〔質問〕 活元運動をやりますと、身体のよくなってゆくのが、波のように、よくなったり悪くなったりしてゆきますが?
答 よくなったり悪くなったり感じるのです。感じるだけで、体はよくなる方向へと進んでいる。人間の体の感覚で、それを強く感じたり弱く感じたりする。
例えば打身をして痛みのない時に、活元運動をすると、痛みを感じだしてくる。感じだすこと自体はよい傾向なのに、多くの人は先入主で、痛みが起こったら悪くなったと思うのです。
熱が急にでる、これも排泄現象で良い傾向なのです。けれども、前の先入主で、それを悪いと思う。それで波を感じる。そういう場合が一つ。
それから体自体にそういう波があるのです。調子がよい時と、陰気になってくる時とがある。そしてそういう波で反応の出方が違う。
そういう二つの場合があります。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 p.143)
これは活元運動の反応だけに限定されず、個人指導で愉気を受けた場合にも適合する話である。
人間とは、生命とは波である。
バイオリズムという言葉の発現を待つまでもなく、全てのいのちには「ゆらぎ」の性質があるのだ。
だから同じように活元運動をやっていても、何ともないでいる時期と反応が出やすい時期があると思っておいた方がいい。
全般に体が整っている人ほどこの「波」がはっきりしている。
健康というのはこの気分が常にいい状態だと思われがちだがそれは違う。
低潮・高潮の波は一定の周期で常にあるのだ。小さい波でいえば、心は10日、体は7日で動いていく。
だから心の低潮と体の高潮がかさなったり、その逆のときなどに「調子が悪い」と感じるなど、妙な感じがするのである。
それをどうこうするという話ではなく、「そういうもの」なのだ。
そこで整体生活を営むなら、一つには「待つ」という技術を身に付ける必要がある。
病気を上手に経過させるのだって「待つ」ことだし、気分の浮き沈みなどもいちいと取り合わずに待っていれば、大抵のものは自然と流れていく。
整体法とは極論を言えば、時を待つこと、そして波に乗るなのだ。波に逆らわないでいられるように心と体を鍛錬していく。
「鍛錬」といっても変に苦しむような話ではなく、活元運動で体がやわらくなっていくことで、息は中庸となり、自然と待てるようになる。そういう方向に鍛えていく。
一つには「慣れ」もある。慣れてくると少々の体の変動ではおどろかなくなる。付け加えておくと、病気に「おどろかない」ことと甘く見ることは違う。
あくまで慎重に、それでいて落ち着いて自分自身の経過観察ができるようになってくるものだ。
その第一関門として活元運動の反応期は便利といえる。興味を持って自分の変化を見ていくと知らぬ間に反応は終わっていると思う。
反応期を有意義に過ごすコツは、体の変動よりも息の深さを注視することだろう。