活元会でおこなう活元運動は訓練:目標はいつでもどこでも活元運動が出る体を育てること

質問〕 活元運動をしていない時でも、体のあちこちが痙攣みたいなものを起こすのですが?

 しばらく神経の鈍っていたのがはたらき出してきたのです。その時期というだけです。

体が活元運動で訓練されてくると、何か異常が生ずると自然に活元運動が出てきます。

そういうときは終るまでやる。

そういう体になるための訓練課程として活元運動をするのです。

(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.143-144 一部改行は引用者)

活元会で行なう活元運動は訓練です。

いってみれば道場で武道をならっているのに近いかもしれません。

例えば「剣道」は元はといえば斬り合いの練習なのです。

本当の斬り合いなんて無いに越したことはないけれど、元来は有事に備えて行う鍛錬、修養法だったわけです。

ところが現代ならばほぼ道場の稽古にはじまって稽古に終わる。

たまに昇段審査とか試合があるくらいで、メインは稽古のための稽古であっていい。それでいて健康保持や体力増進などの効用を思えば、現代的には充分役に立っているわけですから。

活元運動というものだいたいそれに似ていて、活元会で行なうだけでも1~2年もやればだいぶ体は変わるのです。

だけど、本来の目的はそこではなくって、

本当は体に何かストレスがかかったときに、きちっと発動するための訓練をしている。

普段的に活元運動を自分の意思で「行なう」のはそのためなのだ。

実際のときは「私がやる」という手続きをとばして、さーっと出る。

自分の経験からいうと、「そういう身体になったな」と思ったのは、‥今年から。

だから活元運動を始めてから12年くらいたってる。

遅いですね。。

なので、なるべくその様なことにならないように、活元会では理論の解説から誘導まで丁寧に行うようにしています。

目標は「お守り」いらずの体になること。

生命には後からつけ加えなければならないものは何にもありません。

もともとのスペックをしっかり使い切れるように、訓練をしておきましょう。

活元運動と体の波:健康とは自然の波に自分が同調している状態

質問〕 活元運動をやりますと、身体のよくなってゆくのが、波のように、よくなったり悪くなったりしてゆきますが?

 よくなったり悪くなったり感じるのです。感じるだけで、体はよくなる方向へと進んでいる。人間の体の感覚で、それを強く感じたり弱く感じたりする。

例えば打身をして痛みのない時に、活元運動をすると、痛みを感じだしてくる。感じだすこと自体はよい傾向なのに、多くの人は先入主で、痛みが起こったら悪くなったと思うのです。

熱が急にでる、これも排泄現象で良い傾向なのです。けれども、前の先入主で、それを悪いと思う。それで波を感じる。そういう場合が一つ。

それから体自体にそういう波があるのです。調子がよい時と、陰気になってくる時とがある。そしてそういう波で反応の出方が違う。

そういう二つの場合があります。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 p.143)

これは活元運動の反応だけに限定されず、個人指導で愉気を受けた場合にも適合する話である。

人間とは、生命とは波である。

バイオリズムという言葉の発現を待つまでもなく、全てのいのちには「ゆらぎ」の性質があるのだ。

だから同じように活元運動をやっていても、何ともないでいる時期と反応が出やすい時期があると思っておいた方がいい。

全般に体が整っている人ほどこの「波」がはっきりしている。

健康というのはこの気分が常にいい状態だと思われがちだがそれは違う。

低潮・高潮の波は一定の周期で常にあるのだ。小さい波でいえば、心は10日、体は7日で動いていく。

だから心の低潮と体の高潮がかさなったり、その逆のときなどに「調子が悪い」と感じるなど、妙な感じがするのである。

それをどうこうするという話ではなく、「そういうもの」なのだ。

そこで整体生活を営むなら、一つには「待つ」という技術を身に付ける必要がある。

病気を上手に経過させるのだって「待つ」ことだし、気分の浮き沈みなどもいちいと取り合わずに待っていれば、大抵のものは自然と流れていく。

整体法とは極論を言えば、時を待つこと、そして波に乗るなのだ。波に逆らわないでいられるように心と体を鍛錬していく。

「鍛錬」といっても変に苦しむような話ではなく、活元運動で体がやわらくなっていくことで、息は中庸となり、自然と待てるようになる。そういう方向に鍛えていく。

一つには「慣れ」もある。慣れてくると少々の体の変動ではおどろかなくなる。付け加えておくと、病気に「おどろかない」ことと甘く見ることは違う。

あくまで慎重に、それでいて落ち着いて自分自身の経過観察ができるようになってくるものだ。

その第一関門として活元運動の反応期は便利といえる。興味を持って自分の変化を見ていくと知らぬ間に反応は終わっていると思う。

反応期を有意義に過ごすコツは、体の変動よりも息の深さを注視することだろう。

活元運動の反応が早い人、遅い人

質問〕 活元運動の反応期に、弛緩、過敏、排泄の三段階を経過するのに、どの位かかりますか。

 人によって、いろいろ違います。早い人は一週間位、遅い人は二年位かかります。体の敏感な人は早い。鈍っている人は遅い。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 p.142)

前回に続いて活元運動の反応について。

どれくらいで経過するかというと、全くバラバラ。ちなみに私の場合、はっきりした反応が出た時には、整体をはじめて5年くらい経っていたと思う。だからだいぶ鈍かったのだ。

下痢として出たけれども、ものすごい爽快感だったのを覚えている。

人にもよると思うけど、自分の場合は心理的なロックが外れたことが大きかった。

つまりその時期に「整体に本気になった」のだ。

だからいい加減にやっていると、反応が出るまでにまず時間がかかるかもしれない‥。ハィ。

指導する側からいえば、「興味をもってもらうこと」、「意欲を高めること」は大切だ。

まず頭で理解して、やってみようという意欲を育て、そして自分の体と対話しながら取り組んでいく。

そう考えると早い遅いよりも反応期の生活の在り方、「質」の方を気にしたほうが有意義ともいえる。

ごくたまに「活元運動をすることで、あまりに生活が変わってしまいそうでちょっと不安なのですが‥」という人もいるけれど、基本的には反応期であっても心身の変化は自分のコントロール下にある。

案ずるより生むがやすしというか、どう生きればいいかは身体の方がよく知っているから大丈夫だ。

活元運動を通じて、いろいろな意味で身体に任せる感覚を学べたならそれが何よりだと思う。

活元運動の反応がはげしい人

質問〕 体の具合の悪い人は、活元運動をやり出して、反応があまりひどいと、本人がびっくりして、活元運動をやめたり、医者に行ったりするから、やる前にどの程度の反応が出るか知りたいのですが。

 それは前もって予想できます。でも、調べるのはむずかしい。しかし、どの程度、その人が耐えるか否かは判ります。

困るのは精神病や、そういう素質のある人で、三月も半年も休まないで続くことがあります。そういう場合は、やめるようすすめているのです。そういう人の反応は、活元運動の誘導と一緒に、声を出して呼吸と首の回転が起こる。そうしたら、トンと左肩を叩いて止める。

それ以外の場合は心配ありません。

そうなったのでも、精神病の素質があるからではなくて、単なるヒステリーである場合もある。ただ、潜在意識の中に家族間のゴタゴタなどを抱えていると、運動中にしゃべり出したりします。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 p.142 一部改行は引用者)

活元運動というと「反応、反応」と常に注意がついてまわるが、実際はそこまではげしい反応が出る人は稀だと思っていい。

だいたいは始めてすぐなら筋肉痛のような痛みがでる人、それから半年、一年くらい続けていって風邪を引けるようになる人がちらほら出るくらいだ。

ただ、ときどきつよい反応が出る人がいるから、あらかじめ断っておかないと具合がわるいのである。

そうなる人の傾向はまず体が硬い人(で、愉気を受けて眠ったようになる人も)、それからいきなり活発な運動が出すぎる人、がそうなりやすい。

活元「運動」というからには動くことはもちろん大切だが、初回からはげしい運動の出る人の中には非常に気ぜわしい人、頭の中が一向に休まらないタイプの人がいる。

整体であることの条件の一つは気持ちがユッタリしていることなので、活元運動も本来ならばそのような意識が確認できたうえで行なうのが正しいやり方だ。

そいう意味では頭の忙しすぎる人に加え、あきらかな精神疾患のある方にはおすすめできない。また現代では多いけれども投薬による治療を受けている場合も同じ。

そういう場合は活元会のような集団の場ではなく、個別で丁寧に愉気を受けながら徐々に弛めていく方が適している。

心配な方はしばらく邪気の吐出だけを充分に行ってみよう。意識の落ち着きを取り戻してから徐々に活元運動をやれば急激な変動は抑えられる。

体がゆるんでくれば、心は休まり、頭の中でゴタゴタしたものも自然に流れていくのだ。中庸の速度、感覚を意識して行えば反応もゆるやかになる。体の感覚に訊ねながら、無理をしなければあまり心配はいらないだろう。

妊娠中から活元運動を行なってもよいか:できることなら妊娠前、出産を意識したらすぐにはじめよう

質問〕 子供ができたばかりの人に、活元運動を奨めたいのですが、反応が心配です。

 活元運動をやりますと、内部に異常のない時は流産する傾向が無くなってしまいます。流産しかけている人でも、活元運動をすると元へ還ります。

内で胎児が死んでいるような場合は、活元運動をすると、直ぐに流産します。一、二回やっていると、出てしまいます。

だから、内で死んでいるとか、母体がどうしても産むのに具合が悪いという状態以外は流産しません。

活元運度をすると却って楽に産める。流産した場合でも、簡単に終えます。何でもない時は体を丈夫にします。

 

近頃痛まずにお産をする方法として、活元運動をする人がとても多いです。

その誘導の方法は、仰向けにして、臍の上に手を当てて愉気をする。そうするとお腹の中が動き出してくる。動き出してくる人達は活元運動をしても大丈夫です。

手を当てると、動かないで逆に硬くなってしまう人もいます。そういう人を誘導すると、流産する場合があるのです。

予めそれ(臍に手を当てるということ)をやっておくといいと思います。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.141-142 一部改行は引用者)

活元運動は身体を敏感にし弾力を持たせるための運動だから、出産に備えて行っておくことはとてもよい。

その上でいつから始めるかということだけども、まったく整体の素養のない人ならば妊娠中、特に安定期に入る前に行うのは注意がいる。

体が整っているということは身体の様々な機能が正常にはたらくということなので、丈夫な子ならきちっと月が満ちるまで待って生まれてくるし、何か異常があった場合は流れてしまう。

だから考えよう、見方によっては「リスク」があることを知っておく必要がある。

うちを例にとると2009年から仕事をしてきているが妊娠期から整体の個人指導、活元運動の指導をお引き受けしてこれといった問題が生じたということはない。

そもそも件数自体がそんなにないのもあるけれど、基本的に自分の技術は愉気をベースに行っているので、急激に大きな変動を起こすようなことがないのだろう。

しかしまあ「いい出産をする」「自分で産むんだ」と決心したら、妊娠を意識したと同時に整体指導、活元運動をはじめる方が絶対にいい。

折に触れて何度も書いてきているが、「整体」という概念を理解するのに早くて1年、それらしい身体になってくるのに3年くらいはみておきたい。

何でもそうだが、こと身体のことに関していえば付け焼刃でぽっとできるようなものは信用ならないと思っている。

世相全般に高齢出産が増えていることに加えて、都心ならば体の固い人、基礎体力のない人も多いだろう。

そういう人がまた分娩台のような体の自由の利かない環境で産むとなると、やはり備えあれば憂いなしだ。出産は「準備で9割決まる」と思ってもらいたい。

引用とは少しことなる意見だが、「時代性」を考慮に入れれば腑落ちするだろう。『健康生活の原理』自体が40年前に出版されたものなのだから。

整体出産・整体育児を志すなら半年、1年くらい前から活元運動をはじめるといいだろう。

活元運動は一日のうちいつやったらよいか

質問〕 活元運動は一日のうちの何時ごろに行ったらよいでしょうか。

 活元運動は硬張っている体を弛むようにするのですから、寝る前にやるのが一番よいのです。あるいはまた、くたびれたときならいつでもなさってよろしいし、非常に効果的です。

しかし寝る前と限定してしまうと、つい眠くてズボラする恐れがありますから、時間的なことは余り拘泥なさらないで、暇ができて、気が向いたときなら、いつ何どきにやられても構いません。むしろこのほうが気楽で、永続性があるでしょう。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.138-139 改行、一部太字は引用者)

引用にある通り、活元運動は就寝前に行うと一番シックリいく。

ただし眠りの質が良くなるので短時間睡眠になるひともいるから、そういうことも知っておいた方がいいだろう。

たとえば夜の11時頃に活元運動をやって眠りにつくと、2時とか3時に目が覚めてしまうことがあるのだ。スパッと起きてしまうならそれでもいいけど‥。

そういうわけで、「いつでも気の向いたときにどうぞ」といっておけば一番障りがないということだ。

どちらかというとあまり細かいことをたくさん覚えて不自由するくらいなら、鬱滞を感じたときにすぐ行うようなつもりでいるほうが、本来の目的には適っていると思う。

個人的には場を区切ってしっかり活元運動を行なうのは月に1~2回、あとは気の向いたときにさっさっとやっていく位でいいと思う。

それもやがて慣れたらいらなくなる。「整体」とは本体、いつでもどこでも活元運動が発動しっぱなしの状態を指すからだ。

よく考えたら健康を保つためにいちいち「訓練している」なんておかしなことではないか。せめて整体に関わるときくらいは時計も病気も健康も忘れて、無条件な自分でいたらいいと思う。

活元運動は毎日やるべきか:回数よりも気の密度 気が集まることで体は変わる

質問〕活元運動は、毎日やった方がよいですか。やり過ぎることはありますか。

 だれでも、自分に適う運動しか出ません。だから二度やろうとしても出ないことがある。しかし、三度やっても、同じように出ることもあります。訓練してあれば、必要なときに、自然と動き出します。その時は終わるまでやった方がよろしい。

前に道場に来ていたイスラエルの人ですが、国へ帰って昨年のクリスマスに手紙をよこしました。先週からドライブするのに眼鏡をかけていない。自分を知っている人は不思議がっている。私自身もまだ信じられない。でも、もう眼鏡はいらなくなった、というのです。

一昨年、ここを出ていく時に、「目が悪いがどうやったらよいか」と私に訊ねたのです。私は、活元運動をした後で眼をじっと押える。そこへ気を集める。それを一年間やることを教えました。つまり、やろうと決心したこと、一年間という目標をたてたこと、それを忠実に実行したことで、眼鏡がはずせるまでになったのだと思います。

皆さんどうぞおやり下さい。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.137-138 一部太字は引用者)

だいたい1年に2、3回くらい「先生は毎日活元運動をやっているんですか?」と聞かれることがあるが、以前は申し訳ないくらい一人ではやらなかった。

せいぜい活元会を行なったときにみんなと一緒に少し行うぐらいで、あとは全くといっていいほどやらない。

この1年くらいだろうか、心身が鬱滞したときにはマメにやるような感じになってきた。

活元運動を修得する時期においては、一応の区切り、というかここまでやっておけば意義はあったというのは好転反応を全部経過したあたりである。

活元運動の好転反応に関する記事はこちら

熱が出たり、あちらこちら痛くなったり、そういう反応が終わったらもう訓練法としての活元運動はやめても構わないと思っている。

だから「活元運動は毎日やった方がいいのか」という疑問については気持ちもわかるけれども、大切なのことは義務感のような自分への押しつけを避けることである。

まずなによりも意欲とか自発性が自然と発揮される自然な心を保つことが大事。

なぜなら「その気」になったときに、はじめて自分の身体は中心からすみずみまで動くからである。

引用からもわかるように「目が悪いがどうやったらよいか」という本人の関心がもっとも高まったところですかさず、「目を押える、そこへ気を集める」ということを指導した。

そうやってほんの少し見えた自発の動きを見逃さず、意欲の方向づけをする指導をしている。

活元運動にかぎらす、人間が普段の生活のなかで自然の健康を保つためには気の集中、気が集まることを積極的にやっていくことが大切だ。これによって眠っている体力が振作される。

逆に気が集まらないことをだらだらやる習慣がついてしまうと、今これといった病気をしていなくても、もうすでに健康は損なわれているといっていい。これはなかなか根の深い問題なのだ。

ただし気の集中というのは体力にも裏打ちされている。活元運動は眠っている体力を呼び起すものでもあるから、やはりからだの怠けている人は一定期間集中して行う必要はあると思う。

それでも「毎日やる」というよりは活元会などでみんなが集まったときに質の高い活元運動を丁寧に行うことを心がけるほうがいいだろう。

丁寧さ、細やかさ、というのは整った生活を支える基盤だ。回数を多くして自分自身が粗雑になるくらいならやらむしろやらないほうがよい。

だいたい小いち年くらい淡々と取り組めばそれらしい身体(整体)にはなっていくる。好転反応というのもだいたいその頃までにはおおむね終わるだろう(出る人も、出ない人も‥)。

どちらかというと一過性の特効薬的なものではなく、一生ものと考えて欲しい。中断があってもいいから一生付き合うつもりでいた方が、人生の要所要所で助けになるのではないかと思う。お守りみたいなものだが神仏に祈っているよりは、ご利益は確実にあるはずだ。

活元運動の目標(目的):「身心脱落 脱落身心」整った体に世界は正しく映る

質問〕座禅には悟りという目標がありますが、活元運動では、どういうことが目標となりますか。

 先ず体が無くなってしまう。心も無くなってしまう。つまり、手があるとか、胃袋があるとかいう感じは、そこが鈍いからなのです。胃袋がきちんとはたらいている人は、胃袋のあることを意識しない。体があると感じるのは、まだ体が整っていない、体が調和していないときです。そういうことで、先ず体が無くなってしまう。

心についても同じことが言えます。例えば「悟り」などということを意識している間は、悟りではない。無になっていない。体も心も無くなって、気だけが感じられる。生活自体が気の動きそのものになる。その気も、ただ一個人の気だけでなく、もっと大きな(宇宙的な)気と感応し合い、それと融け合いながら動くと、世界は一つになる。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 p.137)

活元運動は体が最短のコースを通って整う方法だ。

活元運動が上手に行われて体が整うと、引用文にあるように「整った」とか「悟り」とか、ともかくその時は「あー」も「うー」も無くなってしまう。

それどころか、肩がいつも凝っているからとか、緊張しやすいからとか、最初に悩んだり問題にしていたものも消えてしまう。

問題が解消したわけではなくって、相手にしていた自分が融けて消えてしまうのだから「悟り」と同質の体験といっていい。

「世界と一つになる」なんていう表現もあるので、いわゆる仏道の「見性」とほぼ同じものを指していると思う。

ただし「一つになる」というと、「もともと一つではない」という前提になってしまうのでこれには気をつけたい。

世界はもともと一個の一大活動体なのだから。

ただ人間は理性による「認識」でもって分別心がはたらくから、こちらは私、あちらはあなた、これはスマホ、スマホの画面、とそのカバー…etc、とかってどんどん(認識の上だけで)分化していく。

そういうふうに「分けて別にする心」が止めば、また一個があらわれる(本当は心がどう動こうが世界はお構いなしに一個なのだが)。

ただ「あ、一個になった!」といったとき、その瞬間また「私」と「世界」が分離している。一個になった世界を見ている人がいるのだから二個になっているのだ。

これが「鑑覚の病(悟った病)」といわれる悟りの矛盾である。

最初の引用にあった、「「悟り」などということを意識している間は、悟りではない。無になっていない。」というのはこのことを指して言っている。

これを坐禅の方で見てみると、鎌倉時代に道元禅師が宋に渡って修行を積んでいた折、ある坐禅の最中に「あ、いま身心脱落した(しんじんだつらく≒悟った)」と気がついてその時の師であった如浄禅師にさっそく訊ねたところ、師はそれを否定し、「身心脱落、脱落身心(いや、修業したから悟ったんじゃあなくって、最初から悟りも迷いも、何ーんにもなかったんでしょう?)」と教え諭した(正した)と言われている。

それで道元禅師もあらためて納得し、「ああ、そうですね」と言ってそれ以来、すっかり抜け切ってしまったそうである。

活元運動というのはそういう「悟り」みたいな到達点を設けないで、「身体の自然な動きに任せましょう」といって統一に向かう過程がそのままゴールになっているから「迷い」にくい。

「ポカンとすれば、もうそれでいい」という表現も、野口先生特有の国語力の高さというか、人をしてみだりに惑わせないための巧妙な表現である。

だからもしも「活元運動の目的は?」と訊ねられたら「その目的を捨てることだ」というのが当たりかもしれない。ただしそれでは納得されないので最初の引用のような表現になったのだろうと思う。

これを理屈だけで理解しようとすると極めて難解だが、活元運動が終わったときの場の雰囲気を知っている人ならだいたい意味するところはわかるだろう。

固い人も柔らかい人もやっていけば、やがてはみんなゆるんで整っていく。非常に安全で簡単で、人を選ばないのがいい。

体がゆるんでしまえば、生来の位置に整い意識は静まる。

この時には「わたし、と、あなた」といって分別するはたらきも休んでいるので、こちらの静寂が世界を満たす。

体は世界を映しだす鏡なのだ。

体がかたよって(鏡がゆがんで)いると、世界もゆがんで映る。

つまりかたよった体で何も見ても聞いても、あれが面白くない、これがつまらない、ということになる。

こんなとき、鏡に映った世界をいじくるのは賢い者のすることではない。

賢明な人ならば、まず鏡を直す(体を整える)ことに取り掛かるだろう。

すなわち活元運動が闊達自在に行われるとき世界は秩序を取り戻しみるみる動いていく。

この世界を取り替える必要など最初からなかったのである。

体が整うとき、世界も整う

そういうことを考えながら活元運動をやるのも本当はよくないけれども、根本はそういうことだと理解してからやる方が気持ちの面から言っても統一しやすいだろう。

たから「ポカンとして体の自然の動きに任せる、それだけでいいのです」というのは、人類全体が救われる道、世界を安んじる方法をごくごく端的あらわしていると言っていい。

活元運動は他人の力をいっさい借りずして、この自分の体だけを使って徹底的に救われる、そういう至高のものなのだ。

そういう非常に簡単なことなんだけれども、「正しい理解と実践」、この二つが揃わないと充分な恩恵は得られない。

ともかく、理屈は以上でおしまい。

あとは本当に、自分でやって、確かめてみると「ああ本当だ」と、そういう風にみんなちゃんとできていることがわかる。

それぐらい「いのち」とか「世界」っていうものは、間違いようのないくらい最初からしっかりしているのである。

誰も踏み外していないんだけど、なぜか落っこちる人がいるからそっちの方がふしぎなんだな。

やってみると、やがてはどこかで自分の体がちゃんとしていることがわかるものだ。

そういう意味で、いのちはみんな平等。それが納得いくところまでやられてみることをおすすめしているのだ。

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活元運動のコツ「雑念について」:ポカンとできない、ポカンってどういうこと?3

問(60) 坐禅中雑念が次々と出てきてどうしようもない時がありますが、そういう坐禅でも宜しいのですか。また雑念とはどういうものですか。

答 うんそれで良いのです。それが今の様に、皆雑念、雑念というて、自分で考え過ぎているのです。教えられたものを、出てくると直ぐそう思うのです。それが雑念なんです。

…<中略>…一寸出ると、アアこれが煩悩じやというて、そういう考えを以て取り扱う。そしてそれを無くしよう、無くしようと思うから、それで間違うのです。(井上義衍著『玄魯随聞記』龍泉寺参禅道場発行 p.77 太字は引用者)

さて、さらに昨日から引きつづきである。「雑念について」。ちょっとくどいかもしれないけど‥。

活元運動は「あたまの中をポカンとして自然の動きにまかせる、それだけでよい」ということになっている。

そのポカンが誤解されやすく「なかなかポカンとなれません」とマジメにがんばる方がいるので、「もっといいかげんでいいですよ」というアドバイスをすることもままあるのだ。

上の引用は坐禅の話なので方法論がことなるが、まあ大事なところは共通している。

つまり、いわゆる雑念だとか、煩悩だとかいうものは放っておけばいい、という。

ここでまた「放っておく」と聞くと、「放っておこう」とがんばる人もいるのだが‥。

ただしこういうことも言える。

坐禅と活元運動の両方を経験した立場からいうと、精神状態は微妙にことなる。

活元運動のほうは個人のからだの特性や状況、疲労度合に合わせて適度な運動がでるので、自分の体験としては統一状態、というか良い気分に入り込みやすい。

いや活元運動の優性を説いているわけではなく、坐禅の場合は生活全体が禅という態度で行われないと、一般の方が趣味的に行っているだけでは意識が静まりにくいと思うのだ。

もう一つには「活元運動が出ない」とか、「いろいろ考えてしまいます」というひとは、そもそもがあまり回数をこなしていない初心者の方が圧倒的に多い。

ひとつには「慣れ」、なのである。

だからまあ、いろいろ考えているよりも繰り返し活元会に参加して、意識も身体も気持ち良くとけてなくなっていくような感覚をあじわってほしい。

だいたい4~5回もやれば、動きもこなれてくる。

興味のないひとにまで教えることは非常にむずかしいので、そんなことまではしないけど、活元運動は覚えておくと本当に便利なのだ。

便利というか、本来なら必須のものと思っている。

だいたい月に一回か二回、活元会で行うとして、それを一年くらいつづければからだの調整機能は安定するし、意識が騒がしいひとならだんだん落ち着いてくる。必要なときに運動が出るようにもなっているだろう。

きっとそのころには雑念とかポカンとか、そういうことも忘れていると思う。整体というものはあたまの勉強だけでは不充分で、環境とか場の雰囲気にひたることで少しずつからだに馴染んでくるものだ。

やり方さえ教わったら、あとは気の向くときにどんどんやっていって欲しい。1年もするころにはいろいろな恩恵にあずかれるはずだ。

活元運動のコツ「天心について」:ポカンとできない、ポカンってどういうこと?2

きのうの活元会の話のつづきになるけれど、野口整体の本には「ポカンとする」という表現がしょっちゅう出てくる。

それで最近気がついたことがあって、その「ポカン」という言葉の印象がつよいらしく、何か本当に頭が空っぽになってまったく念が浮かんでこないことを期待するひとがけっこういるのだ。

俗にいう「無心」とか「無念無想」とかいう言葉のイメージが先行して、自分がきちんと目が覚めて活動しているときでも「頭のなかに何にもでてこない」、そういうことが本当にあるように思われるらしい。

当然のことながらいくら「ポカン」といったって、そんな状態などありはしない。

あるワケがない。

少しこれに因んで仏道のほうから言葉を借りると、「目耳鼻舌身意(げん・に・び・ぜつ・しん・い)」というのがあるけれど、

これらは「六根」といっていわゆる「五官(五感)」、プラス「意」。意というのは、まあ心とかイメージのことを指している。

人間として生きて活動しているかぎり、この六つの感覚器官はつねに付随する、ということだ。

目が開いていれば必ず何かしら景色が見えるように、生きていれば頭の中にはいろいろな言葉やイメージがいつも去来しているのが正常なのである。

健全というのはこの正常さがそのまま現れていることで、それ以上のことを期待するのは誤り、というか欲ばり?

ところが「瞑想」とか「精神統一」なんて作り事をやろうとすると、この正常なはたらきであるはずの意識の活動を邪魔に感じるようになってくる。

俗にいう「雑念」とか「妄念」という取り扱いをして、とかく浮いてくるイメージをどうにかこうにか押しとどめようとするのだが、これは全くおかしなことではないか。

このあたりについて野口整体の『健康生活の原理』という本に「天心について」という見出しから始まる一文があるので、下に引用することにする。

天心ということ

活元運動も相互運動も、行うときに一番大切なことは、やり方ではありません。「天心」であること、が根本です。

天心で欲のない、相手に何ら求めることもなく、恩を着せることもなく、ただ自然の動きに動く、そういう心の状態でやらなくてはならない。

親切にしてやろうとか、やってあげる、受けているというような心があったり、自分の技術を誇るとかいう心でしてはならない。

…<中略>…

「心を空っぽにすることは難しい、無心になろうとすると、あとからあとから雑念がわいてくるのですが…」と質問した人がありました。けれども雑念があとからあとから沸いてくる時は無心なのです。

心が澄んできたから、雑念があとからあとから出ては消えるのがわかるようになったといえる。或る雑念が心から離れないで、次の雑念を生み出すようだといけないのです。

だから浮かんでは消える雑念のまま手を当てていれば動き出してくるし、動き出せばひとりでに雑念がなくなって、統一状態になります。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.124-125 太字、改行は引用者)

このように、つねに何か浮いては消えていくのが生きているこころの実相といえる。

そのために、からだを静止して自分の念の動きにフォーカスしてみると、いろいろなイメージが流れていることにはじめて気がつくのだ。

ところがそういう中に、他人を悪く思ったり、欲心めいたことが浮かぶとすぐそれを「雑念だ」、という人がいる。

わたしに言わせれば、そういう風にただ浮かんできたことを追っかけて、これは良いとか悪いとかいうこと自体に不自然さがある。

むしろそういう行為こそが人間的な欲心ではないかとすら思うのだ。

例えば雑草なんていう言葉もあるけれど、もともとはこの世界に雑草という草はない。

ところが庭の手入れなんかしていて、この花はのこそう、この草はむしろう、そうやって分別心を起こすから「雑草という取り扱い」が出てくる。

別にそのこと自体、人間の生活を邪魔しているということはめったにないのだが、そこに好悪の情を持ち出すから障りになるのである。

「雑念」というものもこれと同じだ。

頭のなかに出てきたものは、別になんにも邪魔にはなっていない。

悪心といったって欲心といったって、そんなものはそれを相手にしているわずかな時間だけが問題になるのであって、一日の生活全体を見渡してみれば、風呂に入ったりお茶を飲んだりして、そのことがすっかり消えている時間もいっぱいある。もとより人畜無害のものである。

そんなものをいちいち振り払おうとしてみたり、呼吸に集中するだの、数を数えるだのいろいろやって、それでも「気がつくと考えちゃってます」なんてやっているのは、徒労以外の何ものでもない。いわんや自分の念を怯えて逃げ回っているなど滑稽の極みではないか。

もっともっと、自然の、あたりまえの在り方について目をつけるつもりでいたらいいじゃあないか。

訓練してようやくそうなるような話ではなく、普段の一日の生活のなかにだって「ポカン」としている時間はいくらでもある。

おそらくは今朝だって「無心・無念無想」で靴を履き、出かけていったひとがほどんどだろう。

そういう時にはいっさい気にならないものが、ちょいと「集中」とか「精神修養」めいたことをやろう、なんていうともうそれが気になってぐしゃぐしゃになってしまう。そんな人が存外多い。

ただ、そのまんまにしておいたらいい。

放っておけば出てきたものは即座に消えていくことに気づくはずだ。

瞑想だって活元運動だって教える人が「きちっ」としていれば、そういうこともおいおいわかってくるはずなんだけど。

むしろ一つの「雑念」を三日も四日も、ずーっと取って置こうと思ったらそっちの方が大変ではないか。

消そう、流そうなんて思わなくたって、こころに浮かんだものはいつだって自然に流れていってひとつも跡を残していない。なんだ、みんな最初っから無心だったんじゃあないか。

それに気がついたらもう作り事はやめてその最初のところに帰ればいい。いや、実際ポカンてなったら帰ることすら忘れるんだけど。ポカーン‥。