自分を取り戻す物語

手塚治虫の作品に『どろろ』という物語がある。

連載開始が1967年という古い(半世紀前の)作品だが、アニメにもなったし続編も含めて複数の漫画家の手によって何度もリメイクされ、実写での映画化もされている。だから、メジャーではないにせよ未だに知名度のある手塚作品の一つだと思う。

 

『どろろ』-あらすじ(冒頭)

室町時代の中ごろ、武士の醍醐景光は、ある寺のお堂で魔物に通じる48体の魔神像に天下取りを願い出て、その代償として魔神の要求する通り、間もなく生まれる自分の子を生贄として彼らに捧げることを誓う。その後誕生した赤ん坊は身体の48箇所を欠損した状態で生まれ、母親と引き離されて化け物としてそのまま川に流され、捨てられてしまう。医者・寿海に拾われた赤ん坊は彼の手により義手や義足を与えられた。14年後、成長した赤ん坊は百鬼丸と名乗り、不思議な声に導かれるままに自分の身体を取り戻す旅に出る。…(ウィキペディアより)

 

主人公の百鬼丸は実父によって身体をばらばらにされてしまう。魔物に奪われた状態で生まれてくるのだが、これを一つ一つ、自分の力で取り戻していく話だ。

 

私はある時期このストーリーに著しく惹かれた。

自分の身体を自分で取り戻す。

しかもその身体を奪ったのは肉親、父親なのだ。現代風にいえばこれは「毒親」かも知れない。

いわゆるSFだが、この構図を知った時はどうにも看過できなかった。

 

ところで整体指導という仕事は、錆び付いた身体感覚を覚醒させる(取り戻す)ものだ。

生命というのは本来全きもの。欠けたところはない。

それなのに多くの人が成人するまでにあらゆる部位を(比喩的に)「欠損」してしまう。

思うように動かない身体、感覚されない身体、

何故だろうか…

 

それは「躾・教育」という名のもとに本々の「その子らしさ」を曲げられたり、覆い隠されたりしてしまうからだ、と私は思う。

 

それも誰あろう、そのほとんどが養育者や保護者による愛情の手によって癖付けされた結果なのである。

さらに百鬼丸と同じように、はじめは何故自分がそういう境遇で生まれてきたのかを知らない。

それどころかその悲劇性に気づいてすらいないのだ。

 

ところが自分自身が主体性を持って「生き」はじめたときに、本人はいつしか言い知れない違和感を覚える。

それはどこかが決定的に「悪い」というはっきりした異常感ではなく、

何か変だ、妙だという、うす甘い、鈍い感覚として。

 

そして少しずつ勇気を出して自分のルーツを探り始めるようになる。

それにつれ障害(魔物)があわられ、今の自分の実力でぶつかり、傷つき血をながしながら、どうにかそれを突破(倒)して、自分の身体を一つ一つ取り戻していく。

 

そうやって一回限りの「人生」という物語を創っていく。

戦い傷つくたびに自分のルーツが明らかになっていく。

そして「事実」が浮かび上がる度に、悲痛な思いが全身を支配する。

この姿は整体やカウンセリングの臨床における「クライエントの成長過程」に似ていると、私の目には映ったのだ。

 

劇中の百鬼丸は当初、義手義足のみならず、目や耳、鼻、五臓六腑、あらゆるところが人工の代替品で生活している。

生活自体は出来ている訳で、

このままでいれば、このまま…、何とかやっていけなくもない。

しかし何もしなくても問題は向こうからもやっていくるのだ。

 

人はどうしても自分の宿業とぶつかりながら、自分を取り戻すための道を歩むはめになる。

みんな大なり小なりその身の内に、何かしらの悲劇を持ち合わせているものだ。

 

それなら、

身体を失うこと、自分自身を見失うことは、

不幸なことだろうか?

…と、改めて考えてみると、

今の私は一概に不幸だとは思わなくなった。

 

それどころか程度の差はあれ、人生の本質とはみなそんなものだと思うようにもなっている。

整体をやろうとやるまいと、人格の全体性に向かってじわっじわっと日々よじ登って行くのが「人間」なのかもしれないと、

今はそう思う。

 

そもそも人の生き方は「幸・不幸」という2つの原色に分けられるものではないし、

不幸の只中に幸福の種を芽吹かせる栄養が在り、幸せに満ちた時すでに不穏な気配に包まれていた、というような経験を持ち合わせている人はきっといる筈だ。

もしかしたら不幸をひっくり返して幸せに変えていく仕事こそが、人間に生まれた最大の醍醐味かもしれない。

それも「誰か」と伴に。

 

物語の中で百鬼丸は旅の途中では何度も失意に暮れ、行き詰る。

そこで、必ず「人」に出会う。

人は人に躓くが、その躓き傷ついた人を救うのも、やっぱり「人」なのだ。

 

漫画『どろろ』では、芋虫同然の体で生まれた百鬼丸に最初の義手義足を与えた医師・寿海がいるし、折に触れふらりと現れては助言を呈する琵琶法師など、主人公に対し無条件の味方となって手を差し伸べるキーパーソンが複数いる。

これと同じように整体指導者やカウンセラーは基本的にクライアントの味方である。

そして「どろろ」のような相棒でもあり、伴走者になる時もある。

また時には主人公を苦しめる「敵役」のような役割も担う。

なんであれ、一人の人間が十全に育つには、善とも悪ともつかない肉薄した位置で、相手に本気で関わり合おうとする「人間の力」が不可欠だ。

 

四国お遍路に「同行二人」という言葉が付いてまわるように、

「道を歩む」には、見守る人の存在が重要なのだ。

 

これを治療の現場に置き換えて考えてみると、

「治る」ということは、実は苦しい作業なのである。

私は勇気を出して治っていく道を歩む人に、励まされることが多い。

だから自分が「見守る人」なのかというと、とてもそういう一方的な立場に立つ感覚は持ち合わせていない。

 

私に限らず、みんな自分の物語の中で「失われた自分を取り戻す」旅をしている、と思っている。

この世界はそういう「人」の交わりで構成されている気がするのだ。

道に迷いそうになった時、

その傍らで本気で生きている人の放つ輝きが、自分の足元を照らず光りになる、ということがある。

ひと言でいえば、

「旅は道連れ、世は情け」

だとすればそういう意味で、この世はみんなお互い様のお陰様、ではないか。

 

話は戻って、

実はこの『どろろ』の原作は完結していない。

打ち切りのような形で終わったらしいのだが、

そんなところも私は好きだ。

 

百鬼丸が全ての身体を取り戻して「おしまい」なんて結末はありえない。

生きているとは、目的地のない躍動なのだ。

道の途上を全力で生きて、その途上で死ぬ。

不完全という形で完成された今を、精一杯生きるとき命は輝く。

 

何処にでも転がっている輝きではないけれど、

その可能性は全ての命の中に宿る。

私はその輝きを間近で見たいがために、

自分の命を光らせたいと、

今も道の途上でそう思っている。