余白

久しぶりにブログの更新をしたらなんと4月は一回も投稿なしでした。

最近は獲得したり保有することよりも「断・捨・離」のよう持たざる技術・捨てる技術が見直されているみたいです。このことは「有」だけがすべてではなくて、「無」ということの価値が再認識されてきたということだと思います。

野口先生の奥様、昭子さんの著作『時計の歌』は最初、「余白」という項からはじまるのですが、この余白という言葉は物理的な意味と形而上的な意味の両方を含んでいて感慨深い。

20代の頃、習っていた油絵の先生に「セザンヌの塗り残し」ということを教わったのですが、内容としては絵の中に敢えて筆を入れずにカンバス地の露出した箇処を作ることで絵全体に「深み」や「奥行き」を出すという、確かそういうお話だったと思います。歳を取って整体を始めて、今そのことが何故か幽かな色合いを具えて思い出されてきた。

この塗り残しという感性は西洋的にはセンセーショナルなのかもしれないけど、僕としては当初からどこか懐かしいというか、温かくて親しみやすい感覚があった。今にして思うとそれは少し日本的な側面があるからかもしれない。

例えば日本の「書」という世界は墨の「黒」と余白の「白」の均衡から生まれる世界だから、書くところと書かざるところが自ずからせめぎ合い、拮抗し、そこから醸し出されてくる「抑制の美」というものがある。それは陰と陽の共生空間であって、東洋的あるいは日本的とはこういうものではないかと思う。

そういう「余白」というものが僕が生きてきた30年あまりの間にも、欧米化の波にもまれる中でずいぶん生活から削り取られてきたような気がする。その影響は子供を取り巻く環境も例外ではないみたいだ。

昔のTV番組やおもちゃのコマーシャルなんかを思い返すと、僕が小さかった頃はまだ大人たちが子供に夢を持たせるように、限られた予算の中で創意工夫をして一生懸命努力をしてくれていたと思う。

例えばドラクエの制作メンバーのすぎやまこういちさんがかつて、「今のお母さんが子供に一番いう叱言は「早くしなさい」です。だから、ドラクエは一度「立ち止まって考える」ということを学べるゲームにしたい。」という主旨のことを言っていた。

この話からも単に「売れればいい」ということではなく「売れないと困るけど、買った人(子供たち)のためにもなるモノを作りたい」という姿勢が見えてきてちょこっとほっとします。

今はケータイゲームやポータブルゲームなどをみていても「子供」はもはや単なるターゲットだし、イチ消費者として淡々と扱われている気がしてちょっといたたまれない。課金製などいうシステムは法律には準じていても道義的に疑念が沸くようなものもあって、何とも言い知れない「冷ややか」さがただよう。

そういう意味では今は大人が大人気ないし、余裕がない、というか「貧しい」という気持ちにすらなってくる。

会社に体力が無ければ新入社員を育てられないように、子供の成長には大人の「待つ」という行為が不可欠であって、それには相応の「体力」が必要となってくる。

この「待つ」ということは整体のあらゆる技術の要諦でもあるし、いわゆる「余白」に相当するものだと思うのです。実は何もしないで待つということには洗練された「気力」や「体力」が求められるし、それは心の問題といえる。

心の問題といった時、整体ではそれは即、身体の問題なのです。「待てない」、というのは辛抱、心の許容であると同時に腰の可動性が焦点になってくる。その腰を作るのは足であって、その足が弱ってきているのが因果の根本であると思う。

そういう意味では足が萎えてきているという事実は表面に見えてる現象よりも社会に落としている影は重く、その根は深い。

足と股関節、骨盤は一つの流れの中にあって、その骨盤は呼吸器の急所であり、生殖器でもあります。だから骨盤の状態というのは個においても集団においても生命の存続に直結する。

つまり骨盤が固いということは即ち呼吸が浅いということ。喉元で浅く呼吸をしているような身体が当たり前になってくれば、自ずと忍耐力は失われるし生活から余白は消えていく。

もっと歩きましょう、といっても歩けないのが今の多くの人の現状ですけど、実際は本人の意欲と工夫次第ではないでしょうか。

余白を味わえるようになると生活には自然と豊かさが見つけられます。生活に豊かがあるということは身体がそれだけ豊かであって敏感であるということ。整体もやり方次第で社会貢献につながりますね。きっと。