スポーツトレーニングの害について書いたが、とうぜん反論もあると思う。
いや、スポーツは体育手段として有効なのだ。それだけに副作用にも同等に目を向けるべきだと言いたかったのである。何でもいいから身体を動かしていればいいだろう、という粗雑な感覚には危険がつきまとう。
実際問題、競技の勝利者には栄誉を与えられるが、僅かな数のスターが生まれる一方で相当数の人がケガや故障で中途脱落している。まあ両極端をついた話で、その中間層で適度に楽しんでいる人の数が最も多いと思うのだが。
しかし「健康のために‥」と銘打った時には、まず「健康とは何ですか?」という問いの答えから逆算していかなければならないはずだ。ゴールがわからなければ正しい道などありはしない。
いろんな切り口から答えられるが、最近気になっているのは「血流」である。
道を歩いているとジョギングをしている人をよく見かけるが、毎日走ったからといって血行がいいかというとそうでもない。いわゆる体の「偏り」を放置したまま一生懸命動いたところで、身体にはその悪癖を基礎とした誤った動作が繰り返し記憶されるだけである。
だから身体上から余計な緊張箇所を明らかにして、それを取り除かなければならない。それが容易にできなくて、みんな苦労しているのである。
整体には「鍵刺激」という言葉があって、整体操法とは身体にかかった鍵を開ける作業ということができる。正確な方法で行なえば小さな力でも変化を起こせる、ということの比喩だ。
逆にいえば間違った方法でいくらこじ開けようとしても、くたびれるばっかりで下手をすればこわしてしまう。
だから何でもかんでも当てずっぽうにやっていたんでは、ラチがあかないのである。
スポーツの是非という話から論点がずれてしまったが、まあ整体流の身体の読みというのは一種独特であるということを繰り返し強調しているのだ。
俗にいう「自然体」などという言葉が示すような、「筋骨隆々でたくましい」という価値観からは逸脱したもう一つの強靭さというものがある。
つまり「やわらかさ」というつよさ。
それは競技主義に偏り目先の勝ち負けなどに拘泥すると、あっという間にその姿をくらましてしまう。
本当はもっともっと自由に、楽しい方へ身体を動かせばただそれだけでいいのだ。
ルールも何もない広大な世界を全力で生きているとき、いのちは無制限に躍動する。
人間、ほんの一瞬でも目的を捨てて動くことができたなら、それは何より素晴らしいことではないか。