活元会 2017.9.21:野口整体とは生命に対しての礼

今日の活元会でした。教材のテーマは「生命に対しての礼」。

「野口整体とは何か?」と問われたときに、まず思い浮かべるのは「いのちを大事にすること」ということです。

それは自分の生命も大事にするし、他人の生命も大切に、大事にしていく。

そういう考え方を身をもって学んでいく姿勢を「野口整体」だと、こういうふうに呼んでみるとしっくりいく感じがするのです。

そのために活元運動を学び、愉気法を学び、整体操法を修めていく。

そういうような心づもりでつづけていくと、2年、3年と経ったときに、きっと身体のほうがそうした気持ちに応えて変わってきてくれると思います。

ところで今日の教材であつかいましたが、この活元運動というのはもともと秘伝であったのです。

諸般の事情で不特定多数への公開をはばかるという面もあったと思うのですが、それ以上に各々が「やる気」になってやっていただかないと、遊びとも健身法ともつかない変な集まりになってしまうかも知れません。

今のように、あちらでもこちらでも手軽に体験できるようになると「有難味」というのがうすれますが、往時は高額の講習料を納めてはじめて習うことができる貴重なものであったそうです。

これに因んで、むかし親鸞というお坊さんが「南無阿弥陀仏といえば救われます」といって村の人たちに説いてまわったという有名な話があります。

このような現代の人がなかなか信じないようなことでも、当時本気でその「念仏」に取り組んだ人たちの中には、それで救われた人がだいぶいたと思うのです。

「信仰」というものには概してそうした要素があって、なにか軽いアソビ程度のものだと思って半信半疑でやっていたら、何ごともたいした恩恵には預かれません。

「これは間違いない」、「本気でやろう」と思って心を一つにしてやっていくと、何ごとも目覚ましい成果が上がるものです。

これは教える方、指導者の力量も深くかかわってくる問題なので、一概に学ぶ人にばかり責任を負わせるわけにはいかないのですけどね。

しかし、うちのような日の浅い指導室でも数年つづけた人たちをみると、やはりどこか普通の人とは雰囲気がちがってくるから活元運動は素晴らしいと思います。

すこし見なれてくると「整体の人」というのは、すぐに見分けがつくようになります。

効果のほどは実際に体験してみないことにはわかりませんけれども、何にせよ自分で心血を注いて育てた身体というのは財産でしょう。

だれかに盗られたり、落っことしてなくすようなこともないですし、ぜひそういう「体育」というのを楽しみながらつづけていかれたら、それはそれで実りのある時間になると思います。

歳月を重ねてだんだんと心身が成長して行く姿をみるのは嬉しいですし、楽しいです。整体は一生ものです。

背骨感覚を鈍らせるもの

前回背骨の感覚を磨くことの重要性を説いたが、逆に言えばその感覚を鈍らせる行為を知っておくことも必要だろう。

すぐに思い浮かぶのは過度な食事(栄養過多)と過度なスポーツトレーニングである。

どちらも人間の生活にとって身近なものであるだけに、現代は鈍った身体が蔓延しているのだ。

この記事では後者について考えるが、最近改めて気が付いたのはやはりスポーツトレーニングによって育つ身体の隠れた弊害である。実際はスポーツといってもいろいろあるし、取り組み方もアマチュアからプロ、その中でも一流、超一流といわれるようなレベルのものまで考えると十把一絡げには語れないというのも事実なのだが。

しかしその多くは、成否の基準が記録(数字)や他者との相対的な成績に合わされているために、身体感覚を無視した破壊的なトレーニングが横行している。

もう少しやさしくいえば、スポーツというのは「記録のためなら少々の怪我はやむなし」という思想を、競技者と指導者、そして観客までが暗黙の了解を持っているという印象を受ける。時にそれが「名誉の負傷」などといわれ美談として賞賛されたりするが、まったく愚かなことである。

身体というのは本来、自らの内部感覚に則して動けばこわれない。

しかし記録を出すためには如何にその内部感覚を無視して突っ走るかという、いわば天然のリミッター解除がトレーニングの実態だったりする。そのために記録と引き換えにいのちを削るという問題が出てくるのである。

もう少しメカニズムを詳細に考えてみると、どうも随意筋の異常肥大が諸悪の根源ではないかと思うのだ。

あえて限定すれば、過剰負荷によるウエイトトレーニング(いわゆる高重量・低回数の動作)の反復が背骨感覚をもっとも鈍らせる。

これはまあ、自分でも経験があるからわかるのだが随意筋にテンションが掛かりっぱなしになるので背骨が動かなくなるのだ。

そうすると食欲を中心とした生理的欲求も微妙に狂ってくるので、身体感覚を規矩とした天然自然の生活からはどんどん遠ざかっていく。

むかし競技空手をやっていた経験からもいえるが、その当時周りにいた人たちを思い浮かべると怪我が異常に多かったし、中には「息が吸えない」などという妙な異常を訴えている人までいた。腹直筋が緊張しすぎているのである。試合に勝つためには有効な身体かもしれないが、いのちは縮む。

まあその辺りは価値観の相違である。

「人生に何を求めるか」によって「正解」は変わる、とうことだ。

だが、そうしたプロスポーツの影響でアマチュアの方までが健康のためと称して異常肥大した筋肉体を作るとしたら、それは指導者層のミスガイディングと言わざるを得ない。

平たく言えば筋力のみならず、あらゆる生理的平衡要求(持って生まれたバランス)をいかに活用するかが自然の健康を保持するための最重要課題であり、それが全てなのである。

我田引水的になるが、野口整体が活元運動に集約したという事実がその完成形といっても過言ではない。

先にも言ったように価値観や趣味嗜好の問題までは口出しできないわけで、ボディビルでも何でもやりたい人はやっていただいたらそれでいい。だがそうした行為がもたらす結果(功罪両面)までを熟知している愛好者や指導者は、おそらくだが、半数もいないのではないかと予想する。

まあ基本的には身体をどんなに鈍らせても、その鈍った身体が起こすさまざまな不祥事をまた親切に修繕しようという技術も日進月歩で発達している。

我々からすればあらぬ方向へ(そもそもが「方向性」などあるのかも疑わしいが)の進歩なのだが、整体として進む道とは全く別の方向であることだけはこの際はっきりさせてておかねばならぬ。

極論すれば外的価値観に隷属して生きるか、内部感覚を畏敬の念を抱いて生活するかの違いである。

まあこうした理論が身体感覚を通して腑落ちするまでには整体を専一にやっていっても数年はかかると思う。わたしなどは旧来の悪弊が(ある程度)抜けてくるまでに軽く10年を要してしまった。いわゆる筋肉馬鹿だったのだ。そこまでではないにしても、身体感覚、あるいは生命の原始感覚というようなものを完全に取り戻すには一定の歳月を要することは理解していただきたい。

ローマは一日にしてならず。整体とは純化した身体感覚の結集によって生まれるバランスの産物なのである。

背骨感覚を練磨する

精神療法の世界でも現代は身体から心にアプローチしていく手法が多数考案され実践されてきている。このブログには何回も登場しているがアレクサンダー・ローエンのバイオエナジェティクスなどはその好例である。

しかし「体が整うのは難しい」の記事でも書いたが、体から心にアプローチする数ある手法のなかでも「質」という点では野口整体は他のあらゆる方法と比較しても群を抜いている、と思う。そもそもが基本的に体と心の間に「距離」を設けて見ていない。そこは「身即心、心即身」という不即不離の関係を見い出し、最初から一つのものとして決着している。そこが文字通り根本的に違う。

近年は巷にも「体をリラックスさせれば心もリラックスできます」、あるいは「体が整えば心が整います」という謳い文句はあふれているが、そのリラックスや整い方を追究すると具体性はゼロにひとしい。

いわゆるリラックスということで言えば、ムードとか観念的なもの(ノリ)に流されやすく、「まあ気はココロで、よくなったような気がする」といった程度のところで妥協しようと思えばいくらでもできる。

また「体が整う」にしても背骨が真っ直ぐに見えるとか、肩や骨盤が水平であるとか、そういった次元のもので済まされているものも少なくない。背骨に着眼しているというところまではいいが、その多くは整体的観察眼や審美眼で捉える「背骨」とはかけ離れた物体を見ているという気がしてならない。

生きた人間の身体はたえず動いている。その中でも中枢神経系の通り道である背骨はその生体活動の現状をつぶさに写し出しており、これに対する整体の観察と読みは精緻を極めるのだ。

何故そこまでして背骨に執心するのかといえば、背骨が利かなくなることはその肉体の部分的な居眠り状態を意味するからである。それは身体の中の一部が稼働しないまま生活しているということであり、これを自動車に例えるなら当人の知らない間に故障個所をいくつも抱えながら走行しているようなものなのだ。

ただし人間の身体は機械のように単純ではなく、また無思想に動いているわけではないので多少の故障・居眠り箇所があっても他がそこを補って動きづづけられる。そうした目に見えない無数の安全弁の働きの支えられているからこそ、誰もが一見して円滑な生活を送ることが出来ているのである。

ところがそれも当然、プロスポーツや技巧的職人の様な心身共に高度な技量を要求される仕事をするにあたっては大きな障害になるし、また何らかの事情により一定期間つよいストレスにさらされた場合にもそうした背骨の鈍りはケガや故障の遠因となる。

そういった事情から整体指導の臨床ではまず背骨の観察が要となり、また被指導者の背骨感覚の養成が重要課題となっている。これを鈍らせている「生活習慣」や「思考態度」、「動作的な悪癖」をひとつひとつ露わにし、漸次再教育を行っていく必要があるのだ。

ところが一般的には、少々具合が悪い程度のものならそこらの整体院(代替療法)に行って、本当に重篤な症状や病名が付いたら病院に行く、という態度の人が多いと思うのだがこれは全く残念な了見違いというものである。

強い痛みが出てからようやく身体のことを思う様な、そういった鈍重な感覚のままでは整体指導は行えない。もちろんはじめは全く訓練のされていない、感覚の鈍麻した現代人の身体からスタートするのであるが、いつまでもそうした低い身体性のままでよしとするようなズサンな感受性では、早晩整体指導を受ける資格を逸するであろう。

わずかな変調に対しても機敏に反応し、感受性を順ならしめることで自らの心身を先に先に整える。そうして生活の質的向上を図るというのが整体指導の本来の姿なのである。その感覚練磨の中でも文字通り柱となるが背骨なのだ。繰り返すがここが全身の中枢神経系であり、身体全体の円滑な運用を司るコントロールセンターなのである。

まずはその重要性を「知る」ことで整体の入り口に立つことができるし、実践し体現するのはさらにそのはるか先に位置している。整体とは人間にとっての峻厳な霊峰であることも知らねばならない。全生への道とは斯様に果てしないものなのである。

こわすときは一瞬、治るのはゆっくりゆっくり

整体の知見と世間のそれはさまざま面において異なる。その一つ一つをあげて説明していったらゆうに1年は講座が組めるくらいの面白さだが、その中でもつねづね思うのは「打撲」に対する見解の相違だろう。

打撲は恐ろしいのだ。一般的にはゴチッと打って「痛い‥」とうずくまって、しばらくして痛みが治まったら、もう大体いいんだろうと思われがちだ。しかし身体を丁寧に観ると打ったところとその周辺には何か動きが制限されているような、そこだけ時間が止まったような印象が残される。期間的には年単位、あるいは何十年とそのまま放置されることも珍しくない。

場合によっては打ってから、だいぶ経って患部からずっと離れたところに変動が出たりもするし、まあとにかく生きた身体に対する観察眼というか、見慣れた人にとっては容易に見つかる変動だけれども、何しろCTとかレントゲンには写らないので打撲が契機となっての体調不良というのは一般医療の死角になりやすいのではないか。

「どうやったらそういう古い打撲の跡は治るんですか?」というのが次なる関心の焦点だが、これは‥いろいろな代替療法があるので、「対応法は無限にある」というのが正解だろう。しかし、国内外のいろいろな民間療法を受けてきたような人を受け持つことがあるけれども、こういった打撲様の古傷に関しては整体法の独壇場ではないかと思うことがある。まあ実際世の中は広いし、「知らない」だけですばらしい治療者はたくさんいる。うかつなことは言ったらいけないけれども、整体法が古傷に関して一定に有効だというのは間違いない。

例えば整体以外では、骨とか関節にショックが残っているのは、再度同じ様な力を反対にかけて正規の位置に戻す、という考え方がある。つまり右に曲がったものを左に曲げ戻す的な発想。ところがこういう系統のものはほとんど功を奏さない。メカニズムを細かに説明できないけれど、人間の身体というのはもの(無機物)ではない。過剰なストレスがかかるとこわれる、という点ではものと同じだけれども、生きた身体というのは時間とともに治る方向へ動く。ここが違う。

そしてこの「治る」という構造についていえば、早く治そうとしても治らない、ということは知っておかねばならない。こわすときは本当に一瞬である。あっという間に致命傷までいきかねないのに対して、治るというはいつだって中庸の速度。丁度いい具合に治っていく。

ところがこの中庸は、人間が焦るとすごくノロく感じる。相対的な問題なのだけれども、人間が早く早くと焦れているとものすごく遅く感じるものだ。ところが本人も忘れていてふわーっとしていると、知らない間に治っている。そういう性質なのである。打撲はこの自然治癒が滞りやすいので、他者が気を集めて手を当てることで治り始まったりする、という話なんだけど。

まあそれにしても、そうやって治癒を手伝っていったとしても、古い打撲の経過というのは焦ってやろうとしてもむずかしい。首とか膝とか、そういう可動域の大きな関節周辺の怪我ならなおさら強い力は使えないし、じっと手に気を集めて触れながら看ていく。そういう方法が安全で、なおかつ効果が得られやすい、と思う。

いわゆる野口整体の愉気法だけれども、愉気をすることで古傷が痛みだしたり、その場所に汗をかくようになったり、お風呂に入ったらじんじんしたり、というような「反応」が現れやすい。こうなると時間が止まっていたところが動きはじめて、治りはじめたと考えていい。ようやく自然経過のはじまりである。

愉気のコツの一つは焦らないこと。ずーっと見守るように触れて観ていく。そうすると少しずつ秩序にならって、精緻に変化していく身体を愉しみながら観ることができる。こういうことをしばらくやってみると、身体を粗雑に使ってズバッとこわすようなことに対して嫌悪感が育ってくる。他人の身体でもそういう粗末な使い方は嫌だなと思うようになるのだが、いのちを大事にすることに関して、「自分」も「他人」もあったもんではない。

そう、いのちは大事。いうまでもないけれども。だが恐ろしいことに現代はのべつ幕なしに生命が軽んぜられている。そういう、生命に対する礼のない人は整体とも縁のない人。最近はそんな風に思う。こわすのは個人の意思でどうとでもなる、それもほんの一瞬。でも治るのは、大自然の恩恵によって刻々と確かな秩序の範囲の中でしか治らない。

それでも、どんなに愚かな身体の使い方をしてこわしても、いのちのある間は治していただけるのだからありがたいね。この世は本来、大道無門。だけれども、自分のいのちに対してこうべを垂れることのない人は、その門をくぐることができない。自分で敷居を高くして、自分で門に鍵をかける。当世は本当に変わった人々が多い、と感ずる次第である。

「異常感」を育てる

整体指導の目的は「自分の身体の異常が自分でわかる」ように訓練をしていくものです。確かに「身体を整える、整えてもらう」といったらそういう面もなくはないけれども、もうすこし丁寧にみるとその人の中にもともとある「整っていくための力」がきちんと発揮されるように、小さな異常に対しても敏感に反応する身体を育てているといった方が的確です。

現代を生きる人の大半は、健康というのは外部要因によって冒されやすく、病気になったら専門家にお願いして治療をしてもらうと考えている方が多い。そうすることによって、痛いものも痛くなくなるし、痒いものもじきに痒くなくなる。そういう便利な構図に依存して、実際自分自身の中に何が起こって、どういう処置によってどうなったのかを考えるような、そういう頭の使い方というか体の感性というのはあまり使わなくていい様になっています。

だから「自分の身体」だけどその身体の感覚というものをそもそもあまり信用していないし、むしろ感覚全般が錆び付いているので「何かおかしいぞ」と気づいた時にはもう烈しい痛みとか目に見える大きな異常だったりする。

整体指導的立場から見た場合に、そういう生活態度のことを「不整体」とこういう風に呼ぶことになっています。そのためにこれを「整体」という、自ずから整っていく本来の姿に戻してやらなければならない。そこで鍵となるのが当人の「身体感覚」であり、その中でも「何か妙だ」という感じをいち早く察知する「異常感の育成」が重要になるわけです。

具体的には「自分の身体に気を集める」、というそういう態度をひらすら鍛錬していく。おそらく昔の人はみんなそうやって、自分の身体に責任を負って生きていたと思うのです。例えばお百姓さんなんかでも「ケガをしたら病院に行けばいい」というような甘えは許されない。ひと月も畑に出られなくなったら死活問題なわけですから、われわれよりももっと自分というもの、その身体の在りようをしっかりと掴んでこわさないように気を付けていたと思います。

ところが近頃のように人々の価値観も生活も複雑になって、頭も忙しくなってくると、それまで自分自身の身体(内面)に向かっていた意識はたえず外を飛び回っているようになる。これが鈍りのはじまりです。

そこで例えばわたしのやり方だと直接手で「触れる」とか、対話でもって「感覚を問う」という方法で「そこ」に注意を集めていく。最近知ったけれども心理療法で行なわれる「フォーカシング」という技法とは理論的にとても近い。「今どういう感じがするか?」というのが自分の健康を自分で保つための入り口なのです。

こういうことを地道に繰り返していくことで、今まで外に行っていた心が自分の身体内に帰ってくる。本当に「主」が帰ってくるという表現がしっくりくるのだけど、自身の健康を保つ主体というのは常に「あちら」ではなく「こちら」にあるわけです。だからいつでもこちらの感覚から出発していくようにシフトしなければ「体を整えて生きる」といって頑張っても自立した健康には結び付かない。

治療という現象の主体はクライエントとか患者の方に在る、というのが整体指導の立場です。そういう点では心理カウンセリングも同じであって、「クライエントが自分で治っていく」ということがまず真ん中にどんとあってカウンセラーはその力が発揮されるための環境の整備に尽力する。自分の中にある「異常」の部分、「妙だ」という感じを感じる力を育てていくことによって、治癒がはじまるわけです。

ともかく治療の原理をずっと辿っていくと、当人の治癒力に頼っている事実に突き当たるし、治癒力が発動する要因が「これは治さなければ」という、異常をいち早く発見できる鋭敏な感覚であることがわかります。だからこそ整体の目的を「体を敏感にする」という一言に集約できるわけです。ここのところを理解して指導を受けられるのと、理解がないのとでは回を追うごとの結果に差が出てくる。そうやって自分の感覚を信用できるところまで発達させることが健康生活の原理になっていく、ということです。

リバウンド

最近、有名ダイエットジムで頑張った人たちが一部でリバウンドしているという記事を読んだ。昔からダイエットとリバウンドは切っても切れない関係のようだけれど、整体指導・心理療法にもこれと似たような現象はあると思った。

少し近しい業界では、短期間の自己啓発セミナーに行った直後に目をピカピカさせていた人が、1年後に見たらなんとなく元通りになっていた、というような話がある。

ダイエットもそうだが人間が急にガラッと変わったなんていう時には大抵注意が必要だ。最低でも半年・一年は経ってみないことには本当のところは判らない。いや本当は30年とか、その人の死に方まで観ないことには解らない。それくらいの執念で丁寧に観ていくと、「変わった、変わった」と言っても中身は殆ど変わっていないことぐらいは分かる。

一過性のダイエットと同じく、「環境」だけを強引に変えてしまったことで「自我」が適応障害を起こして変性しているだけだったりするのだ。それで結果的にやつれてたり、過剰にハイになっていたりしているだけで、どうも酒に酔っているのとさして変わらないような気もする。当然そのとき全体の調和は消えているのだ。

審美観のマヒしている人たちは「痩せたんだからそれでいーじゃないか」と思うのかもしれないが、「美しさ」の条件の一つに「調和」というのは欠かせない筈だ。

そもそもが、太っている人にはそういう思考形態があり、体癖素質があり、仕事や家庭環境を含めた生活の全体がある。その結果として体がふっくらしているのだから、その全部が調和していて無理がない。場合によってはそれで美しいことだってあるわけだ。

ところが食事と随意筋のコントロールだけに特化して脂肪を減らしたところで、全体としては「何か変になっている」といった妙な印象を受けることがある。だいたい人間の生命活動を支えている99%以上は不随意部分の自然調和機能であり、その不随意的活動を支えているのは無意識とか潜在意識とかいわれる心の深層部にある。

人はしきりに「変わりたい、変わりたい」というが、残念ながらそう簡単には変わらない。それはなぜかと言ったら、健常者の「自我」というのはそれだけ堅牢なのだ。また、そうでなければ、実際困る。

例えば昨日「あなたを信用して仕事を任せませす。」といった相手が、今日になったら「すいません、ボクは今までの生き方はすべて間違っていることに気づきました。今夜からインドに発って瞑想してきます。」とか言われたんではたまらない。そういうことが起こらないように、過去からの続き物としての自我というのがあって、それによって人間はお互いの生活の均衡が保たれているという面がなくもない。

ところが世の中には「二つ良いもの、さてないものよ」といって、そういう自我の安定性が古くなり役に立たなくなりかけている「自分」をいつまでも変えさせない元にもなっている。

そのために表面だけをいくらいじくっても、内から奥から、その人の「定番になっているもの」が出てきてしまうのだ。だから一見簡単そうな相談であっても、他人様の身体とか心理に立ち入るということは一定の覚悟と謙虚さがいる。安請け合いは禁物なのである。

経験の豊富な治療者というのは概して、相手の「全体」をこわさないように、乱さないように、静かに入っていって小さく仕事をすることが多い。少し仕事をして、変化を観る。どんな分野でもそうだが真のプロというのは目覚ましい結果を出すことよりも、大失敗しないことの方がよほど大事であることを知っているものだ。

繰り返すが少しいじっては間をおいて、そして全体を観る。これの繰り返し。そうしていくことで相手の力も有効に使えるし、こちらも時間は掛かるが小さなエネルギーで安全に結果を出すことができる(※ラクをするという意味ではありません)。それは結果さえ出ればその前後は知らん、という帳尻合わせの成果主義ではなく、「何故そうなったのか?」という原因に着眼する求道的精神に起因する。

ありがちだが、「結果」と「過程」の主従関係も見誤ってはいけない。言うまでもなく主体は後者にある。さらにすすんで、その「過程」を引き起こした、大本となっている「何か」を見極めなければ本当の「仕事」というのはできないものだ。ダイエットも整体指導も心理療法もコミットするべきは「結果」ではなく「過程」であり、「原因」なのである。

五種体癖の働き方・生き方

横浜駅西口にいたパントマイマー。きれいな肩と前腕にしばらく見とれた。五種というのは手(前腕)を動かすことに快感があるらしく、体操選手やダンサーには5種の濃い人が多い。

何よりパントマイマーという職業が冒険を好む5種的な動きそのものだ。これがもし二種や六種だったらこんな風に往来に立つこと自体がまず考えられない。

重心が前(つま先)にあるので、体勢をよく前のめりにしている。そのせいなのか、何かと前に前に出てきやすい。というより、たえずつんのめっているようなものなので「前に出るという衝動を抑えられない」といった印象を受ける。

それにしても、こういうふうに身体の素質とライフスタイルがマッチングしていると、見ているほうまで何となく落ち着くからふしぎだ。

身体と動作と風景が融け合って、一枚の絵のように観える。帽子がなかったらまた違って見えたろうけど、かぶり方まで巧い。自分を客観視できるということは高尚な能力だ。

しかし自分が「何故そうして生きているのか」までを理解して生活する人となると、その数はぐっと少なくなるだろう。そういう意味で整体的な観察眼というのは、身体と生き方の不一致を見つけ出し正すためにあると考えてもいいと思う。

擬死再生

「修業で山に入るいうんは擬死再生やで」

数年前に関西で山岳修行をしたときに、同行した先輩修行者からいわれた言葉を思い出した。

昨日の「窮すれば…」を書いて読んでたら浮かんで来たのだけど、「擬死再生」というのは簡単に言うといっぺん死ぬということ。これはもちろん比喩として聞かないと大変です。

いっぺん死んで、それで人生はおしまいというのでは修行になりませんから。

だから「擬」死ということが本当に大事で、言いかえると「恰も死んだかの如く」という事でいいですね。

そもそもが何故こんなことを修行者に強いるかというと、その人の人生が「今までの自分」では乗り越えられない局面に差し掛かったことを想定しているのだと思うのです。

変わらなければならない、今変わらなければこれ以上は現実に適応できないというような、いわゆる窮し切った局面。昔の人はこういう時に上手い具合に山に入って、昨日までの惰性で生きてきた自分をいっぺんご破算にして、再生を願う(生命の刷新)。そういう文化が古く日本には根付いていたらしいのです。

整体指導という仕事はこの「擬死再生」を山という環境に拠らずして行なう現代式の神事と思ったらいいと思います。

つまり病気になったとか、精神が病んだという時、大変キツイことだけれども一旦はその全責任を当人に自覚してもらいます。

そうやって日常の空間でありながらも心身を疑似的に追い込んでいくという、「癒し」という表の顔とは裏腹にある所では非常に厳しい面があるわけです。

山の厳しさというのはこれとはちょっと違って、ツルッといったら本当に死んでしまう危険性もなくはありません。修行で命を落としてしまったらそれは「死行」です。もうそれ以降は行ができなくなります。

考えてみると、よく生きるために、変な死に方せんでもええようにと「行」は行うわけですから、模擬的に(それでもかなり大変になる時はありますけれども)死に親しんで、それでギリギリのところで変わっていくという方法があるならそれは理想的です。

もちろん山岳修行がわるいとか、これはそういう話ではありません。ただヘタとやると本当に危ないですから、そのためにきちっとした先達さんがいて、その人に守られ抱えられしながら、フゥフゥ言ってフラフラになりながらも安全に行ができるわけです。

むしろ言いたいのは、整体指導とかカウンセリングいうのはそういう厳しさというかキケン性もはらんでいることを自覚していないと、ある所でびっくりされることがあります。

どちらも上手な先生がやると、非常に効果があります。

よく効く薬だと思ったらいいかもしれません。

それだけ効くわけですから、当然毒性というか、心にも体にも強く作用します。

これが時として辛いんです。

本気でやっていかれた方はみなさん判ります。

ところがそうやって、やっとこ変わっていって抜けた時の爽快感も知っているから整体の指導者もカウンセラーも、そのクライエントと一緒になって耐えて忍んでついていける面があるわけです。よく考えたら山を歩く時の先達さんみたいなもんですね。

先達さんというのは何度も何度も山を登って降りてを経験している人だから、新米行者さんの何がどうツラいかもだいたい判るわけですし、どの辺から楽になるとか、行を終えた時の達成感とかも知っています。

何でもそうですが指導者というのはそうやって先に大変なところを経験して、少なくとも1回以上は大きな「山」を越えてきていることが資格というか条件になりますね。

自然の山もありますし、人生上の山もあります。谷もあるかもわかりません。

そういう所を人知れず越えて生きている人というのはやっぱり「見えない指導力」があるわけです。

そういう人がまず安全な環境を作って、そのなかでわざと苦労をさせて、その苦労を一緒になって味わいながら一緒に変わっていく。死にかけるような思いをしながらフラフラになりながら変わっていく。本当に擬死再生といったら、これほどピタッとくる言葉もないんじゃあないかと思います。

人間が治るとか変わるというのはやっぱり大変なもんだと思います。ユングは自分自身を「魂の医者」と言ったそうですが、やっぱりそこには本当にいのちが掛かっています。

そういう気持ち、畏怖のような念がない人はお山にも入れてもらえませんし、自分の身体にも門前払いを食います。まず誰よりも自分自身を甘くみたらいけない。生命に対する礼というのは易しいけれども、それに気づくには擬死再生の体験が必要なのかもしれない。

自分の力でよくなっていく

野口整体とユング派の心理カウンセリングの治癒過程は、見ていくとよく似たところがあると思います。

それは一言でいえば「無為を上手に使う」ということ。もっと身近に表現すると「そのままでいる」とか、「自然治癒」とか、「何もかもお任せ」みたいな言葉でも良いかもしれない。

これは偶然ではなくて、ユングが東洋思想のタオイズムからいろいろ学んだことと、野口先生が子供の頃から老荘思想に親しんだことに起因します。それぞれ出典が近いので「似ている」のは当然といえば当然なのですけど。

その共通の観点に着目していると「成り行きに対する信頼」とでもいうような、世界と自分を貫く大きな流れ(自然界の秩序)に対する畏敬の念のようなものが「どしん」と、意識のずっと底の方にあって、治療者と患者はその上で一緒に遊んでいるような感覚すら覚えることがあります。

体の問題でも心の問題でも、程度の軽いうちは「何かする」ということでだいぶん解消できます。冷やしたり、温めたりして治るものなら多分やったほうがいいだろうし、話し合いや議論、説教で解決する程度の問題ならお互いに腑落ちするまでどんどんやったらいい。

こういうものは絶対にいけない、ということはないのでいろいろ納得いくところまでやったほうがそれこそ心の面で解決は着きやすい。

それでも、体の問題だとどれだけ薬を使っても、切ったり張ったりしてもどうにもならないという根の深い問題があるし(深そうに見えて浅い場合もありますが)、心の問題ならどんなにいい話を聞いても、説教でも、気分転換をはかっても、解決しない時はしません。

整体指導、心理カウンセリングは大抵「そこからはじまる」、といっていい。

つまり、打つ手は全部打った、万策すでに尽きたりと、という時にはじまる最後の砦と思ってもいいくらいです。

それまでは「何かする」ということでずっと対応してきたものが、ことごとく効果がなくて全部つぶされていく。そうやってその人はどんどん追い詰められていって、とうとう切羽詰って、もう何もできないという所までいくわけです。

そうするとどうなるかというと、最後に「無為(こちらから何もしない)」という方法が残されている。

ただし、本当に何もしないんだったらそこに他人が関わる余地はないし、どんな問題があってもそのまま「ただ生きて、ただ死ぬだけじゃないか」と言いたくもなるわけで、そこをもう一つ進めて考えなければいけない。

指導者とかカウンセラーという人間がそこに関わることで、事態がどうなっていくのか。

それは、一つはクライエントの中で失われかけた「自分に対する信頼」、というのが回復してくということが挙げられると思います。

つまり「相手(自分)の力でよくなっていく」、「その人が自分の力で立ち上がってくる」という、最後の可能性が動き出して来るわけです。

自分の知恵と体力で立ち直ってくるならこれほど良いことはないのであって、そんな方法があるなら最初からやってます、と言いたくもなるけれど、実際一人ではそれができなかった。

そこへふらっともう一人、見守るというか、一緒にその問題を眺める人が傍らに出てくることによって何か変わったことが起こってくる、というのが「人間」の面白いところです。

カウンセリングの場合は、そういう状況にある相手の話を「一生懸命に聴く」という方法でいくわけです。整体だったら、やはり「そこに一緒にいる」、とか何かするにしても「手を当てる(愉気)」というような非常にやさしいというか、ゆるやかな「待ちの態度」で望むことが主になります。

こういう関わり方というのは、他ではあまりありません。一見すると頼りない感じもするし、そこにそんなすごい力があるとは気づかれないことが多い。ところがこういう方法がきちんと最後に残されているというのは、人間にとってすごく有り難いことだと私は思います。これがなかったら、最後の最後のところで人類はみんな救われないとすら思うこともあります。

改めて言葉にすると「無為を体得する」とか、そういうことです。いわゆる自然体、心においても、浮かんで来たことはそのまま、感じたこともそのまま、「受け入れる」ということも余分なくらいに手を着けないでいる。整体というのは、そういう意味で非常に平坦な、安楽の道なんだけれど、それと同時に険しさというか難しさもある。人によってはそれこそラクダが針の穴を通るよりも難しいかもわかりません。

だけれども、「自分の力でよくなっていく」というものが誰の中にもあるのは間違いありません。何パーセントかはわかりませんが、やっぱり万策尽きて、自分で解決していくよりないところまで追いつめられる人は一定数おられます。野口整体もユングのカウンセリングも(名前がないだけで、知らないだけで他にもいろいろあると思いますが)、そういう人にとっては非常に頼りがいのある方法だと思えるのです。

錯覚を起こそう

精神療法家 神田橋條治先生の『精神療法面接のコツ』を久しぶりに読み返した。わりと冒頭の方に明治生まれの奇術師 石田天海師のエピソードが書かれていて、そこを読むといつも自分の仕事の在り方を再点検させられる。

その概略はだいたい次の通りである。師によると「マジック」というのは「現象を見せる」のが本質なのだそうだ。これとは違って「やっていることを見せる」のはジャグラーであるという。ここでいう現象というのは観客の内側に起こるイリュージョンなのであって、このイリュージョンが起こるように誘うのがマジシャンの仕事であるという。

もう少し咀嚼すると、観る側が吃驚したり感嘆したりすることが「実」であり「成果」なのであって、そこさえクリアできれば過度な複雑性や技量は問わない、ということになる。具体的にはマギー司郎さんみたいなシンプルでやさしい芸を思い浮かべると判りやすいのではないだろうか。もちろん技量が要らないからといって“カンタン”という話ではない。どんな分野においてもそうであるように、シンプルな技を目の当たりにするときには同時に長い淘汰の歴史が窺い知れる。

一方で過剰な技巧はともすれば人を悪酔いさせやすい。それもどちらかといえば酔うのは技巧を施してもらう方ではなくて、施す側だったりする。これは楽器の演奏などにおいても見受けられるが、技巧に凝り過ぎたことで本来の曲調が失われてしまうパターンにも通じる。技は目的を達成するための一手段であり、また道具であることを忘れてしまってはいけないと思う。

何故こんな話かというと、整体にも「技」は付き物だからだ。整体の仕事の実態(目的)を突き詰めると対象者がほっとして安心することである。安心すると身体はゆるむ。ゆるみは自然の姿であり、後は「そのまま」いるだけで「時」が治すのだ。そのために高い技術が要るかといえばそうとは限らない。あるならあった方がいいけれど、なくても「ゆるむ」ことは充分あり得る。

と、ここまで書いてきて、整体の於ける「〈技〉とは何か」と思い返すに至った。

煎じ詰めると、こちらの中に起こった「動き」とか「ちから」を相手の裡に波及させることが整体の「技術」だと私は思う。つまりはクライエントの内側に起こるイリュージョンであり、このイリュージョンが起こるように誘うのが整体指導の要とも言える。蛇足になるがイリュージョンには「幻想」という訳の他に、「錯覚」や「思い違い」という意味も含まれる。

「錯覚」を甘くみてはいけない。心の中で「うっかりそう思った」ということは侮れないもので、それは当人にとっては「真実」なのだ。考えてみれば整体も心理療法も事の起こりは「催眠」から出発したものだし、心の転換こそが健康を指導する際の要とも言える。人間の身体上に起こる様々な変化の中には時に奇跡や魔法を想起させるほど劇的なものがあるが、心の仕組みを探求し、解き明かすことが出来れば必ずそこには「理」があり「仕組み」があることが判るはずだ。

この仕組みをどこまでも冷静な眼で、一つひとつの事実を洗いながら解析していくことは、人間を理解し導いていくためには大切なプロセスである。治癒に関わる世界にいると魔法のような現象にはしばしば出くわすが、魔法というのは無知と錯覚の産物である。思わず目を疑うような結果に幻惑されて事実を解析する冷静さを失ってしまっては、「魔法のような技術」にはいつまでたっても辿り着かないだろう。

地道な研鑚、実践と検証の繰り返しこそが、やがては再現性の高い確かな技を生み出す。そしてどの分野にでも見られるように、「王道」と言う時には、それは当人にとって必要な長い長い回り道を意味することが多い。

少し技術の習得論にそれたが、実際に相手の世界に良質の錯覚を起こせるようになれば、それは心身を好転させる手段としては強力な武器になる。そのためには相手には今「どんな世界が見えているか」が推察できる察知と共感の能力も不可欠と言える。最初に感じとり、共感し、相手と一体となってある種のビジョンを生み出すことができれば治療はほぼ成功したと言っても良い。そのための仕掛け(タネ)さえ解ってしまえ魔法はただの技術になり、驚くような現象も平凡な物理変化となる。

整体の名人野口先生の技も「魔法」や「奇跡」と称されたけれど、心の実体をよく理解されていた先生にとっては「当り前の現象」だったのかもしれない。もちろんそこに至るまでには裏舞台に隠された膨大な修業の積み重ねがあったことも思い浮かぶ。私もこれからさらにたくさんの回り道を歩みながら、錯覚を起こす技を育ててきたいと思う。