柔軟心

道元禅師が真の仏法を求めて宋に渡った後、日本へ何を持ち帰りましたか?と問われた時に一言、「柔軟心(にゅうなんしん)」と応えられたそうである。禅師の示された柔軟心が「何」を指すかは言明できないが、一応のそれらしいイメージは沸くものだ。

性質は違えど整体でもやはりこの「柔軟心」を大切にしたい。

言い替えると「こだわりがない」ということでもあるし、「執らわれない」と言ってもいいだろう。できればもう一つ、その「こだわらない」とか「執らわれない」という動きすらないことが最良だ。「何もない」ということが根元的自由の源泉なのである。

その「何もない」を、時には「無」とか「空」とか表現されるが、これも「強いていえば・・」という話でとにかく何かしら表現されたらその途端に無も空も失われる。

とにかく目の前の現実に手を着けない、今の自分自身にも手を着けない。そうしてずっとやって行くと、そういう自他の見解から一辺「放れる」時節が必ず来る。そこからが人生の、本当のスタート地点だ。

そこで満足することなく、更にずんずんやっていって、「何もしない」ということを鍛えて行った先に、本来の自由性をそのまま戴ける人になっていけばいい。

 

人間は年をとれば誰でも固くなるもので、身心の柔らかさを保つには訓練が要るのだ。

そのために自律神経系、そして錐体外路系を的確に刺激する禅と活元運動は近道だ。体育のためにいろいろなスポーツをやることも結構なのだが、そういうことが余分な怪我を誘発したり、また心や体を余計にこわばらせることもあるから、どれも丁寧に観ていく必要がある。

柔らかさを保つためには勝ち負けや体の格好(ポーズ)の追求ではなく、先ず「柔らかさを保つ」ということを第一義的に考え行動していかなければならない。

そういうものが極めて少ないからこそ、改めて人間の生理機能に順じた体育の必要性を考えさせられる。何か特定の信仰や宗教観に浸らなければいけないということでもない。もっと自然で自由なものに気づけばそれでいい。

そのために難しい方法がいるわけでもない。頭を深く休めて、身体の自然の動きに任せるというそれだけだ。活元運動という名前を呈すこと自体もどかしいのだが、月を示すために指がいるように、形のないものを体認するためにまず言葉が要る。

あとは、本当にやってください、というそれだけだ。やってみて「間違いない」ということがわかった人はそれでもう柔らかい。自身の可能性を開くためにはこの柔軟さが不可欠だ。そのように感じる人だけでいいので、あとはただ、本当にやってくださいと言うしかない。そのように思う人たち同士で勧めていけばそれでいいという話でもある。