活元会 2017.10.5:ポカンとできない、ポカンってどういうこと?

今日は10月最初の活元会でした。

長編の教材を用意していたのに今回は使わずじまい。あら‥。

いや、話の流れで「ポカンとするってどういうこと?」というテーマでしゃべった気がします。あんまり覚えてないんだけど‥。

それで教材は使わないで、日本に曹洞宗の禅を根づかせた道元禅師による『普勧坐禅儀』(みんなにおすすめできる坐禅の仕方)から下の一節、

心意識の運転を停め、
(しんいしきのうんてんをやめ、)
念想観の測量を止めて、
(ねんそうかんのしきりょうをやめて、)

とういうところを使って野口整体でいう「ポカン」についてつらつらーっとしゃべっていったと思います。

つまり、

ここらで一回、こころの働きということを一切やめてみましょうよ、

思いというもので、ものごとを測るのもちょっとの間やめませんか、

という感じでいいと思うのです。

そうすると、何がどうなるんですか?っていうと、

まあ何も起こらなくなるんですね。

世の中にさまざまな悩みの種とか問題がありますけれども、問題を起こしているのは必ず自分です。

つまり、現場はいつも向こう側ではなくこちら側。

その自分というはたらきの中でもあえて限定すると、

「頭の中」

ですよね。

そこがピタッと収まるように、自分自身を持ってってやる。

もう少しくだいていうと、

頭のはたらきが止まる、という「身体の構え」があるわけです。

そういうものがさっきの道元さんに代表されるお坊さんたちの修業の核心部分だと、わたしはつねづね思うのです。

そのために「坐禅」もあるし、それ以前に朝から晩までお寺の掃除をしたり、お庭の草をむしったり、ご飯を作って食べて、お茶碗を洗って、という「作務(さむ)」があるわけです。

そうやって、身体内に余剰エネルギーを残さないように自分自身をくまなく使っていく。

また、そういうことを出家した坊さんだけの特権と考えないで、われわれだってやれるし、またやれないと「救い」っていうものがもう本当にみなさんの日常の生活から遠い存在になってしまう。

それじゃあだめでしょう?

この身体というもので誰もが修行ができて、自分で自分を修めていく、救っていく、というそういういき方でなければ本当の意味でみんなの役には立たないでしょう?

活元運動っていうものはそういう系統の、つまり東洋的な身体行のエッセンスといって差し支えないものです。

だから体力のあるひとないひと、若いひともいれば年寄りもいるし、男でも女でも同等に行なえる、病気があるとかないとか、そういうこととはまったく別次元の生理的な作用の部分で訓練をしているわけです。

そして個人個人にピッタリ適合した体運動がきちんと行われることで、身体の脱力がすすんでいって、これに応ずるように頭のはたらきというのが徐々に静まってくる。

つまり「ポカン」になっていく。

こういうプロセスというか、ちゃんとした生理学的な道理があるわけです。

最近は、考えるのをやめましょう、頭のデトックスをしましょう、スマホを長時間見つづけるのはやめましょう、

と、

そういうことを巷でもよくすすめていますが、

頭が休まるとか、心の平安とか、安心とか、ポカン、

こういうものはみんな、

考え方とか思考形態のバリエーションではなくて、

身体能力なんだ、れっきとした身体の技術、なんだ、

っていうことを、

なるだけ早い段階でおさえてもらいたいのです。

つまり頭だけの問題ではなくて、

首から下の状況っていのがものすごく大事。

「悟り」だってそうでしょう?

道理とか理屈のものだったなら、文字で読んだり、話で聞けばみんな済むことになってしまう。

道元禅師だって中国(宋)まで命懸けで教えを乞いに行く必要はなかったってことになっちゃう。

ところがやっぱり、こういうものは自分自身の心と体をフルに使って、自分自身に実証してやる必要があるんです。

「ああ、なるほどな」

「ポカンとするっていうのはこういう状態なんだ」

「からだがこうなるから頭が休まるんだな」

っていうことを、実体験して、それで自分自身のちからにしていかなくっちゃあいけない。

人にやってもらうようなものじゃあないんだよね。

そういう意味で、みんなで修業しやすい環境を作って、一人ひとりが自分に取り組んでいく。

そういうような感覚で「活元会」っていうものを利用していただければ有意義な「場」になると思うのです。

昔からそういう場所のことを、

「道場」

と、こう呼んでいたと思うのです。

まあちょっと穿った言い方をすれば、

本当はいま、みなさんの身体のあるところが道場、といってもいいわけですけれど。

「歩々是道場」

っていったりしますしね。

ともかく体をこまやかに整えていく。

そうやって自分自身を大事に使っていく習慣を身に付けるんです。

粗雑なのはだめ。

だからポカンっていう「頭のはたらき」だけにフォーカスしないで、

自分の手足、枝葉末節から、腰、要の部分ですね、

そういったところまで、

体のパーツ、パーツをこまごまと、上手に手入れしながら丁寧に使っていく。

そういうことの積み重ねで、ようやく「精神」のはたらきっていうのは少ーしずつ上質な方向へ変わってくるわけです。

むかしから「精神修養」っていいますけど、そういうことだと思うんですよね。

ま、体のことでも心のことでも、現代はあまりにインスタントな手法に流されやすい、

世相全般にそういう風潮があると思うので、整体っていうのはまず、「そういうものとはちょっと違うんだよ」っていう認識は必要かなと。

なにも厳しいわけではないし、むずかしい話でもないと思うんですけど、着眼っていうか目のつけどころがちがっちゃうと、やっぱりいくらやっても成果は上がってこない。

「まちがいのない」ようにやっていただくことだし、こちらもミスガイドにならないように気をつけながら、これからもやっていこうと思ってます。

次回は、10月14日(土)です。

不易流行:これからの野口整体

夕方関内の歯医者に行く途中こんなノボリを見つけて感慨深い思いをした。

極真カラテと加圧トレーニングか。時代のうつりかわりを感じる。

昔はこんなんだったのに‥。

しばらく見ない間にフィットネス嗜好に寄ってきていて新鮮だったが、ビジネスとして生き残るためを思えばものすごく納得。どんな仕事でも二代目は大変なものだと思われる。

それにしても身体論というのはその時代を反映するものだ。

というよりは一人ひとり、個々の身体が結集して一つの時代を構成するといったほうが正しいか。

だからある特定の地域で行なわれる身体行法とかボディワークなるものをつぶさに分析すれば、ニーズから逆算してその時代や地域に生きる人々の身体像まで見えてくるはずだ。

「野口整体」というのも大正時代からつづく身体性や生命観の変遷の波にさらされ、それを乗り越え乗り越えしながら今日まで生きてきた。

往時にあっては虫垂炎とかチフスの患者もみていたというし、空襲で焼け出されたひとの火傷を手当てすることもあったそうである。

今となっては昔日の光景を簡単にはイメージできないが、事実そういう歴史があって現在に至ったのだ。

そんな歴史の中で野口先生の偉業の一つは霊動法を活元運動に改名したことだと思っている。

いや些細なことかもしれないが、何ごとも時代性に適合することは死活問題になる。

もちろん臨機応変を是としつつも、本質まで変節してはいけないが。

どんなものでも時代時代に必要とされる価値観を備えていなければ、本質がどれだけ優れていようが表社会からは淘汰されてしまう。

大正時代にはいわゆるオカルトブーム、いま風にいえばスピリチュアルブームがあったために霊とか魂といった言葉が現代よりもずっと生活のなかに浸透していたようである。

そこからくだって昭和、戦前・戦中・戦後と人間の主体が感性から思考へとシフトし、科学的な知見の比重が増すにつれてオカルトの権威と存在価値はうすれていった。

そこで「霊が動いて、魂を浄化する」といった宗教色の濃い観念論を脱し、「錐体外路系の訓練」という科学的見地をそこに付与したことで、淘汰の対象から逆に時代を牽引する立場を確立していったのである。

「いわゆる天才」の所業。全体を直観し先を見通す力は出色のものである。

ただし牽引といっても先を走り過ぎて、いまだに事勢は追いついていないのだが。

つまるところ野口整体が何を謳っているかといえば、自身の感覚に問う生活を勧めているのだ。そして、そのことを通じて「いのちを大事にしていく」という態度を、自分の一挙手一投足に現していく。

古今東西これ程わかりやすく説かれた生き方の道があっただろうか。

人間が太古のむかしからずっと営んできた生活をそのまま是とし、それを現代社会に矛盾なく体現していくのが「整体」である。

そもそもが健康、生きる死ぬといった不易の問題に対し、時代性とか価値観、宗教観なんていう極めて流動的なものさしで取り合っていくから話がややこしくなるのだ。

これじゃあ余分な軋轢だって増える一方である。

ところがそういう「人間の考え方」とか、「はからい」をずっと飛び越えたところで、万世を貫いて変わらないものがある。

「自然」

とはそういうものであろう。

だが現代風に「自然がいいよね」というとき、だいたいそれは「人間のつくった」自然である。

本来「自然と親しむ」というのは、森林浴とか海水浴とかそういう人為的なものの中にはありえない。

もっと、うんと身近なところに自然はある。

身近すぎるからこそ「出会えない」。

その身近な自然を体得するために、人間には着眼を正すための修業・鍛錬がいる。

しかしながら他人が作った、型にはまった鍛錬は形骸である。

一人ひとりが自己の感覚に問う、真摯な態度を前にしたときに自然はその姿を「美」として現す。

簡単なことなにだが、これを体現する人は少ないのも事実である。

それだけに、噛んで含んで誰もが呑み込める形へと再編をくり返しながら、細やかに需要に応えつづけるのも供給する側の務めだと思っている。

昔から自然を体得した人の中には、融通無碍とか自由自在とか、いっさいのとらわれから放れきっている生を自得した人は少なからずいるのである。

ところがそういうことに対して、現代ではすぐに「そういう昔の人たちはちょっと別だ」という向きもあるから、まずこれがいけない。

可能性はいつだって等しくある。

今も昔も人間は同じ人間ではないか。

その可能性を開く鍵はいつだって生と死の間にあって、

それは、

今日のいのちを静かに見つめることなのである。

元来、養生とは斯くの如し、だ。

しかしその見つめ方、その説き方、そういうものを新たに開拓していく独創性も体が乱れていれば生じない。

整体を説き、勧めるのはただ一点、いのちの最善の状態を保つことで全力を発揮し、今を生き切るためである。

体を整え身を修むる方法は、その核心を一にし、また万人に適するように応変できるものでなければならない。

技術の正否を相手の感覚に問うのも当然である。

愉気、活元運動、整体操法はいずれもその要項を充たす手段であることは言うまでもない。

これから人間が何世代つづいていっても、失われない価値がそこにある。

活元運動を深めていく:継続はちから

昨夜は子どもの寝かしつけが終わろうかというときに、久しぶりに自然の活元運動が出た。

からだの偏りが一定に達して、さらにからだの緊張・疲労度合と精神のゆるみバランスがちょうど釣り合ったときに、たまにではあるけど自然に活元運動が出ることがある。

まっ暗にしめ切った部屋でじーっと子どもに愉気をしていたので、それがたまたま呼び水になったのかもしれない。経験的に自分はあまり明るい部屋でない方が活元運動は出やすい気がする。

活元会は月に4回ばかり行っているが、こうした会で行なう活元運動はいわば予行練習みたいなものである。

野口整体の文献によれば、食べたものが傷んでいた場合に突如活元運動が出て全部吐いてしまった、とかスキーで足の骨を折った人がその場で活元運動が出て、その後、自力で滑って降りてきたという話が残っている。

活元運動はこんな風に、実際の生活上で必要性が高まったときに自然と行われるのが本来の姿である。

そうはいっても活元会に参加したときだけ行う方も多いだろうし、それでも効果は充分ある。それでもやっぱり実人生とリンクした形で行なわれるのが理想なのだろう。

いってみれば活元会で学ぶのは剣道でいうところの竹刀稽古みたいに思ったらいい。

もともとは真剣勝負のための訓練として行われていたものだから、竹刀の練習だけで完結するものではないはずだ。

訓練だけで済むならもちろんそういう生活の方が穏便で良いのかもしれないけれど、実際には生きていればいろいろな問題に直面するのでこの活元運動をしっかり修めておけばかなり心強い。

そして、なにより「継続」が鍵だ。

むかしから石の上にも三年というが、何ごとも半年、一年でやめてしまうのではその真髄を味わえないのではないか。

ときおりボディワーク・ジプシーのような方が活元会にふらっと参加されることもあるが、こういうものはなんでも「幅よりも深さ」だと思う。

気功・ヨガ、アーユルヴェーダ、野口体操・etc、ともろもろやってみても、悲しいかなどれも自分の解釈の深さでしか味わえない。

もちろん指導者の力量も大きく関与するが、「これは」と思ったものに出会ったのなら、一度は尻を落ち着けてじっくり取り組んでみることではじめて身体はその方向に発達する。

そうやって、継続は深さを生む。

情報過多な現代性にも罪業はあるのだが、そんな時代にあってこそ、あれやこれや何かと心が散らばりやすい現代人にこそ活元運動は役に立つ。

余談だが『荘子』には坐馳(ざち)という言葉が出てくる。

からだは坐っていながらこころが駆けずり回っている様を表現している言葉で、どんなにすばらしい行法を学んでいてもこれでは修養にならない。

からだの深部から起こるリラックスは質の高い精神の統一を生み出す。

そうしたこともあって、縁のあった方には活元運動の可能性を自分の心身で開拓していただきたいと思っている。もちろん丁寧な指導は必定である。

今月の活元会の日程はこちら

丈夫に育てるには自分の力で(病気を)経過させる:整体は自分がやるものである

病気させないのがいいのではなくて、病気をしても、それを子供自身の力で経過させるということが正当な育児法です。病気になっても、それを自分の力で経過し、全うするのでなければ意味がない。それを、治さなくては治らないのだと決めている。怪我をしたところで、その人の自然に繋がる体の働きがあって、その働きで繋がるのでなくては治らないのです。傷口を縫っても貼っても、それは早く繋がるように仕向けることであり、それで早く治るかどうかも判らないのです。けれども縫ったり貼ったりしただけでは治ったのではないのです。自分の体の力で治った時に、治ったと言えるのです。

麻疹がうつるといっても、その体がうつる時期でなければ、一緒にいてもうつらない。そして麻疹を予防しようとすると肺炎をつくってしまう。今年も肺炎になりかけた麻疹が随分ありました。予防注射でも、その体に適った時期にきちんとすればいい。しかし体が自然と発疹するのは、ちゃんと体が時期を選んでいるのです。だから一緒にしておいてもうつらないのに、幼稚園に一日行っただけでうつって来たというようなことがざらにあります。だから体に任せて経過を乱さないで通れば、あとは丈夫になるのです。(野口晴哉著『健康生活の原理』全生社 pp.39-40 太字は引用者)

整体指導を行うということは、病気を治すとか、病気を予防するとかそういうことは本来の目的ではない。

自分の体の力で経過させて、その力を自覚させることが根本理念である。

先日の予防接種の記事の流れで、つらつら書いてきているのだが本当に今の子供は肉体的にも精神的にも薬漬けだ。

大人の薬物中毒の問題もにぎやかだが、こちらは表面化しているのだからいわば陽性の問題である。つまりその罪は重いが根は浅い。

これに対して子供たちの薬まみれは陰性化している分、根は深いのだ。予防接種は表の顔としては良いこと、善いこと、として推進されてきたものだがこの世の中に100%良いことなどありはしない。

守り、庇えば、そのときはいいかも知れないが、相手の立ち直る力を奪いとることにもなりかねない。

さらには「副作用」に関する情報はほとんど表面化していない。つまり良いことばかりに目がいって、それ以外の反応には目を光らせない。もしくは目をつぶる。だから見えないのだ。

科学の目というのは本来、客観性や平等性が必須なのだが「人間」が行なう以上は真の客観性が発揮されるということは大変に困難なのである。

大抵は個人の利害や嗜好が大いに反映されて、見たい結果だけが見えることは決して珍しくない。

もう少し咀嚼していえば、副作用らしき反応が見えてもそれを認めまいと思えば「エビデンスがない」と言い放っていくらでも潰せるのだ。

余程の公平性をそなえた人間でないかぎり、真実の追求よりも個人的利害の方が先立つのがこの世の常、人情というものである。

個人的には予防接種を打った子どもをみると、妙におとなしいと感ずる。病気にさえならなければ平和だと考えるのだから、養殖人間みたいなものが増えるのではないだろうか。

こういう態度こそ見たいように見るわたしの「主観」なのだが、これは整体特有の人間観ともいえる。科学的医療の検査と整体的観察の違いを突き詰めれば、人間をできる限り数値化して測るか、感性で捉えるかの違いなのである。

これはなにも医療を全面的に批判する話ではなく、実際に平均寿命は延びているのだから一般医療の努力とその功績は当然認められてしかるものである。

ところがわたしはその医療の仕事に従事されている方々から、その限界性についてお話を伺うことが少なくない。医療のプロの方が西洋医療のゆく先にはもう答えはないとおっしゃる。

その反面、野口整体という世界に可能性を感じておられる方もいらっしゃるということだ。

この構図を整理して表現すると、「人間を知る」というプロセスを定量化から定性化へとシフトようというのである。

西洋医療が数値化の精度を高める客観性を第一として進化してきたのに対して、整体流に感性の質を高めた上での主観性を見なおして、相補的に「生きた人間」を捉えていこうという分岐に立っているのが現代である。

その第一歩が病気の自然経過を体験し、自分の真の体力に気づくことだとわたしは思う。

これによって今まで無自覚に封殺されていた「自分の生命感覚」を目覚めさせるのだ。体が整う、整っていくというのはいつでも「自分の感じ」というものが出発点である。

現代日本人の多くは子供の頃からそうした自然経過の機会を奪われているのだから、こうした生命の感覚を取り戻すのは実は大変な作業なのである。

そのために意識を静めて、雑音を排除し、徹底して自身の身体になりきる時間が欲しい。

整体指導というのはそういう自分の生命に対する最大級の礼を具現化したものと思ったらいいだろう。

そうした心身の「沈黙の時」がいのちを養うのである。

病症の自然経過というのは野口整体の看板文句の一つともなっているが、ただぼやーっと放っておくことではない。

もう一つ積極的に静けさを養うという、真摯な態度があってはじめて可能なのだ。自分の健康は自分で保つ、丈夫になる、ということは「やってもらう」ことではない。

自分で取り組んでいる人がどうしてもわからないところ、手の届かないところを指導者が手伝うというのが本来の形である。

健康というのはまぎれもなく自身の心の生活の積み重ねなのだ。整体というのは自分がやるもの。指導者の力を活かすのも自分、活かしきれなければそれも自分の裁量なのである。

病気が身体を丈夫にし、大人の身体を育てていく

体に起こるいろいろな変動も、いろいろなコースを経て抵抗力がでてきます。熱が出たり、汗が出たり、その他いろいろなコースを通って経過する。それを中断したらどうなるか。人間が病気になるという意味が解らないで、なるべく罹らないようにしようとしていますが、小さな児から大きくなるのには、いろいろな黴菌や、何かに対する抵抗力をつけて、何処ででも働ける大人になっていかなければならない。だから、病気にさえしなければいいんだといったような育児法は、温室の中に囲っておくのと同じで、子供の将来を弱くするのです。病気を途中で中断してしまえば、子供が将来、途中でバタッと倒れるような、あるいは力を発揮出来るものも出来ないような、そういう体に育ててしまうのです。(野口晴哉著『健康生活の原理』全生社 pp.38-39 太字は引用者)

整体の基礎、基本の話である。そして基本は極意である。

まずここがわからなければ、という所であると同時にここさえわかれば完成なのだ。

実際問題、野口整体の本を読んでくる人は多いが病気に対する理解とか、死生観まで共感してくる人は意外と少ないことが最近やっとわかってきた。こちらもうかつだったものだ。

予防接種のことを書いた記事のフィードバックからもわかったが、やっぱり病気を漠然と怖がっている段階から脱していないのだ。

いや病気は怖い。

それは間違いではないのだが。

処置を誤ればいのちを落とす、そういう危険性はまちがいなくある。

だから、野口先生はこれを「火」に例えたわけだ。

火は非常に怖い。

扱いを間違えば人命もうばうし、家屋でも山でもみんな燃やして灰にしてしまう。

ところがその火の性質がよく理解できてくると、寒い時には暖を取って、またいろいろなものを煮炊きすることで地球上に食材を開拓してきた。

いま世界中に人間がいるのは、そういう進化の途中で火を使えるようになったことが非常に大きい。

それは火を大きくしたり小さくしたりするための知識や技術を修めているからである。

その結果、

人間だけが火を「使える」。

病気も同じである。

「これってどういうものなの?」っていうことをまず考えなければ、といっている。性質がよくわかれば「使える」、有効利用できる可能性が生まれるのだから。

ところが世間全般に「病気をどうやったて治すか?」という角度からしかアタマを使っていない。

つまり、

スタート地点がもうずれているわけだ。

病気は悪、っていう価値観が最初にあって、その上で「さあどうしようか」と踊ってるのである。

これは人類が「火は熱い、怖い、」というところでずーっと止まっているのと一緒です。

それで、こうやったら消えます、いや、こうすればもっと楽に消せます。そもそもこうすれば出火しません(予防医学)。ってことをもうずーっとやってるのである。

整体はまず、

「そうじゃあない」

と言っている。

病気っていうのは身体がマトモに還るためのプロセスである。

とまず最初に直感した。

だからその性質をよーく理解して、上手ーく使えば身体を丈夫にすることができる、って言い始めたのである。

そういう革命的見方が最初にバキッと入らないことには始まらない世界なのだ。きれいなコペルニクス的転回である。

「何いってるんだ?」と思う人は整体やらないでいいわけで、

縁の無い人なのだ。

「常識を疑え」というのもトレンド化してるが、今さら常識がどうとかじゃなくって、もっと自分の全身を使って「考える」習慣を持とうという話でもある。

いま私はどうなってるのか?を自分で感じて判断する、「主観」が重要な世界なのだ。

病気っていうのは基本苦しいものだが、経過していく過程に快感もある。治っていく、丈夫になっていくという、秩序に向かって行く快感がある。

そういうところにピッとアンテナが反応して、そうだ!と思う人をわたしはマトモだと思う。非常に少数派ではあるが。

そして真実に気づいた少数派はたいてい苦労する。

昔からそういうものなのだ。

でも知った以上は、嘘はわかってしまう。

そういうことで、整体という生き方をしようと思ったらもっと徹底的に勉強しなきゃあならない。自分の身体、日々の些細な変化、そういうものが逐一わかるようになるまで身体感覚を研いでいかなければ、あぶなくて「自然」なんて生き方はとてもできないのである。

自分の身体で勉強するしかない。

ちょっと古めの言葉を転用すると、「自存自衛」のための身体学である。

それには「覚悟」みたいなものがいるのだ。

わたしはそういうところが「禅門」に似てると思っている。

禅で悟りたいんです、救われたいんです、といってさらっと門をくぐって入ろうとしたら大抵は和尚さんにぶっ叩かれるのだ。

わたしは誰が何と言おうと、自分で自分のいのちを見極める。

そうい気概がやっぱり必要である。

そうすると、整体はものすごく楽しい。

自分が世界の価値観を握るわけだから。

病気もおのずと消えるし、不幸も消えていく。

そういう自由性をだれもが握っているんだが、開花させるかどうかは本人次第なのだ。

まずは「理解」から。それも直感がないとはじまらないんだが。

人が整体を選ぶのか、整体が人を選ぶのか。

わからないけれども、まずは「そういう生き方をしよう」と思うことが第一関門である。

直感と理解だ。

それが縁を生む、そう考えると整体をやるには素質や資質も重要だ。

野口整体と予防接種:子供を丈夫に育てる知恵と覚悟

太郎丸がもうすぐ3歳だ。そんなわけで存在すら知らなかったのだが3歳児健診の案内状が来た。

たしか1歳児検診?かなんかの時だったと思うが、現地に行くとあっちからもこっちからも子供の悲痛な叫び声が聞こえて、「こりゃあなんのための集まりだ‥?」と妙に疲れて帰ってきたことを覚えている。

「身長を測ります」とかいって子供のかかとをギューギュー引っ張ったりするのがちょっと見るに堪えなかった。医は仁術じゃなかったのか。このくらいの時期なら大きいか小さいかくらい抱っこすればわかるじゃあないか。

人間はモノではない。そういう当たり前のところをスルーして、ものも言えない子どもを捕まえて、呼吸もタイミングもなくガサガサやらるのは残酷である。健康診断で親子ともに精神衛生を乱されるというアイロニー。

加えてうちは予防接種を打っていないので、そこをかならず突っ込まれる。

整体の仕事をしていると年に1、2回くらいは「子供に予防接種を打っていいんでしょうか?」といったたぐいの質問をいただく。大事な子供のためなのだ。いくらでも情報は収集して、自分で考えて決断すべきである。

参考までに一つ書いておくと、水野肇著『誰も書かなかった日本医師会』か『誰も書かなかった厚生省』という本のどちらかにBCG(結核の予防を目的としたワクチン)についての記述があったと思う。

これによるとBCGの普及率の増加と結核の罹患率の減少については数字上はなんの関連性もない、という調査結果が表されている。わかりやすくいうと「BCGを打ったら結核にかからない」という数値上の証拠は取れていないのである。

全く「無関係」ではないかもしれないが、だからといって何がなんだかわからないものを盲信して体内に注入するという神経がわからない。

まるっきり効果がないならまだいいが、何かしら作用はしているんだろう?人間の身体というのは研究して解っているのはほんの一部、99%はブラックボックスなのだ。それでなくてもワクチン関連の被害報告は枚挙にいとまがない。

そうかといって「野口整体」をちょっとかじったくらいでいきなり薬も飲みません、病院の検査は一切受けません、という盲信から盲信への枝渡りも困ったものである。

整体という生き方はなにも「西洋医療と対立する」という位置で固定されたものではない。「自分のカラダで感じ、自分のアタマで考えて行動し、その結果に自分自身が全責任を負う」という自立の態度なのだ。そもそも自立とか自由というのはそういうものだろう。

自分の健康は自分で保つ。

こう聞くと耳触りの良さも手伝って「アライイワネエ」といわれるが、わるいけど整体はそんな甘っちょろいものではない。

つまり他人の弁(客観)に頼らずに主観を軸に生きていくわけだから、その主観が狂ったら全てご破算なのである。

整体生活を志すならそういう基本的な思想理解からはじまって、身体がまあまあでき上がってくるのに3~5年くらいはかかると思って欲しい。取って付けたように整体やったって整体にはならない。生兵法はケガのもとで、いのちが掛かっていることを忘れてはならない。

くり返すが「自分の考えで行動して、その結果に全責任を負う」。自然界ならあたり前のことなんだが、人間の場合はこの大事なことを他人に丸投げしたまま生きている人が大勢いる。

いわゆる指示待ち人間、責任転嫁型の人間を脱却しないかぎり、自立した健康も、自由も独立もないのである。

弱ければ、強くなるより他ない。

どんなことに出会っても息を乱さず生活できるようになるまで、人知れず静かに鍛えることである。そういう覚悟がないなら最初から整体なんぞやらないでいい。

論点が予防接種からずれてしまったが、医術というものはたとえその行為がどんな些細なことに見えても、自分の、あるいは肉親のいのちに関わる一大事であることを忘れないでもらいたい。

世相全般にもっと真剣になってもらいたい。もっともっと、生きること死ぬことを深く悩んでもらいたい、というのが正直な思いなのだ。

活元運動の反応期に気をつけること

活元運動でも整体指導でもやっていればやがては反応が出る。

下痢をしやすくなったとか、38度以上の熱をよく出すようになったとか、そういうものがよくある反応である。くわしくは昨日の記事で書いた。

活元運動の反応とは

「好転」反応といはいっても経過中は苦しいこともあるので注意はいる。

身体の変動期というのは良くも悪くも刺激を受けやすくなっている無防備な状態なのだ。

まず弛緩反応期というのは、とにかく弛めるということに尽きる。環境がゆるすならよく眠って、ごろごろしていると経過がよい。

ところが過敏反応期に入ったら、あちこちに痛みが出ても熱が出ても、動きたければ動くようにする。意外と動けるのがこの時期である。

そして排泄反応期になったら、反応の出かたに応じて熱刺戟を使うのもいい。

たとえば風邪を引いたのなら、のどの痛みや頻尿など呼吸器・泌尿器系統の風邪の場合は踝(踝)から下を熱めのお湯につける(足湯)。

これとはちがって下痢や腹痛のような消化器系統の場合は膝から下を同様に熱めの湯につける(脚湯)。

時間はいずれも5~6分程度。両足を見比べて、赤くなりにくい方があったらそちらの足だけプラス1~2分つける。

熱が出た場合は、後頭部を蒸しタオルで40分ほど繰り返し温めると、もう一つ熱が上がって経過を助けることになる。後頭部は体温調整の急所である。

まあ反応期は全般に冷やさないことが大事だ。

そして反応の全工程が終わったかというときに、だめ押しにもう一度安静にする。

病気の予後と一緒でいきなり活発に動き出すのは良くない。身体の要求にしたがって動けば問題ないのだが、その辺りが曖昧な人は多いので、一応のガイドは必要である。

何にせよ好転反応をひと通り経過すると改めて身体は丈夫になる。この辺がようやく整体の入り口だ。

一応の整体入門を果たしたと言ってよいと思う。

活元運動の好転反応とは

前回の活元会で、活元運動の反応についてご質問があったのでこちらでもお応えいたします。

活元運動は身体のバランスをとる機能を活性化して、自分の力で健康を保てる人を育てるために行います。その結果として、もともとの体力が活発になるので早く病気になり、早く病気を経過する身体になっていきます。

そのために、活元運動をはじめた人は身体が敏感になり、元気になってきたという証明として「反応」があらわれます。

反応はさまざまですが、おおよそ次の三つの段階を踏んで経過していきます。

1.弛緩反応 最初におこる反応は眠くなったり、だるかったりという弛緩反応(第一反応期)です。どーっと疲れた感じがしながらも快い、といった気分になります。この期間は食事をしてもおいしく、またいくらでも眠れます。非常に気持ちいい感覚で過ごせるのがこの弛緩期です。

この弛緩反応の経過のコツは眠ければ眠る、だるければ横になるなどしてとにかく心身をゆるめることです。また身体が無防備になっていますから冷たい風に当てたりして、ふいに身体を冷やすことのないないように気をつけましょう。

2.過敏反応 皮膚の下層に水が通るような、涼しい感じがします。人によっては強い寒気も感じることもあります。これが次の過敏反応(第二反応期)のはじまりです。最初の弛緩反応期が非常に気持ちよかったのに対して、過敏とあるように熱が出たり、古い打撲のあとが痛んだりすることもあります。あるいは、目が腫れた、歯が腫れて痛んだ、など急性病にも似た反応が出る人もいます。次の反応である「排泄」に備えて身体がたかぶっている時期と思ったらいいでしょう。

3.排泄反応 上の二つの反応期を経過すると排泄反応という第三反応期に入ります。体内の老廃物や毒素などが排泄される時期です。ここまでくると反応の経過はもう一息です。湿疹がでたり、うす皮がむけたりなど、皮膚にいろいろな変動が出る人もいます。また下痢などの大小便が大量に出たり、目ヤニや鼻水がたくさん出るなど、いろいろなものが身体の外へ排泄されます。あとは女性の場合、生理の時に血の塊が出たという話を何度か聞いたことがあります。

この活元運動の反応については『整体入門』に面白い記述がありますので、引用しておきます。

反応の経過で注意すべきこと

反応中は肌着は汚れるし、爪は伸びやすくなるし、ふけは多くなるし、傍へ行くと臭い。中には体内で石をつくっている人などはその溜めている石を、胆石でも、腎臓結石でも、膀胱結石でも、どんどん出してしまう。ただこのような反応期に石が出る場合には、固まりにならないで、臭い尿になることが多いが、ときどき気忙しい人がいて、胆石でも、あるいは膀胱の石まで、固まりのまま出すことがある。膀胱から大豆大の石が出たという人も、胆石で三十六個も出たという人もいました。またバケツに三杯ぐらい下痢をしたとか、鼻水が洗面器に一杯出たとかいろいろありますが、ともかく排泄反応まで来れば、もうよくなると安心できるのです。(野口晴哉著『整体入門』ちくま文庫 pp.65-66)

というように、にわかに信じがたい症例もありますが当院に通われている人の中でも一時的にだるくなる、それから風邪を引きやすくなる(38度以上の熱が出る)、という反応はよく見られます。わたしの経験では、活元運動(野口整体)をはじめて3年くらい経ったときに黄色い水の便がいきおいよく出たことがあります。そのときは本当に黄色のインクみたいな液体だったのですが、それと同時に顔がしゅーっと縮んで顔面の巾が半分くらいになったような感覚におそわれました。もちろん本当にそんなふうにはなっていませんが‥。

ですから活元運動を病気を治す、というような目的でやられるとびっくりされるかもしれません。身体を丈夫にするというのは病気をさせないことではないのです。病気を利用して積極的に身体を整えていくことができるように、潜在体力をゆすぶり起こすことが本来の目的です。

さて、反応についてだいぶ注意点をあげましたが、ここまで説明すると「反応が出ない人」からも疑問を呈されることがあります。「わたしは反応がでないのですが、活元運動がちゃんと出ていないのでしょうか?」ということです。実際は先の3つの反応がすべて出るかというと身体がそこまで極端に鈍っていなければ、知らない間に経過していくという例もよくあります。なんとなく眠かったり、少し熱っぽいという様な程度で気づかないうちに済んでしまうこともめずらしくありません。

活元運動は人それぞれ千差万別ですから、ともかく反応が出ている人は心身の変化のときですからは無理はよくありません。落ち着いて休養を取るように心がけしましょう。

今月の活元会のお知らせ

10月活元会のお知らせ

10月の活元会を下記の日程で行います。

■日程

10/5  (木)10:00-12:30

10/14(土)10:00-12:30

10/19(木)10:00-12:30

10/28(土)10:00-12:30

※12:30-13:00頃まで茶話会

■内容

野口整体の資料をつかった座学と活元運動の実習
終了後お茶の時間があります(13:00くらいまで 自由参加です)

■参加費

2,000円

■その他のご案内

服装は白系の落ち着いたものが適しています(色柄も可です)。サイズはお腹を締め付けないゆったりとしたものをご用意ください。途中参加・退出を希望される方は事前にお申し出ください。

ご参加を希望される方は前々日までにお電話・メールフォームにてお申し込みください。

活元運動のからだ

活元運動をやっている人は一種の雰囲気がある、独特の身体になる。と教室ではよくいっているのだが、具体的になにがどう違うのだろうか。

ひとことで言えば「弾力」ということになるが、これはスポーツでいうところの身体の「バネ」とはちょっとちがう。

またゴリゴリの健康体というのともちがうし、押せばはね返ってくるような「活きの良さ」とでもいったらいいだろうか。まあ赤ちゃんのからだである。

ボディーワークつながりでヨガをやっている方もよくお見えになるが、おなじ東洋系でも理想とする形はちがうようだ。

ヨガの人はもっと静謐というか、弾力というよりは押されたら押されっぱなしのヒモのような印象を受ける。物静かな人が多いのもそのためではないか。

たまにテレビで野生動物ドキュメンタリーなんかをみると、整体とは斯くの如しと思うものだ。

普段は凡庸としているようだがいざ駆けだすと、一気にトップスピードがでる。肉離れなんかまずないだろうな。弾力のなせるわざである。

弾力以外に表現するとすれば気品とか気高さだろうか。

生命の尊厳というか、そういうものがその人の一挙手一投足からにじみ出るようになったら、ようやく「整体」というのが身についてきたレベルだ、と思う。

自分でハードルを上げている気がするが、体が整っているかどうかの基準として気高さはポイントである。

ときどき通っている人が妙に品がわるくなって来られることがあるが、大抵はそれより数週まえに情動をおこして身体を偏らせている。

整体指導はあくなき美の追求といってもいいだろう。人間、美しさがあるうちは大丈夫だ。