活元会 2017.11.16:人生の危機の克服

前回の活元会ではまた『ユング心理学と現代の危機』を教材として使いました。

本書内の「ユングの「精神的危機」と個性化過程  5 人生の危機の克服」の部分には、ユングが自ら精神の危機的状況に陥った際、他者の手助けを借りつつも自分の力で乗り越えて行くプロセスが綴られています。

このように自分の心と体に主体的に取り組んでいく姿勢は、整体指導に求められるものと少し似ています。野口整体の整体指導とユング派の精神分析の共通項は、クライエントが自分で治っていくという点にあると言えそうです。

精神的危機の克服

精神科医であるユングは、心の病をはっきりと自覚した時、自らその治療に取りかかった、まず今までの半生を振り返り、特に自分の幼児期の記憶に注目してみた。これは、心の病の原因が幼児期の親子関係や外傷体験にあるとするフロイトの理論にも従ったものであろう。しかしそこからは何も得られなかった。そうするうちに、10歳から12歳頃夢中になっていた「石積み遊び」のことを思いだした。ユングは自宅のそばのチューリッヒ湖の岸辺に行き、いろいろな形の石を拾い集めて、家や城や教会のある村を作り始めた。先述のように、その頃ユングは開業医として自宅で患者の診療を行なっていたが、診療の後あるいは昼休みの時間までも、時間が空けばすぐに湖岸に行き、建築遊びに没頭した。
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活元会 2017.11.2:その人の心を清めるように動いてゆく

活元運動に上手下手はございません。

…そういう意味で敢えて進歩を言うならば、心が天心で、その人生観が自然に従って素直に生きてゆくということです。そういう自然の感じ方が身につくかつかないか、意識的な努力、意識的な気張りでやっているかどうかということが、上手と下手を分けると思うのです。

そういう気張りがだんだんなくなってくると、運動も自然になる。運動の現象が変わらなくとも、運動の内容はその人の心を清めるように動いてゆくと思うのです。つまり上手下手でなくて、その自然の感じというものが身についたかどうかということの方に問題があると思います。(『月刊全生』平成28年2月号 pp.11-12 活元運動について 2 太字は引用者)

今日は11月最初の活元会でした。上は教材からの引用です。

活元運動をやっていくことによって、自然と人生が良い様になっていくことを説いています。

文中に「心を清める」、「自然の感じ」という表現がありますが、 “活元会 2017.11.2:その人の心を清めるように動いてゆく” の続きを読む

影をなくした男

シャミッソー作『影をなくした男』を読んだ。

wikiによるあらすじはこちら

物語の主人公シュレミールが自分の影を大金(無限に金貨が出てくる袋)と引き換えに悪魔に売り渡したことからさまざまな出会いと別れ、そして深い自己内省の後に開かれる第三の道。

まさしく個人の人生の縮図として象徴化された物語といえる。そこで、シュレミールが手放してしまった「自分の影」とは一体何を象徴しているのか?という深読みが他の本やネット上でよくなされている。

心理学的に読もうとするならば、まず「影」といった場合それは「心の中に潜在する上手く生きられていない自分」を指す。

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活元会 2017.10.19:ユングが直感した西洋的自我(理性)の限界性と身体(感覚・感情・無意識)に秘められた可能性

今日は活元会でした。

いつもいいますが長く続けている方は運動が変わってきます。だいたい腰椎部の芯から動くようになってくると、「ああ、それっぽいなー」という感じがします。

長いと言ってもそもそもうちの会自体が古くはないので、3~4年くらいですけれど。

それでも新しい方が来てはじめられると、前から来られている方には年季を感じます。私は三日坊主の王様みたいな人間ですが、こんなときはやっぱり「継続」って大事だなって思うものです。

さて、今日の教材は前回に引きつづきこちら。


『ユング心理学と現代の危機』湯浅泰雄、高橋豊、安藤治、田中公明の四氏の共著 河出書房新社。

前回は高橋豊氏のパート「ユングの「精神的危機」と個性化過程」の最後のところを使ったのですが、今回は改めてこれはもう一回読み直そうということで頭から使うことにしました。

ユングの無意識体験(予知夢)というところですが、ここはユングが第一次世界大戦に先立っていろいろな悪夢を見る話です。

いわゆる理性を主体とした西洋的自我の限界と行き詰まりを早々に予見して、その暗々裏に肥大していく人類全般の危機的状況をいかにして打開すべきかというテーマでユングの個人的思索がなされていく、その序章です。

本の題名はユング心理学と現代の危機、と銘打ってあるわけですが、私としては「日本の現代」に限定して考えるのがライフワークみたいなものですね。

近代以降の日本は理性(頭)に偏ったことで感覚や感情(身体)というものがだんだん希薄になってきているのが実状です。

そこで「野口整体」というものがその感覚・感情というものを呼び戻すための手段として使われるのが、一つの有効な利用法であると考えています。

とりわけ都心にあっては自身の感覚に沿って体を使うということが少ないものですから、活元運動で五感をよく目覚めさせて、生活することで頭と体のバランスをとっていくとちょうど良いのではないかと私は思っています。

年を取っていても、病気があっても、体力がなくても、活元運動はできますから身に付けておかれて損はないものです。自分の体の可能性を開拓していきましょう。

今月は次回が最後、10月28(土)です。

活元運動は体を敏感に保つために行うもの

活元運動をやると、胃腸が自然に動き出します。けれども、潰瘍を治そうと思ったり、そういう雑念で活元運動をやったのではよくなりません。

本当に無心(天心)でやり得れば、潰瘍もなくなります。

ですから、病名がつけられるほど体がこわれて、それから治すことを決めるといったやり方は、泥棒が出て行ってから縄をなっているようなものです。

いや、泥棒を見て縄をなうより、ずーっとおそいんです。

なにか異常を体に感じたときは、敏感にそれを感じて、すぐに治すことが体の裡で行なわれなけれなくてはならない。

活元運動をやっている人の体は、自然にそういう働きが出るのです。

活元運動は、病気が対象ではありません。

体がこわれて、そのことをすぐに感じて、そしてただちに恢復作用に結びつく――それが活元運動です。

人間の体は本来がその様にできているのですから、そういう人間の持っている本来の力を充分発揮する体に還る、という考え方が一番大事なことであります。

(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 p.146 一部改行は太字は引用者)

活元運動をやるうえでは「身体のもともとの自然を守る」ということは大切な目標の一つです。

そのために無心・天心、あるいはポカンというように、心の状態をできるだけ虚にして行うようようにする。

人間はこれまで頭を働かせることで自然を操る方法を講じてきた訳ですが、うらを返せば頭を使えば使うほど、人間はその分だけ自然から逸脱した存在になる、ということです。

文明社会にあって頭を有効に使うことはもちろん必要だけれども、その一方で頭をつかうことの弊害というか、デメリットも知っておかねばなりません。

つまり考え過ぎる(全身の中で頭の働きに偏ると)と、自律神経とか錐体外路系とかいわれる無意識に体のバランスをとっていく作用が停滞してしまうことがあるのです。

これが心の病気現象として現れたのが「うつ」だし、身体上に現象しているのが「癌」とか「肝硬変」というような冷えて固くなる系統の病気です。

このような病気現象になってしまうのは、それだけ身体が自然から遠ざかっていることを意味しているので、治療するにしたってその方法は人工的なものに拠らなければならなくなる。

あるいは「これらを治そう」となど思って活元運動を行なうことは、無心とは逆の方向に努力していることになります。

本来、愉気とか活元運動といったものは、病気があるとかないとか、または治る治らないとか、あるいは生きる死ぬとか、そういったこととは別の次元で行わればければならないのです。

全身の無駄な力が抜けた状態で、ただ「そのこと」を「そのこと」としてやる。

そうすることで体の自然が保たれ、逆に「自然から逸脱する」わずかな動きも敏感に察知できるのです。

そして早め早めに、身心のバランスを本来あるべきように保っていく。そういう生活態度のことを総じて「整体」と、こう呼ぶのです。

こうすることで薬とか手術とか、そういう大がかりな方法に拠らなくても、自分の健康を自分で保っていけるように主体的に行動していくことを「養生」といいます。

活元運動というのはそういう養生の在り方をもっともシンプルに体現したものといっていいかもしれません。

これさえマスターしておけば他のいろいろなこと、健康を保とうとする知識や方法をずっと省いて生きていけるのです。

治そうとしているうちはなかなか治らないのに、そのことを忘れて生活していると知らないうちに治っているうようなことはよくあります。

沢山の知識を身に付けてもなかなか安心を得られないけれども、たった一つ「無為(自然)」を味方につけることができたら、そのことだけで終生深い息をして生きていける。

最初から有るものを、そのまま、その通りに使えばいいのです。

野口整体が引き算の健康法といわれる所以もここにあります。

活元運動は生命の根源的統一へ向かう動き:不変を以って万変に応ず

そこで、活元運動をやっていると、体全体の運動が統一されます。もちろん胃袋は筋肉の運動によって左右できるのだから、体全部の運動系とみな関連があるのですから、活元運動をやっていれば、自然に(胃の)酸が調節されていきます。

酸の多少にかぎらず、胃袋が下がっているのは上がってくるし、ふくれているのは縮むし、潰瘍もなくなっていきます。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.145-146 改行は引用者)

活元運動は特定の病気に対する治療法ではなく、全身のバランスを取り戻す方法として行うものです。

病気が治るのはあくまで副次的効果であって、それは全身のはたらきが「ある一つ」の目的に統一された結果として得られる当然の結果といえます。

本来は全心身の協調性の回復こそが活元運動の目的です。

胃酸過多、胃潰瘍、あるいは胃下垂などなど胃袋だけに着目してもさまざまな名前の「病気」がありますが、その一つ一つの「動き」に病名をつけて治療手段を講じ、施していくとなるとその方法は今後も増加の一途となり幾多になるかわかりません。

これとは逆に、人間が生きている「はたらき」という漠たる一点に目を着けて、その無形の力の発奮だけに注力すれば道は容易に体得されるでしょう。

人間に始めに備わっている、「変わらないもの」をよりしろとして、千変万化する現実に自在に対応していけるのです。これまでの人間の歴史がそれを証明しています。

限られた時の中で、「人間」あるいは「生命」というものの根本を掴みきることが整体の目的です。ただし掴んだら掴みっぱなしではなく忘れてしまうこと。最後は元へ還ることがとても大切です。

活元運動で吐き気がしてしまう人は最初の呼吸法(邪気の吐出)をしっかりやること

質問〕 胃酸が出すぎて治りません。活元運動をやるとよくなると伺いましたが、胃酸の多少と活元運動の関係についてお訊ねします。

 生理的にみると、首からきている迷走神経が働くと胃酸の分泌は多くなります。胃酸自体は、腎臓から捨てる尿酸のうちの捨てきれなかった分であって、いってみれば廃物利用です。かなり筋肉が疲れないとその酸はできません。

つまり筋肉をつかって尿酸で捨てて、その余ったのが胃酸になるのです。

ですから筋肉を使わないとお腹は空かないが、しかし、迷走神経が働くと、それだけでも胃酸は分泌されるのです。

活元運動をやって首の運動が出すぎると、吐き気がすることがあります。それは胃袋の運動が亢まり過ぎたからです。そういう首の運動が出ると、迷走神経が働いて自然に胃酸の分泌は多くなります。

病気の名前はいろいろあります。胃酸の多いのもあれば、少ないのもある。

多すぎて潰瘍を起こすもの、胃袋が縮まっているもの、拡がっているもの、下がっているもの……いろいろですが、要するに胃袋が正常な働きをしていないというだけのことです。

(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 p.145 一部改行・太字は引用者)

活元運動をはじめて行なうときに一定の割合で「吐き気」や「めまい」を起こすひとがいます。実は私自身も最初そうでした。

ですから「活元運動をしたら気持ちがわるくなりました‥」という方のお話を聞くとそのときのことを思いだします。

これは首周りの筋肉が充分ゆるんでいないとそうなりやすいのです。

その場合は準備動作である「邪気の吐出」、これを入念に行うことで予防できます。

息を吐く動作のときに全身の緊張が細胞レベルでゆるんできますから、これを何度も何度も、あくびが出てもやめないで繰り返していくことで上半身を中心に力が抜けていきます。

首・肩・肘までがくったり力が抜ければ、運動中にめまいや吐き気を起こすことはなくなります。

活元運動で気持ちがわるくなる、という方は邪気の吐出を丁寧にやってみましょう。

活元会 2017.10.14:「個性化」とは?人生の後半に充実感を持たせるための大切なプロセス

昨日は活元会でした。

今回の教材はこちら。


『ユング心理学と現代の危機』河出書房新社

著者は複数、湯浅泰雄、高橋豊、安藤治、田中公明の四氏。うち、高橋豊氏のパートから。

テーマは「個性化」です。

まず「個性化」というのが少し専門的ですから、これについてまず河合隼雄先生の『ユング心理学入門』より引用してみると、

個人に内在する可能性を実現し、その自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程を、ユングは個性化の過程(individuaton process)、あるいは自己実現(self-realizaation)の過程と呼び、人生の究極の目的と考えた。そして、われわれが心理療法において目的とするところも、結局はこのことに他ならないのである。(河合隼雄著『ユング心理学入門』培風館 p.220 太字は引用者)

と、このように書かれています。

この「自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程」というのをもう少し平易に表現すると、

自分の人格の成長を思って努力している過程」というような表現でもよいと思います。

この個性化こそが心理療法の目的である、というのが河合先生(元はユング)の論です。

そこで「どのようにしてその個性化を行なっていくか」ということが問題になるわけですが、ユングは自身の精神的危機を乗り越えて行く過程で「ヨーガ」を活用したと言われているのです。

つまりユングは当時の西洋にしてはかなり前衛的な試みとして、身体を通じて心の再編を行なうための実践的方法を追及していました。

そこに一つの強力なガイドとなったのが東洋思想と、東洋的な身体行法であったと考えられています。

当然ユングは年代的にも地理的にも日本の活元運動の存在は知るよしもありませんでしたが、この意識を閉じ、無意識に任せて行う活元運動は、自我を高次の全体性へと向かわせる手段として、非常に適しているものなのです。

野口整体には「全生」という、心を自我という枠から解放して命を全うする生き方を推奨する、教義があります。

これは先に挙げた心理療法における個性化、あるいは自己実現という概念と目標をほぼ等しくするものです。

当会の場合は、その「全生」あるいは「個性化」という方向へ生命を向かわせるための大きな推進役として「活元運動」を位置づけています。

何ごとも「目標をどこに置くか」で着地点は変わるものです。

志ある方は「よく生きる」という目標をもって、全身のちからを抜き、意識を鎮め無心のちからを体得しましょう。

次回、次々回の活元会は、10月9日(木)、28日(土)です。

アレルギー症も活元運動をやっているだけでよいのか:それ以前に整体の生命観を理解することが大切

質問〕 アレルギー症も活元運動をやっているだけでよろしいのでしょうか。

 アレルギーというのは敏感な、感じすぎるという状態です。

活元運動をやっていると、一時はその過敏が強調されるが、すぐに正常な状態に還ります。

鈍いのよりはいいです。

アレルギー症には、体のアレルギーと頭のアレルギーの二つの場合があります。

頭で空想すると、ちょうどレモンを見ると唾が出易くなるように、空想すると体に過敏に作用しやすいというようなのが頭のアレルギーです。

活元運動をして良くなるのがは体のアレルギーの方です。体のアレルギーの人が活元運動をすると、一時過敏が濃くなります。

それから良くなります。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.144-145 一部の改行・太字は引用者)

この『健康生活の原理』が出版された昭和51年から比較すると、アレルギーを持っている人は格段に増えている。

全般に体の過敏反応を呈する人が多くなってきているのだ。

個人的にはアレルギーと聞いてまず浮かべるのは花粉症とアトピーなのだが、活元運動をやっていってこれらが劇的に解消するかというと、なかなかそう単純なものではない。

わたし自身花粉症とアレルギー性鼻炎を持ち合わせているけれども、野口整体をやってからどうなったかというと、そんなには変わっていないのである。

ただし野口整体流の病症観を知ったことによって、同じアレルギーが出るにしても対応の仕方はまるでちがう。

整体流のそれというのは兎にも角にも「まかせる」というもので、体を整えることで本来のはたらきを高め、その邪魔をしないことなのだ(※ただ放っておくことではない)。

これについて畑は異なるが、精神科医の神田橋條治氏が述べる精神療法についての説明が非常に的を射ているのでここに少し引用する。

精神療法とは、自然治癒力と自助の活動とを活性化し活用することである。その方針をコトバでまとめると、「引き出す」「妨げない」「障害を取り除く」となる。(神田橋條治著『精神療法面接のコツ』岩崎学術出版社 p.32 太字は引用者)

このように整体指導、精神療法のいずれにしても、原則的には「クライエントが自分で治る」という「可能性」に着眼し、これを暗に助勢する行為なのである。

つまりは「生命」というのは「狂うこともなければ、冒されることもない、全きもの」、という信念が先ず真ん中にあって、治療者はそれをただ「みている」だけという構図に集約されていく。

だからアレルギー反応についても「出るものは出るにまかせて、どんどん出してしまう」という、そういう態度に徹しきってしまうのだ。

事実そのように考え行動していけば、体に対する背きがないぶんだけ経過はなめらかになるのは当然である。

また妻を例に挙げると、産後アトピー性の皮膚炎がだいぶ出たのだが、とにかく「何もしない」で経過を見ていくこと1年、2年、3年、‥ようやく最近肌の感覚がふつーに戻ってきたというではないか。

これが果たして「活元運動をやっていたから」なのかどうかは実証できないけれども、ともかく炎症を薬で抑えない、外から保湿もしない、落屑(らくせつ:肌のぽろぽろ)もなるだけ手をつけない、そういう手法でずっとやっていって、中庸の速度で治る方向にずっと動いてきているのは事実である。

わたしのところには野口整体を標榜していることで「アレルギー」にかぎらず、実際にはいろいろなことを頼まれるけれども、最初の関門はこの「思想」に関する理解と共感である。

これがないと整体指導も行えず、活元運動もお教えすることはできない。こちらがいくら教えようとしても相手の「判断」の壁にはじかれてしまう。

本当なら「指導」というのはそうした教育までが含まれるのかもしれないのだが、一方では「憤せざれば啓せず」というもので「教育」というのは指導力と理解力(と求める力)の乗算で成果が出るものだ。

とりわけ生まれてから長いあいだアレルギーに悩まされてきた人にとっては、価値観の転換こそが大きな障壁であると同時に、可能性を開く鍵になる。

言いかえると野口整体の本質を見抜く直観力と継続力、これによって体質改善の扉は開かれると思う。

活元運動をつづけていくと‥

質問〕 長い間活元運動をしている人は反応の三段階が終ってから、運動が変化していますか。

 その日その日の体の使い方で、それを調整する運動が起こりますから、始終変化しています。

ただ必要な運動が端的に出るようになりますから運動時間が短くなります。

多摩川の向こうに幼稚園がありまして、そこで子供達が毎朝活元運動をしているのです。

すると、他の幼稚園では怪我する子が日に何十人か出るのに、そこでは一人も出ないそうです。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 p.144 一部改行は引用者)

活元運動は「一度出るようになった」らおわりという訳ではありません。

つづけていくことで運動の質的変化があります。

ひとにもよるけれど、はじめのうちは何か騒々しい感じの運動が出ることが多い。

また手さき足さきの運動が目立つ段階から、つづけていくことで体幹、背骨といった中心側が精妙に動くようになってくる。

年齢からくるものもあるかもしれないが、だんだん運動の質が綿密・精巧になっていくと思っていれば間違いない。

引用には子どもにやらせると怪我をしない云々というところがあるけれど、これは子どもに教えたことがないからわからない。

ただし大人の場合、転んだり手を滑らて物を落っことしたりするのはあきらかに錐体外路系という、無意識のバランス機能が鈍っている。

活元運動の必要性の高い状態だ。

反応期がおわったからといって、それが全てではない。

一度自転車に乗れるようになったって、乗るときはいつも倒れないようにバランスを取り続けているのと同じような感じです。

体を守る見えないバリヤーというか、今まで自分で自分を保護してきた力を高めていくようなつもりでつづけていくといいだろう。