戦艦大和を創った身体

先週は妻の法事に同伴して3日ほど広島・呉に行ってきた。期せずして小旅行になったのだが、呉といえば今も『この世界の片隅に』を思い浮かべる。それほど自分にとってはセンセーショナルだったし社会的にもまだその余熱を感じている。

アニメの情景をイメージしつつ現地に着くと北は山(急な斜面)、南は海という景観は確かに映画の一場面を彷彿とさせた。

初日は大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)に行くことになった。館内は膨大な情報量で一つ一つ丁寧に観て回ったら1~2時間では到底見きれないボリュームである。戦艦大和の建造から最後の戦いに至るまで、各周辺の情報と展示物が満載なのだ。

実際「大和」の名前こそ有名だが細部に関しては知らないことが多い。

大和 1941年に竣工、排水量6万4000トンを誇る、旧日本海軍の超弩級戦艦。当時では世界最大級の戦艦だった。沖縄に出撃途中、米軍の攻撃を受け撃沈。この情報は当時発表されなかった。(映画『この世界の片隅に』HPより)

例えば最大時速は50kmとあり、想像していたよりもはるかに鈍重に感じたものだ。加えて運用コストがものすごく掛かったらしい。合理性より情緒を重んじ、手段と目的が入れ替わりやすい日本人の特性が現れている点で、やはりこれは“象徴”だと思った。

ところで戦争関連の情報に触れると必ず頭をよぎるのは、幕末から昭和にかけての日本人の急変ぶりである。小泉八雲などは、これだけの歴史的激震に耐えながら国家の主体性を失わなかった例を他の国ではみないと論じている。ピーター・ドラッガーも日本民族は世界屈指の問題解決能力を有していると賛じているのだ。総じてこの国は歴史や伝統に固執する頑なさと、機をみては変じ適応していく二つの特性を併せ持っている。

例えばこの大和という戦艦が完成したのは1940年である。黒船来航が1853年だから、蒸気船の威容に幕府が震撼してから、薩長の新政府が立ちあがって国産の軍艦(世界最大)が建造されるまで100年と経っていない。

古来から他国の知識を吸収し、新たな価値を生み出し発信するというのが日本の特技である。かつて中国から伝わった刀剣が国宝級の美術品にまで高められたことなどもその好例だろう。「職人魂」というのか巧緻な模倣力を基礎に物事の本質を掘り下げ、潜在する可能性を発掘する力に長けているのだ。

模倣という視点を少し広げれば、往時は帝国主義・富国強兵という国家レベルでの模倣の対象が身近にあった。だからこそ世相全般が上昇傾向にあったのだと私は思う。「こうすればいい」という具体的な手本があることで回り道をせずに進化できるのだから、1年・3年・5年という僅かな歳月でもその姿はがらりと変わっていく。幕末から明治という時代、峻烈な社会情勢に付随して躍動の気配が定着しているのはそういう事情によるものと思う。さらにいえば戦後も米国など模倣の対象は身近にあり続けた。

ところが現代はどうかというと情勢はだいぶ異なっている。国の形、人間の姿、何を規矩としてどこに向かったらよいのか。はっきり「これ」だと答えられる人はいるだろうか。個人的な好みはあるだろうが、一体全体どこに向かっているのかという「全体性の流れ」そして「先行き」というのが一見して掴みづらい。

時に感性論哲学の芳村思風氏が「東洋の逆襲」という観点を打ち出してから久しい。中世から近現代まで続いた西洋から東洋という文化の流れが、東洋から西洋へと逆転し始めたという主張である。現実に西洋の一部の人が東洋から何かを学ぼうという姿勢を俄かに感じる。その何かを一言でいえばそれは「精神性」だと思うのだが、身心と一(いち)として見る整体の立場からみれば、それを「身体性」と言い変えたい。

東洋と西洋は精神も違うが、それ以前、土台としての身体が違う。近代日本は西洋の合理性を手にした時に、固有の身体性を喪失した。そう思うと今の日本が「やまと」から学べることは大いにあるだろう。失われた身体を復興するための、体育を中心とした教育の潜在需要を感じるのだ。

かつては農耕という文化的背景を基礎にした強靭な下半身と長い息が備わっていた。これを養うために、歩くことも正坐することも激減した現代でそれをいかに行なうかが課題である。活元運動はもちろん奨励するのだが、「坐る」という技術を行うには積極的にその効用を説く必要がある。「一坐の功をなす人も積みし無量の罪ほろぶ」という坐禅和讃の一節を、体感的に理解できるようにと整体指導の意を新たにする次第である。