エレファントシンドローム

むかし習っていた空手の先生が「人間の体力の限界は想念の遥か彼方にある」という言葉をよく話されていた。

道場には選手クラスのための強化練習というのがあって、インターバルトレーニングでミット打ちを延々延々繰り返すのだ。一回、一回、全力を振り絞り、今までの限界を突き破る勢いでやるので途中から酸欠になり意識が遠のいてくる。

そこで「もう駄目だ・・・」と思ったらとたんに目の前が暗くなって動けなくなる。(失神してる人もいたな・・)だが「まだぜんぜん動ける!」と思うと体はその瞬間に透明になって、重さがまったく消えたことがあった。今にして思うと天国に近かったのかもしれないが、「気力」というのを実感した瞬間であった。

ここまで極端でなくても気を集めると今まで到底できなかったようなこともやれてしまうし、気が散るとさして大変でないことも途中で投げ出してしまう。

そもそも気力というものの正体とは・・、「気って何?」と考えさせられる事例だった。

それからもう一つ先生から聞いた話で、インドのゾウ使いは子ゾウのうちに首輪を付けてヒモの先を竹に縛り付けるそうなのだ。そうすると大人のゾウならまだしも子ゾウの力ではガッチリ根を張った竹は抜けない。

そのまま大人になると竹を引き抜く力が付いてももはや引っ張る気力すら起きなくなって、やがて無気力状態になるという。こうなると人間がそのヒモの先を棒切れに巻いて地面にプスッとさしてるだけでじっとおとなしくしている、というちょっとぞっとする話であった。

事実かどうかはわからないが、人間の精神についても思い浮かべられるのだ。世の中には目に見えない縄で自分をがんじからめにして身動きが取れなくなっていることが存外多いのだ。

この見えない縄の正体をつかみ出して、相手にその「思い込み」が消えるような言葉をかけることは整体の技術の大事な所だ。

つまり思考が固い人というのは身体のあちこちにコリがある。股間節なんかも堅くて歩幅が狭くなっている。ちょっとしたことでもマイナスの方向に思いつめると表情が硬くなってくるし、そして表情筋がこわばると逆に良い思考も生まれない。

こんな風に怒ればコル、ゆるせばユルむの通りで身体をユルめていくと、物質的な行き詰まりから脱して建設的な選択肢が見えてくるものである。

いわば身体の稼動域 イコール人生の稼動域と言っていい。整体やボディーワークが流行っている要因も心理的な問題に端を発しているのだ。

活元運動もやる前は得体が知れないけれど熟練者の愉気で誘導してしっかり運動が出るようになってくれば、何のためにやるのかというような質問はおのずとなくなる。終わったときの精神と肉体のあり方がそのまま答えになるからだ。

力は生きてるうちに使い果たすべきなのだ。一日一日、全力発揮こそが生きていることの醍醐味である。それこそが生んでくれた親と、命を持たしてくれている大自然への恩返しになる。「限界」は思考が生み出した嘘なのである。そもそも「存在」というは最初っから底が抜けているのだ。悟りはいつだって努力と無縁の「気づき」の中にある。