愛と心理療法

かつては蔓延する偽スピリチュアルに辟易していたので、仕事をはじめるときには「フィジカルに徹す」と誓ったものだ。しかしながら臨床の場になるとやっぱり肝心なのは目に見えない部分であると思う。結局のところ「整体」といえども、最後は心で心を満たしていく世界なのだ。相手が治る時には自分も癒されている。自他の「境界」があるうちは魂の救済はできない。

ところで痛みや症状は「無意識と意識のズレ」を知らせる警報のようなもので、これを無やみに止めてしまうことは道路の信号も標識も見ないで車を走らせているようなことになってしまう。病気も怪我も苦しい現象ではあるけれど、これあって人は成長するようにできている。

生活するその人を丸ごと観るという取り組み方は心理療法と整体の共通点である。人の命や人生に直結した行為だけにカウンセラーや整体指導者の倫理観とか道徳観念が問われる。自分の価値観で人を導くのだから責任は重い。

そんなことを考えながら黙々と仕事をしていた矢先、本棚の奥からM.スコット・ペックの『愛と心理療法』が出てきた。英題は “THE ROAD LESS TRAVELED” 「行く人の少ない道」。これを大学時代に結構な情熱を傾けて読んだものだった。

赤ペンと付箋が所せましと置かれ、10年前の自分に対して「この人は心理療法家になりたかったのではないか」と郷愁にかられた。かなり大胆に言えば人生は成育環境で9割は決まってしまう。もちろん完璧な親などいないのだから家庭での教育だけで十全な人格に育つことはむずかしいとしても、自分の心の穴が理解できていない間は人生の岐路で何度もつまずいてしまう。

愛と憎の念が潜在意識でこんがらがっていると、豊かな人づきあいがわからなくなってしまうのだ。この世は人を信じて生きられれば楽なのだが、それをゆるさない記憶がこびりついている間はいつまでも生きづらい。「あなたはあなたでいいのよ」と言われなかった人ほど、心のどこかに愛に対する懐疑や怖れが潜んでいる。野口整体の愉気にはそういった傷を癒す力があると言ったら過信だろうか。

気がついたら自分の半生をを振り返る作業にもなったが、人生は一見無軌道ようでも見えざる道がある気がした。潜在意識の御業なのか。人の一生に寄り道はあっても無駄はないと思った瞬間だった。

 

冷たいもの

「冷たいものは食べない方がいいんですよね?」と聞かれると前は「そうですねぇ。」と言っていたのだが最近「うーん、私はあまり食べませんけどそれが良いかどうかはわかりません・・。」と答えている。その人が何歳位でどういう生活をしているかにもよるし、食べるタイミングや量など程度の問題もあるように思うのだ。

うちでは昨年は夏場もお客さんにアツアツのほうじ茶を出していだが今年は水を出すことが多い。冷たい水を飲むとお茶を飲んだ時に比べて汗の引きが早い。発汗で身体を冷ます必要がなくなるのだろう。

昨年の夏あたりから日本でも36℃を越す猛暑日が当たり前のようになって、「熱中症」の事故が急騰している。そういう環境の中で、誰が言ったかもわからない健康の観念で「冷たいものは食べない」というだけでは対応しきれないのではないと思う。

身体をみているとどうも熱気も寒気も身体の中に蓄積するようである。中には身体の「芯」に熱がこもった感じの人がいるので、そういう時にはごくぬるめのシャワーをすすめると軽くなったと言われる。また「プールに行ってきました」と言う人の身体を観たらほんとうに楽そうだった。

実地で見ていると、外から冷やすとということも有効だけど、冷たいものを飲むというのも熱が抜けるので単純に「悪い」とは言えない。極論としてはどんな刺激も身体に合うか合わないかという話だ。合うものは快感が沸き、合わなければ沸かない。身体感覚は裏切らない。どこまでいってもこちらを重視すべきだ。

行雲流水

自律神経失調症の相談を定期的に受けるのだが、これについてはいつも投薬医療の限界をまざまざと感じる。そもそも医学的には明確な定義はないらしく、根本的な治療法もないのだそうな。

整体的な観点から言えば、気が上がっているだけだからこれを下げれば落ち着く。気と言ってわかりにくければ気分の浮沈でもいい。どちらもレントゲンに映らないものだが、これ系の疾患は整体の独壇場である。

気が上がった状態というのは、呼吸が浅く脈は早い。昔の生活様式なら木造の家屋で座って飯を食い、畳の上で眠ることで落ち着けたのだが、今は一旦気が上がってしまうと何日経ってもそのままである。やがては病気にもなるのだがそれは気を下げる働きであって、畢竟病むから治るのだ。

気の上がり下がりに因んでいえば、臨済宗中興の祖と言われる白隠という坊さんが坐禅修行で身体を壊した話が残っている。この時に行ったイメージ療法が内観法とか軟酥の法といわれるもので、端的に言うと呼吸と意念操作で気を下げるのだ。後々には剣術家などにも愛好された方法で、その歴史が効果の高さを保障している。昔のものだからといって侮れない。

整体で求める姿もお腹の下や足の裏まで気と重心が落ち切ることである。正坐で事は足りるのだが活元運動で偏り疲労を正してから坐った方がより有効だ。端的に言うなら徹底坐り切ったらもう「そこ」で決定(けつじょう)する。だから治療では遅い。只管打座でもズレる。自然にただ有ればいい。自然に。

エレファントシンドローム

むかし習っていた空手の先生が「人間の体力の限界は想念の遥か彼方にある」という言葉をよく話されていた。

道場には選手クラスのための強化練習というのがあって、インターバルトレーニングでミット打ちを延々延々繰り返すのだ。一回、一回、全力を振り絞り、今までの限界を突き破る勢いでやるので途中から酸欠になり意識が遠のいてくる。

そこで「もう駄目だ・・・」と思ったらとたんに目の前が暗くなって動けなくなる。(失神してる人もいたな・・)だが「まだぜんぜん動ける!」と思うと体はその瞬間に透明になって、重さがまったく消えたことがあった。今にして思うと天国に近かったのかもしれないが、「気力」というのを実感した瞬間であった。

ここまで極端でなくても気を集めると今まで到底できなかったようなこともやれてしまうし、気が散るとさして大変でないことも途中で投げ出してしまう。

そもそも気力というものの正体とは・・、「気って何?」と考えさせられる事例だった。

それからもう一つ先生から聞いた話で、インドのゾウ使いは子ゾウのうちに首輪を付けてヒモの先を竹に縛り付けるそうなのだ。そうすると大人のゾウならまだしも子ゾウの力ではガッチリ根を張った竹は抜けない。

そのまま大人になると竹を引き抜く力が付いてももはや引っ張る気力すら起きなくなって、やがて無気力状態になるという。こうなると人間がそのヒモの先を棒切れに巻いて地面にプスッとさしてるだけでじっとおとなしくしている、というちょっとぞっとする話であった。

事実かどうかはわからないが、人間の精神についても思い浮かべられるのだ。世の中には目に見えない縄で自分をがんじからめにして身動きが取れなくなっていることが存外多いのだ。

この見えない縄の正体をつかみ出して、相手にその「思い込み」が消えるような言葉をかけることは整体の技術の大事な所だ。

つまり思考が固い人というのは身体のあちこちにコリがある。股間節なんかも堅くて歩幅が狭くなっている。ちょっとしたことでもマイナスの方向に思いつめると表情が硬くなってくるし、そして表情筋がこわばると逆に良い思考も生まれない。

こんな風に怒ればコル、ゆるせばユルむの通りで身体をユルめていくと、物質的な行き詰まりから脱して建設的な選択肢が見えてくるものである。

いわば身体の稼動域 イコール人生の稼動域と言っていい。整体やボディーワークが流行っている要因も心理的な問題に端を発しているのだ。

活元運動もやる前は得体が知れないけれど熟練者の愉気で誘導してしっかり運動が出るようになってくれば、何のためにやるのかというような質問はおのずとなくなる。終わったときの精神と肉体のあり方がそのまま答えになるからだ。

力は生きてるうちに使い果たすべきなのだ。一日一日、全力発揮こそが生きていることの醍醐味である。それこそが生んでくれた親と、命を持たしてくれている大自然への恩返しになる。「限界」は思考が生み出した嘘なのである。そもそも「存在」というは最初っから底が抜けているのだ。悟りはいつだって努力と無縁の「気づき」の中にある。

何だか最近電話の問い合わせやら通院されている方から「整体を教えてください」と言われる。人にモノを教えられるような境涯ではないので教授はお断りするよりない。

野口整体は受けてみると「自分も人にやってあげたい」と思うのが特徴かもしれない。思い起こせば自分の発心もそんなところにあったような気がする。

一般的には「技」の修得が必要だと思われるかもしれないが、整体は身に付けるのではなく余計なモノを取修行である。これはいわゆる禊(身削ぎ)だ。「この人にやってあげたい」という気持ちを「そのまま」手当てにすれば即座に愉気になる。

しかしながら「そのままやる」のが至難なのだ。整体では余念のないことを天心と説くが、そこで天心を求めると天心に背く。ただひたすら「そのまま」やること。

ただし、一度磁石にくっついた鉄は磁気を帯びる。これと似た感覚で愉気を受けた経験がある人なら手当ては誰でも、やがては出来るようになる。あえてこつを言うなら、淡々とやること。結果を期待しないで静かに手を当てれば上手くいくだろう。

心・技・体の言葉通り、最初に心が来れば技も体も付いてくる、と思う。

整体指導は呼吸が静かになったところで終わる。息が安定しているのにさらにいじるとかえって疲れてしまうので時間に関係なく止めた方がいい。

息が静かで深ければ問題事はみんな消えてしまう。息が入らないような身体だと何をしても上手くいかない。畢竟、世界を映しだすのは自分の心である。「息」が静かなら「世界」も静かなのだ。

斯様に息はあなどれない。息することが生きる事ともいう。この事もよくよく考える必要はないだろうか。

減食

この1週間くらい「食欲がない‥。」という方ばかりだった。しばらくじめじめした日が続いていたので呼吸器が疲れているのだろう。肺が疲れて何で食欲がないんだというと、食べ物を入れない方が疲れが抜けるのだ。それで1日2食以下にしてもらうと、ほとんどの方が2、3日で元気になる。

動物は病気や怪我をすると食べなくなるが、減食・断食は一番手ごろな養生法だ。発明家のエジソンは常人の半分の食事と睡眠時間で起きている間のべつ働いていたそうな。余計に食べると余計に寝てしまう。動けなくなったら食事を減らすのは賢明な手段だ。

もとより意識が醒めていれば食べすぎることはない。心の静けさが養生の基本であ、ゴールでもある。


自然法爾

野口整体の仕事の範疇は存外広く、目的や対応する症状などは無限にある。やればやるほど「こっからここまで」という区切りが広がって収集がつかない。命というのは底が抜けてるんだな。それだから常に新鮮な気持ちでいられるのだが、結局は「その時その様に処せる」か否かで、仕事としては即興力の鍛錬がモノを言う。

だた一ついえることは「治す」ということだけは範疇の外だ。自ずから然(しか)るとかいて自然(じねん)と表すが、どういう状態の方が来てもひたすら「自然に帰す」だけである。

現代では身体の働きに任せきれずに、後天的にいろいろ手を加えたことで起きている身体の問題が数多く見受けられる。そのために「あたりまえの自然」ということが容易ではないのだ。

自然と言ってもただ放っておくことではなく、「身体の波を読み、その波に乗る」、こういう事が無理なく行えるようにするのが整体の目的である。技術面においても整体の要諦をまとめると「時を待つ、波に乗る」という、最終的にはこの二点に集約される。

愉気法、活元運動をしっかり行っていくことが、肉体を通して自然の波を感じる手がかりになる。ブログのタイトルは活元運動のすすめだが、最近活元運動をあまりすすめていなかったのでまずかったなと思った。

現代では精神的な豊かさが求めるひとが増えたが、すぐまた肉体的な豊かさを再考する時代が見えている。野口先生の代表作、『整体入門』は文明生活を見直そうというところから始まるのだが、現代からさかのぼって見た時に、どこからが文明生活なのかその境がわからない。

ただ、これからは自然と歩調を合わせて共生を願う時代に変わりつつある。まずは自分自身が静かに息することを修練して「整体」を体現して死にたい。最終的には「野口整体」というコトバすらも余計だろう。自然法爾といってもまだ余分な気がする。

美しく立つ

「野口整体ってなんですか?」と問われれば、今なら「自分の足で立つ」ための訓練法と答える。いろいろなご相談を受ける中で、苦しい身体の状態の方はいらっしゃるのだが、共通して思うのは足が弱いなぁということだ。足が弱いうちは「自立」できない。

これは物理的にも精神的にも言える。外から与えられた価値観や判断基準から自由になって純粋に、ただ立つこと。これが自立であり、また「野生」であると思う。

都心で生活していると人間の野生というのが全くどこかへいってしまった様に見える。野生というと無秩序、混沌を連想される方がいるかもしれないが、雑草の一葉、雪の結晶ひとつとっても「自然」の中には途切れることなく神的な美と秩序が充満しているのだ。一節には絶滅期のアンモナイトは殻の渦巻き模様が無残に崩れていたという。たとえどれほど適応能力があって、食物連鎖の頂点に立つような強靭な種であっても、美を欠いたものは淘汰されていくのが自然の法則のようだ。美は是非善悪を越えた概念なのだ。

整体指導で最終的に求めていくのはこの美の感性である。こんな話は腰痛を治したい方にとっては二束三文の価値もないかも知れないが、腰が痛い人の動作は美しくないのだ。そして正しく動けばそこに美が生じ、痛みは消えるようになっている。痛いというのはそっちへ行ってはいけないよ、という天地自然からの知らせなのだ。そういうものを痛み止めでどうこう、骨盤矯正でどうこうというのは迷妄した現代的審美眼から脱しきれていない、ということなのだ。

心気体の三つが均しく整った交点にこそ美があり、そこに初めて普遍性を持った健康が姿を現す。現代医学とは異るタオイズム的な生命観を感得すれば、現代人の精神的・経済的行き詰まりは氷が解けるように解消されることだろう。

ところがこの「道」を歩む者は少ないないのが実状である。巷で「野口整体」といっても根本の固定概念は再編せずに、いいとこ取りの亜流をたしなむ様なものが多いのだ。それはそれで一定の有用性はあるのだろうが、その程度ならわざわざ生涯懸けてやるようなものではないと思うのである。美という普遍的生命力の追求なくして、整体の存在意義は保てないのだ。

股関節

最近『股関節』に的を絞って整体の仕事をしていたのですが、(的を絞るのも変なのですが)ここのくるいを正すと大抵の体の問題は解決するような気がします。

そういえば真向法という健康法がありますが、これは股関節の周辺の筋を四方から伸ばすやり方です。

整体指導の中にストレッチや筋力トレ―ニングを積極的に取り得れていこうと思う昨今なのです。少しは鍛えないと、という考え方にシフトしてきたんだ。(^-^)