けばそれで良いのだから、こちらも主命は果たしたといえるけれども、仕事としては画竜点睛を欠いたような不全感が残る。

つまり「またくり返すのではないか」という禍根を残しているのだ。

漠とした不安を漠としたまま解消するというのもわるくはないけれど、やはりお互い因果関係を理解したうえで治療を完了させたいものだ。

原因をたどっていくと「生い立ち」は外せないのだが、それがわかったからといって何がどうなるわけでもなく‥。

時計の針は先にしかすすめないのだから、「これから」豊かな人間関係をたくさん築いていくことが建設的態度といえばそうだ。

「今」が大切、というか人間だれしも「今」しかない。

少し横道にそれるが、心理療法では「実存分析」という学派がこのような考えで取り組むようである。

誤解をおそれずごくごく簡単に説明すると、人間の一生さまざまな問題、悩み、苦しみがあるけれど、つまるところ「今、気分が良いのか悪いのか」それだけではないか、といった見解である。

こうして見ると「こころ」というのは過去から現在まで体験してきた折々の色彩がすべて一層に映し出されている映写機みたいなものだ。

だから身体を通じて「うん、これでいいんだ」というピタッとした刺激が伝わることで、こころに掛かっていた緊張のが鍵が外れてしまうのだ。

結局、因果性というか治癒のメカニズムは説明できないのだが、赤ん坊が母親に抱かれることで体重が増えていくのと根本は一緒だと思う。

見てもらうとか、見守られる、ということは治療の原点である。

それなら、同じ病気をくり返したってまた手を当てればいいだけである。

その度に愛情の過不足が調整されていく。

そう考えてみると、病気というのは人と人をつなぐ役割もあるのかもしれない。

何より手を当てると意識が静まる。

これによって複雑に入り組んだ精神的葛藤が平癒に向かう、というのが自論だ。

エビデンスもなにもあったものではないが、何ごとも論より証拠、結果が全ての理屈である。

身体というのは、何層にも重なり複雑化した精神を「現在の姿」という一枚にまとめて表現してくれる。

そこが心理療法と比べた場合の、整体の大きなアドバンテージだろう。

もちろん全面的な整体優性論を説くつもりはなく、整体の特性の一つだという程度に留めておきたい。

安心感というのは身体現象であるということを知っておくだけで、治療法のはばが広がることを言いたかった。

やはり「こころ」といっても「からだ」といっても、それは一つの活動体の別の呼び名なのだ。