しそ

今年もせい氣院の前にシソが植えられました。

僕がこのシソのアパートに住み始めたのは今から5年位前です。

シソは大家さんが植えるんですけど、毎年毎年ぐいぐいわさわさ育ちます。いつも僕の手のひらくらいにはなります。

そうすると道行く人に「ずいぶん立派なシソですね~」とかって聞かれます。

僕「あ~、そうですね~」って言います。

道行く人「どうやったらこんなに大きく育つんですか~?」

僕「わからないです~」

って会話が夏になると家の軒先で必ず1~2回は起こります。

ときどき一枚もらってきざんで横濱屋で買ってきたお刺身と一緒に食べるとしゃりしゃりハリがあって美味しいです。

個人的には植物を育てるって整体の技術に通じるなーって思っています。それは基本的に「待つ」という作業だから。

肥料を与える。日に当たる位置に鉢を移す。寒風から守る。水をひかえる、あげる。でどうなるの?という「経過」を待つ。この「待つ」が全ての技術にセットになってついてきます。

整体でも加えた刺激がどう作用するのか?を慎重に観察して予測してから手を付ける。

やりすぎても駄目だし、かといって野放図でもない。

生きてるものには「気」というか波動があるので、その気を読むということが技術の始まりだし、それが全てでもあるって、そんな感じです。

先日植えたアサガオも、(これは自分で植えました)今まるまるもりもり伸びてます。あの黒い種がどうやって周りの水と養分を吸って、こんなに緑のものが伸びて、赤とか青とかの花を付けるのか。そして実を結んで自分のコピーを淡々と作り続けるのか。

この宇宙の法則というか地球のルールはその始まりと終わりがぼんやりしていてよくわからない。

何故生きているのかわからない。何故死ぬのかもわからない。ただ今生きているということは事実だし、死ぬということもほぼ間違いないんだね。あれ、なんでこんな話になったんだ。

今年は初めてシソの成長にも関心が沸いてきたんです。真剣に観てるとやっぱり生き物だから面白さがあるんですよね。

化膿活点

昨日の庭仕事のあとで夜中に猛烈な痒みにうなされた。毛虫の被害だ。ガーデニングではよくあることらしいのだが、その辺りはまったく無知だったため無防備であった。慣れた方々は暑い日でも長袖を来て土いじりをしている理由がようやくわかった。

虫に刺された時はどうするか?と訊かれれば、まず皮膚科に行くことをお勧めする。自分の場合は研究心から化膿活点という虫刺されの急所を確認したのだが。化膿活点は二の腕の外側にある、別称は上肢第六調律点という。自分の化膿活点はどういうわけか普段はわかりにくいのだが、昨夜はここぞとばかりにゴリゴリに腫れている。昔の人はよくこんな処を見つけたものだと感心した。

化膿した時、毒虫にされた時―化膿活点―

20160611

虫に刺された時、クラゲやオコゼなど毒をもったのに刺された時や、釘などをふみ抜いた時、生爪など化膿を警戒する必要のある怪我などに使うと効果があります。上の写真の場所(上膊部)にコリコリができるから押さえればいい。これは自分で簡単にできます。

ただ、その前に、刺された場処、怪我をした場処の血を、できるだけしぼり捨てること。こうすると、血液と一緒に毒素も洗い流されるからです、愉気をしておくとなおよいが、腫れたのなら、もう心配ない。(野口晴哉著 『整体入門』 ちくま文庫 p.183)

生理学的に説明すれば、いわゆるリンパの流れを司る処だ。操法がきちっとあたれば、細菌の退治やウィルスへの抗体作りを助勢する。普段的には「むくみ」の解消にも使える処でもある。

一節にはマムシに咬まれた時でもここを押さえて助かったという記録まで残っているのだから凄まじい。ただし昔の人の生命力や野生の強さが土台にあることを見逃すことはできない。現代人は絶対にマネをしてはいけない話だ。

季節がら多少需要のある技術と思うので、今月の活元会では化膿活点の稽古をしておこうと思う。

生き物を観る目

先日、開業以来軒先を守っていたカポックの植え替えをしたら立ち枯れしてしまいました。

土が合わなかったのか、肥料をあげすぎたのか、カポちゃんゴメン・・・

植物って受身だから与えすぎたり弄りすぎるとその影響は簡単には抜けないんですね。草花の観察ができてお世話がちゃんとできたら整体ももっと上達すると思うな。

前に雪国もやしの社長さんが舞茸の栽培室で繁殖具合が変になったときに、湿度・温度・光の加減、何が悪いのか見た瞬間に見破って即座にリカバリーさせていたのをテレビで観て「おぉ!」と思った。

生き物を観る目は、直感9割:理論が1割、パッと観た瞬間に「アレッ・・変じゃん?」と解るところが勘の勘たるゆえん。これって生きてく技術の中で一番大事な所だと思うんだけど、今一番衰退している能力な気もします。

そんなわけで、カポちゃんのいなくなった後には大きな尺鉢だけが残りどうしたものか・・・。考えた末ふつーにお花を植えることにしました。夏だし・・

島忠へ自転車こぎこぎ行くと、朝顔の苗がまるまるモリモリ並んでいたので3株買って、

ヨセヨセ植え植え・・・ゴソゴソ・・・・・・

ふぅーー

そして・・・

できた!こんな感じに↓
野口整体 活元運動のすすめ

7月から8月くらいに花をつけるって書いてある。

楽しみー

毎年家の前にはシソが群生するんだけど(大家さんが上手なので)、今年はどうなるのかな???とりあえず僕は明日から朝顔の成長を見守る。

1株だけ元気がなかったので愉気を当ててみる。
野口整体 活元運動のすすめ
ありがとーう。

治さない

いつかの記事に治療はしない、と書いたらやっぱりお客さんに質問されました。

「治さないで仕事になるんですか?」と。

それはそうですよね。

でも、

「治さない」ですよ。

「治さない」

人間てのは、治らない、治るわけがないんです。

このことが潜在意識に入ってないから、ちょっと身体になにかあると、さーっと不安になってしまうのです。

生まれたから、死ぬんです。

生・老・病・死ですから。

生きているということは、老いと病気と死が必ずあるんです。

骨折だって、「全治何ヶ月・・」とか「治りました。」とかって言ってるけど、「折れた」という事実はちゃんと身体は覚えてるし、消えない。

それは身体にとっての経験で、「学び」です。

自分の場合は、21の時に左足の前十字靱帯を切ってるんです。

で、そのすぐ後に右足の腓側も折ってる。

今なら「何でそんなことになったのか」っていう「原因」がわかってるんです。でも当時は、何がなんだかわからないんです。

ただ偶発的な怪我だと思ってる。でも身体に起こることには全部ちゃんとした「理由」があります。

その時で言えば、「腰が捻れていた」のです。

何故か。

それは、

その当時、

生かされてただけで、生きていなかったから。

 

魂の要求と、肉体の行動がズレると、身体がよじれる。

だから、軌道修正のために「痛む」。

それで、痛みを通して「気づいて」良くなってく。

 

痛みを通して「気づいて」良くなってく。

だから、

「痛い」ときが良くなってるとき、。

お墓の下に行ったら、もうどこも痛くなくなるんですよ。

 

それで、

「苦しい」ときが、成長してるときです。

苦しいうちはまだまだ生きていけるです。

自動車は、タイヤと地面の間に摩擦抵抗があるから走れる。

飛行機は向かい風がある時の方が離陸しやすい。

 

だから、

悩んでるときが進歩のとき。

 

迷ってるとき、その反対側では静かに「決意」が育ってる。

それで、

苦しいときが、

「幸せ」なんですね。

今なら、

心底そう思えます。

余白

久しぶりにブログの更新をしたらなんと4月は一回も投稿なしでした。

最近は獲得したり保有することよりも「断・捨・離」のよう持たざる技術・捨てる技術が見直されているみたいです。このことは「有」だけがすべてではなくて、「無」ということの価値が再認識されてきたということだと思います。

野口先生の奥様、昭子さんの著作『時計の歌』は最初、「余白」という項からはじまるのですが、この余白という言葉は物理的な意味と形而上的な意味の両方を含んでいて感慨深い。

20代の頃、習っていた油絵の先生に「セザンヌの塗り残し」ということを教わったのですが、内容としては絵の中に敢えて筆を入れずにカンバス地の露出した箇処を作ることで絵全体に「深み」や「奥行き」を出すという、確かそういうお話だったと思います。歳を取って整体を始めて、今そのことが何故か幽かな色合いを具えて思い出されてきた。

この塗り残しという感性は西洋的にはセンセーショナルなのかもしれないけど、僕としては当初からどこか懐かしいというか、温かくて親しみやすい感覚があった。今にして思うとそれは少し日本的な側面があるからかもしれない。

例えば日本の「書」という世界は墨の「黒」と余白の「白」の均衡から生まれる世界だから、書くところと書かざるところが自ずからせめぎ合い、拮抗し、そこから醸し出されてくる「抑制の美」というものがある。それは陰と陽の共生空間であって、東洋的あるいは日本的とはこういうものではないかと思う。

そういう「余白」というものが僕が生きてきた30年あまりの間にも、欧米化の波にもまれる中でずいぶん生活から削り取られてきたような気がする。その影響は子供を取り巻く環境も例外ではないみたいだ。

昔のTV番組やおもちゃのコマーシャルなんかを思い返すと、僕が小さかった頃はまだ大人たちが子供に夢を持たせるように、限られた予算の中で創意工夫をして一生懸命努力をしてくれていたと思う。

例えばドラクエの制作メンバーのすぎやまこういちさんがかつて、「今のお母さんが子供に一番いう叱言は「早くしなさい」です。だから、ドラクエは一度「立ち止まって考える」ということを学べるゲームにしたい。」という主旨のことを言っていた。

この話からも単に「売れればいい」ということではなく「売れないと困るけど、買った人(子供たち)のためにもなるモノを作りたい」という姿勢が見えてきてちょこっとほっとします。

今はケータイゲームやポータブルゲームなどをみていても「子供」はもはや単なるターゲットだし、イチ消費者として淡々と扱われている気がしてちょっといたたまれない。課金製などいうシステムは法律には準じていても道義的に疑念が沸くようなものもあって、何とも言い知れない「冷ややか」さがただよう。

そういう意味では今は大人が大人気ないし、余裕がない、というか「貧しい」という気持ちにすらなってくる。

会社に体力が無ければ新入社員を育てられないように、子供の成長には大人の「待つ」という行為が不可欠であって、それには相応の「体力」が必要となってくる。

この「待つ」ということは整体のあらゆる技術の要諦でもあるし、いわゆる「余白」に相当するものだと思うのです。実は何もしないで待つということには洗練された「気力」や「体力」が求められるし、それは心の問題といえる。

心の問題といった時、整体ではそれは即、身体の問題なのです。「待てない」、というのは辛抱、心の許容であると同時に腰の可動性が焦点になってくる。その腰を作るのは足であって、その足が弱ってきているのが因果の根本であると思う。

そういう意味では足が萎えてきているという事実は表面に見えてる現象よりも社会に落としている影は重く、その根は深い。

足と股関節、骨盤は一つの流れの中にあって、その骨盤は呼吸器の急所であり、生殖器でもあります。だから骨盤の状態というのは個においても集団においても生命の存続に直結する。

つまり骨盤が固いということは即ち呼吸が浅いということ。喉元で浅く呼吸をしているような身体が当たり前になってくれば、自ずと忍耐力は失われるし生活から余白は消えていく。

もっと歩きましょう、といっても歩けないのが今の多くの人の現状ですけど、実際は本人の意欲と工夫次第ではないでしょうか。

余白を味わえるようになると生活には自然と豊かさが見つけられます。生活に豊かがあるということは身体がそれだけ豊かであって敏感であるということ。整体もやり方次第で社会貢献につながりますね。きっと。

潜在意識教育入門

押入れに積んであった野口晴哉先生の『潜在意識教育』 を最近読み始めた。

まだ途中だけど、「空想は独創への道」という項が読み応えがあって面白い。

―模倣を育てるもの―

どうしてこう偽者が多いのであろう。日本人には本当に独創性がないのだろうか。

という件りがあって・・・

「今あるものは全て先に空想があった」、とも言う。

それは例えば、「コップ」というものを作るのでも「鉱物の中の硝子を熱して器状にしたら綺麗じゃないか?」という「空想」が最初にあったから今こんなにいっぱいあるわけで・・。

そんなこと当たり前でしょ、とかって言ってるけれどもこの「ゼロからイチを作れるかどうか?」に人間存在の価値がある。と、そういうことを言っているんではないか。

じゃあ、その空想する力って何ですか?って言ったときに空想力・創造力・独創力というのはみんな「身体能力」なんだよ、っていうのが野口整体だ。

野口整体は心の学問だけど、心理や精神的な話の中にあって、どこまで行っても身体を離れることはない。それはどこをとっても「体は即心」であるし、「心と体を繋ぐ気」の学問とも言える。

「原発」も余所の国の模倣だから、その実態を全体的に掴めていなかった点が不覚だった。どういう利便性と危険性があるのかということがいまいち判らないまま使っていたということだろ思う。

「じゃぁ原子力がなくなったらどうするんですか?」と心配になる人もいると思うけど、方法はいくらでもあるはずなのだ。例えば、「富士山に登る」んでもいろんなルートがある訳です。でも最初はルートが無かった。そこに一人が道を見つけて、そのたった一つの道に慣れ過ぎていたというだけでしょう?一つのルートに頼りっきりだったから開拓する愉しみを忘れているだけなんでしょう。

でも本当は、人間は新しいこと考えるのが一番楽しいはずなのだ。

そう考えると今の日本の行き詰まり感の発端は、模倣に頼り過ぎたことから始まったわけだし、また身体感覚の衰退に端を発しているといってもいい。

敗戦そのものよりもその後で腰骨、骨盤が弱まり、その結果「空想する力」が虚しくなったことがこの民族にとっては一番の損害である。

そういう時代の流れの中で地震と津波で原子力発電所が損壊したことは私には「偶然」とは思えない。何か成長の糧となりうる出来事なする。この世界は「強い種が残るのではなく、柔軟に変化できる種が生き残る」というのはダーウィンの論である。執らわれがなければ変化というのは愉しいものだ。

この世に真の「教育」というものがあるのなら、先ず子供の空想力を汚さない、潰さないというのが第一義的に守られなければならないのだ。

人の身体から空想したり夢を見る力がなくなったときに、本当の意味でこの人間の世の中は終わるんじゃないだろうか。

民族の強さって煎じ詰めればこの空想力だし、すなわちそれは腰、骨盤の弾力と一枚であるということだ。農耕で鍛えた腰肚文化が零戦もウォークマンも作ったのである。

がんばろうというカラ念仏だけではでは容易にコトは運ばないんだけど、もう一度、神話の世界から国興しをする気で「よいしょー!よいしょー!!」とやればいくらでもいい世の中になっていく気がするのだ。今の日本には何よりそういう空想力が大事だと、そんなことを思い起こした。直地点は潜在識教育の話ではなくなった。

愉氣

世間が脱原発の波に揺れる中、あっひーは脱電子レンジしてました。

電子レンジ完全離脱して早2ヶ月。

そしてご飯の冷凍解凍がサクサク出来なくなったので、買っちゃった。

圧力釜!!!(島忠で特売2,000円)

圧力釜!!!

あっひーんちは玄米なので毎回毎回電子ジャーだと炊くのに時間がかかるのです・・。

これで自炊力もアップ!女子力もアップアップ!!(笑)

電力消費量も減ったので社会に貢献してる感もアップ!(^-^)

今日は、むかし野口先生の愉気を受けていたという80歳のおばあちゃんがお越しになられました。

野口先生に会ったことがある人は異口同音に言われますが・・・、大勢の会員を前に講義をしていても一人ひとりの心を見てくれている、そんな温かいオーラに溢れた人だったらしい。

そして、「あの、眼」が忘れられないって・・。

仏教で徳を表す言葉に「慈眼」というのがあります。

野口先生は眼からも、そして身体全体から人を癒すオーラや愉気があふれていたんじゃないかなって思います。

僕は先生がこの世を去った(昭和51年)の翌年に生まれました。

野口先生は今生では会えなかった想像の中の人なので、この道の古い方からお話を聞くと熱くなってしまうんです。^^;

僕はいってみればマゴデシ、第3世代。

そして野口整体が真の光を放つのは300~500年くらい後だと思う。

野口整体の愉気は、自分を貧しくすることなく、人を利することができる世界。

力まず、たゆまず、自分の出来ることをこつこつがんばります。

やったる。

複合体癖について

最近指導室ではピアノの伴奏 をかけています。流行りのヒーリング系の音楽なんだけど当たり障りなくて使いやすいですね。

野口整体の愛好者はパブロ・カザルスのチェロを聞く人が多いのです。野口先生が敬愛した奏者だから。わたしの場合は一人で聞いてると気分が重たくなってくるのであんまり聞かないな。同じチェロならヨーヨー・マの方が好きだ。9種と3種の違いかも。

わたしの体癖は3種がベースでそこに9種が混ざっている。左右型の体に9種の質。捻じれも結構ある。

だから偏り疲労を起こすと骨盤がしまったきびしくなる。だから急に周辺の空気がおも苦しくなるのだ。

3種・9種の複合体癖の特徴は・・・

・甘え方が非常に見事で、サッと泣ける。何か困ったことがあるとサッと涙を流してしまう。

・今笑っていても、次の瞬間にはサッと泣ける。そしてそれが通ると、機嫌のいい笑いがまたスパッと出てくる。

・9種というのは、種族保存の本能で動いているし、3種は自己保存の本能で動く。これが一体になっている3・9種は、ノリと勢いだけで生きているようなもの。

・本能の感覚が鋭い。

ということで、わたしなどは周りにはよく迷惑をかけている気がします‥。すいません。

ちなみにモーツァルトも3種・9種らしいです。9種の体つきの中に左右的な感性がある、という。

『アマデウス』という映画がありましたけどモーツァルトのイメージはこの映画の印象が一番濃いから、それとはちょっとイメージと違うかなあ。

おそらくはあんなに映画みたいにガヤガヤした人ではなかったと思う。「子供っぽい」、とか「甘えん坊」というのはあったかもしれないけど。

音調が柔らかいのと一曲の中にちゃんとした縦糸がある。これが9種的な纏まり方ではないだろうか。

基本的にお父さんに愛された人なんだと思う。お母さんも優しかったのではないだろうか。なんとなくだけど曲を聴いていると、世の中に対する恐れみたいなものを感じさせないから安心する。

体癖は一生ものだから変わらないのだけれども成長はする。

時間はかかるかもしれないけれど、自分を育てて体癖うまく使いこなせるように頑張ります。

復興するつもりあるのですか…

復興するつもりあるのですか…被災中学生が直言」

凄まじいね。子供の心って真っ直ぐだ。余計なものがくっついてないから・・・。

子供はみんな神さまの子だ。大人の方便もズルさも直感で見抜いてしまう。子供の頃はそういう大人の嘘に何度も傷つけられて、がっかりしてきたのに、自分が大きくなると平気で同じことをやったりするから不思議だ。

変な手出しをしないで信じて待てば、優しい心を持った大人に育つのに。

子供の心を社会の都合に合わせて型おしするのはこの上なく迷惑な話だ。

街では「復興」を謳っている。

人間の体において言えば「こわれている」ということは反対からみれば、「治っている、治りつつある」ということだ。

これは「国」においても同じだ。

欧米列強の圧力という国難があったから明治維新があったわけだし、敗戦もまた然りで国難の後には必ずといって良いほど飛躍的な発展がある。

艱難辛苦、汝を玉にす。

明治維新は南から起こったが、平成維新は北から興るかもしれない。

今、強い人間が育ちつつある。

「俺が一人でもやってやる」「俺が行って何とかしてやる」ってみんながなればいいんよね。

自分さえ豊かになればいい、食べていければいい、という時代はもう終わった。

これからは「人間」を見直す時代だ。身体性に帰る時が来たのだと思う。

腰から日本を立て直す。そんな中で野口整体は心強い。

ただ、子供達のこういう自由な発言が許される国であることはすばらしいね、日本

人生がときめく体癖の魔法

(※今日は体癖の記事です。よくわからない人は体癖のウィキ もチェックしてくださいね)

ベストセラー本にめっぽう疎い私ですが、愛車のJR横浜線に乗るたびに広告でみてた本を見っけたのでつい買ってしまった。

それが・・・これ↓

人生がときめく片づけの魔法

帯には著者の写真が載っていました。アイドルみたい。。そして・・・5種だね。

野口整体 活元運動のすすめ-こんまりさん
「一度習えば、二度と散らからない」
の人↑すごいわ

1種の首に5種のストレートヘアと肩がくっついてる。はーこれは「片づく」ね。

5種は行動的で合理性を重んじる。そして整理整頓が得意です。そして本の中に書かれていた試験勉強の前に机の周りを片付けから始まるのも5種の典型的行動として挙げられます。

体癖は個性。これを活かして生きると、本人にとってこれほど有意義なことはない。こちらの例を言えば、人の家まで行ってお部屋を整理整頓してあげる、というのが職業になるわけですよね。「らしさ」を追求すると自分の得意技で人助けができるんだから。これって本人並びに周りもハッピーです。

体癖論は動物占いや血液型とは違います。自分をよく知っていくことで良い人間関係を追求すことができる人間理解の雛型です。

今日はこの「人生がときめく…」の本を片手に片付け物をしてみた。捨てるもの、あるわー。。。大のゴミ袋で2袋、紙ゴミも2袋、本とCDは7~80点はあるな~・・・今度の休みにブックオフに来てもらおう。

部屋が片付いてすっきりしたところでカレーを作った。(作りすぎた。)

明日のせい氣院はほのかなカレーの香りに包まれてるかもしれない。ごめんね~。

野口整体 活元運動のすすめ-カレー
この直後スプーンが落下したけど畳は無事。片づけで運気も上がってる?

じゃまたー。