錯覚を起こそう

精神療法家 神田橋條治先生の『精神療法面接のコツ』を久しぶりに読み返した。わりと冒頭の方に明治生まれの奇術師 石田天海師のエピソードが書かれていて、そこを読むといつも自分の仕事の在り方を再点検させられる。

その概略はだいたい次の通りである。師によると「マジック」というのは「現象を見せる」のが本質なのだそうだ。これとは違って「やっていることを見せる」のはジャグラーであるという。ここでいう現象というのは観客の内側に起こるイリュージョンなのであって、このイリュージョンが起こるように誘うのがマジシャンの仕事であるという。

もう少し咀嚼すると、観る側が吃驚したり感嘆したりすることが「実」であり「成果」なのであって、そこさえクリアできれば過度な複雑性や技量は問わない、ということになる。具体的にはマギー司郎さんみたいなシンプルでやさしい芸を思い浮かべると判りやすいのではないだろうか。もちろん技量が要らないからといって“カンタン”という話ではない。どんな分野においてもそうであるように、シンプルな技を目の当たりにするときには同時に長い淘汰の歴史が窺い知れる。

一方で過剰な技巧はともすれば人を悪酔いさせやすい。それもどちらかといえば酔うのは技巧を施してもらう方ではなくて、施す側だったりする。これは楽器の演奏などにおいても見受けられるが、技巧に凝り過ぎたことで本来の曲調が失われてしまうパターンにも通じる。技は目的を達成するための一手段であり、また道具であることを忘れてしまってはいけないと思う。

何故こんな話かというと、整体にも「技」は付き物だからだ。整体の仕事の実態(目的)を突き詰めると対象者がほっとして安心することである。安心すると身体はゆるむ。ゆるみは自然の姿であり、後は「そのまま」いるだけで「時」が治すのだ。そのために高い技術が要るかといえばそうとは限らない。あるならあった方がいいけれど、なくても「ゆるむ」ことは充分あり得る。

と、ここまで書いてきて、整体の於ける「〈技〉とは何か」と思い返すに至った。

煎じ詰めると、こちらの中に起こった「動き」とか「ちから」を相手の裡に波及させることが整体の「技術」だと私は思う。つまりはクライエントの内側に起こるイリュージョンであり、このイリュージョンが起こるように誘うのが整体指導の要とも言える。蛇足になるがイリュージョンには「幻想」という訳の他に、「錯覚」や「思い違い」という意味も含まれる。

「錯覚」を甘くみてはいけない。心の中で「うっかりそう思った」ということは侮れないもので、それは当人にとっては「真実」なのだ。考えてみれば整体も心理療法も事の起こりは「催眠」から出発したものだし、心の転換こそが健康を指導する際の要とも言える。人間の身体上に起こる様々な変化の中には時に奇跡や魔法を想起させるほど劇的なものがあるが、心の仕組みを探求し、解き明かすことが出来れば必ずそこには「理」があり「仕組み」があることが判るはずだ。

この仕組みをどこまでも冷静な眼で、一つひとつの事実を洗いながら解析していくことは、人間を理解し導いていくためには大切なプロセスである。治癒に関わる世界にいると魔法のような現象にはしばしば出くわすが、魔法というのは無知と錯覚の産物である。思わず目を疑うような結果に幻惑されて事実を解析する冷静さを失ってしまっては、「魔法のような技術」にはいつまでたっても辿り着かないだろう。

地道な研鑚、実践と検証の繰り返しこそが、やがては再現性の高い確かな技を生み出す。そしてどの分野にでも見られるように、「王道」と言う時には、それは当人にとって必要な長い長い回り道を意味することが多い。

少し技術の習得論にそれたが、実際に相手の世界に良質の錯覚を起こせるようになれば、それは心身を好転させる手段としては強力な武器になる。そのためには相手には今「どんな世界が見えているか」が推察できる察知と共感の能力も不可欠と言える。最初に感じとり、共感し、相手と一体となってある種のビジョンを生み出すことができれば治療はほぼ成功したと言っても良い。そのための仕掛け(タネ)さえ解ってしまえ魔法はただの技術になり、驚くような現象も平凡な物理変化となる。

整体の名人野口先生の技も「魔法」や「奇跡」と称されたけれど、心の実体をよく理解されていた先生にとっては「当り前の現象」だったのかもしれない。もちろんそこに至るまでには裏舞台に隠された膨大な修業の積み重ねがあったことも思い浮かぶ。私もこれからさらにたくさんの回り道を歩みながら、錯覚を起こす技を育ててきたいと思う。