今日は10月最初の活元会でした。
長編の教材を用意していたのに今回は使わずじまい。あら‥。
いや、話の流れで「ポカンとするってどういうこと?」というテーマでしゃべった気がします。あんまり覚えてないんだけど‥。
それで教材は使わないで、日本に曹洞宗の禅を根づかせた道元禅師による『普勧坐禅儀』(みんなにおすすめできる坐禅の仕方)から下の一節、
心意識の運転を停め、
(しんいしきのうんてんをやめ、)
念想観の測量を止めて、
(ねんそうかんのしきりょうをやめて、)
とういうところを使って野口整体でいう「ポカン」についてつらつらーっとしゃべっていったと思います。
つまり、
ここらで一回、こころの働きということを一切やめてみましょうよ、
思いというもので、ものごとを測るのもちょっとの間やめませんか、
という感じでいいと思うのです。
そうすると、何がどうなるんですか?っていうと、
まあ何も起こらなくなるんですね。
世の中にさまざまな悩みの種とか問題がありますけれども、問題を起こしているのは必ず自分です。
つまり、現場はいつも向こう側ではなくこちら側。
その自分というはたらきの中でもあえて限定すると、
「頭の中」
ですよね。
そこがピタッと収まるように、自分自身を持ってってやる。
もう少しくだいていうと、
頭のはたらきが止まる、という「身体の構え」があるわけです。
そういうものがさっきの道元さんに代表されるお坊さんたちの修業の核心部分だと、わたしはつねづね思うのです。
そのために「坐禅」もあるし、それ以前に朝から晩までお寺の掃除をしたり、お庭の草をむしったり、ご飯を作って食べて、お茶碗を洗って、という「作務(さむ)」があるわけです。
そうやって、身体内に余剰エネルギーを残さないように自分自身をくまなく使っていく。
また、そういうことを出家した坊さんだけの特権と考えないで、われわれだってやれるし、またやれないと「救い」っていうものがもう本当にみなさんの日常の生活から遠い存在になってしまう。
それじゃあだめでしょう?
この身体というもので誰もが修行ができて、自分で自分を修めていく、救っていく、というそういういき方でなければ本当の意味でみんなの役には立たないでしょう?
活元運動っていうものはそういう系統の、つまり東洋的な身体行のエッセンスといって差し支えないものです。
だから体力のあるひとないひと、若いひともいれば年寄りもいるし、男でも女でも同等に行なえる、病気があるとかないとか、そういうこととはまったく別次元の生理的な作用の部分で訓練をしているわけです。
そして個人個人にピッタリ適合した体運動がきちんと行われることで、身体の脱力がすすんでいって、これに応ずるように頭のはたらきというのが徐々に静まってくる。
つまり「ポカン」になっていく。
こういうプロセスというか、ちゃんとした生理学的な道理があるわけです。
最近は、考えるのをやめましょう、頭のデトックスをしましょう、スマホを長時間見つづけるのはやめましょう、
と、
そういうことを巷でもよくすすめていますが、
頭が休まるとか、心の平安とか、安心とか、ポカン、
こういうものはみんな、
考え方とか思考形態のバリエーションではなくて、
身体能力なんだ、れっきとした身体の技術、技なんだ、
っていうことを、
なるだけ早い段階でおさえてもらいたいのです。
つまり頭だけの問題ではなくて、
首から下の状況っていのがものすごく大事。
「悟り」だってそうでしょう?
道理とか理屈のものだったなら、文字で読んだり、話で聞けばみんな済むことになってしまう。
道元禅師だって中国(宋)まで命懸けで教えを乞いに行く必要はなかったってことになっちゃう。
ところがやっぱり、こういうものは自分自身の心と体をフルに使って、自分自身に実証してやる必要があるんです。
「ああ、なるほどな」
「ポカンとするっていうのはこういう状態なんだ」
「からだがこうなるから頭が休まるんだな」
っていうことを、実体験して、それで自分自身のちからにしていかなくっちゃあいけない。
人にやってもらうようなものじゃあないんだよね。
そういう意味で、みんなで修業しやすい環境を作って、一人ひとりが自分に取り組んでいく。
そういうような感覚で「活元会」っていうものを利用していただければ有意義な「場」になると思うのです。
昔からそういう場所のことを、
「道場」
と、こう呼んでいたと思うのです。
まあちょっと穿った言い方をすれば、
本当はいま、みなさんの身体のあるところが道場、といってもいいわけですけれど。
「歩々是道場」
っていったりしますしね。
ともかく体をこまやかに整えていく。
そうやって自分自身を大事に使っていく習慣を身に付けるんです。
粗雑なのはだめ。
だからポカンっていう「頭のはたらき」だけにフォーカスしないで、
自分の手足、枝葉末節から、腰、要の部分ですね、
そういったところまで、
体のパーツ、パーツをこまごまと、上手に手入れしながら丁寧に使っていく。
そういうことの積み重ねで、ようやく「精神」のはたらきっていうのは少ーしずつ上質な方向へ変わってくるわけです。
むかしから「精神修養」っていいますけど、そういうことだと思うんですよね。
ま、体のことでも心のことでも、現代はあまりにインスタントな手法に流されやすい、
世相全般にそういう風潮があると思うので、整体っていうのはまず、「そういうものとはちょっと違うんだよ」っていう認識は必要かなと。
なにも厳しいわけではないし、むずかしい話でもないと思うんですけど、着眼っていうか目のつけどころがちがっちゃうと、やっぱりいくらやっても成果は上がってこない。
「まちがいのない」ようにやっていただくことだし、こちらもミスガイドにならないように気をつけながら、これからもやっていこうと思ってます。