美しく立つ

「野口整体ってなんですか?」と問われれば、今なら「自分の足で立つ」ための訓練法と答える。いろいろなご相談を受ける中で、苦しい身体の状態の方はいらっしゃるのだが、共通して思うのは足が弱いなぁということだ。足が弱いうちは「自立」できない。

これは物理的にも精神的にも言える。外から与えられた価値観や判断基準から自由になって純粋に、ただ立つこと。これが自立であり、また「野生」であると思う。

都心で生活していると人間の野生というのが全くどこかへいってしまった様に見える。野生というと無秩序、混沌を連想される方がいるかもしれないが、雑草の一葉、雪の結晶ひとつとっても「自然」の中には途切れることなく神的な美と秩序が充満しているのだ。一節には絶滅期のアンモナイトは殻の渦巻き模様が無残に崩れていたという。たとえどれほど適応能力があって、食物連鎖の頂点に立つような強靭な種であっても、美を欠いたものは淘汰されていくのが自然の法則のようだ。美は是非善悪を越えた概念なのだ。

整体指導で最終的に求めていくのはこの美の感性である。こんな話は腰痛を治したい方にとっては二束三文の価値もないかも知れないが、腰が痛い人の動作は美しくないのだ。そして正しく動けばそこに美が生じ、痛みは消えるようになっている。痛いというのはそっちへ行ってはいけないよ、という天地自然からの知らせなのだ。そういうものを痛み止めでどうこう、骨盤矯正でどうこうというのは迷妄した現代的審美眼から脱しきれていない、ということなのだ。

心気体の三つが均しく整った交点にこそ美があり、そこに初めて普遍性を持った健康が姿を現す。現代医学とは異るタオイズム的な生命観を感得すれば、現代人の精神的・経済的行き詰まりは氷が解けるように解消されることだろう。

ところがこの「道」を歩む者は少ないないのが実状である。巷で「野口整体」といっても根本の固定概念は再編せずに、いいとこ取りの亜流をたしなむ様なものが多いのだ。それはそれで一定の有用性はあるのだろうが、その程度ならわざわざ生涯懸けてやるようなものではないと思うのである。美という普遍的生命力の追求なくして、整体の存在意義は保てないのだ。