押入れに積んであった野口晴哉先生の『潜在意識教育』 を最近読み始めた。
まだ途中だけど、「空想は独創への道」という項が読み応えがあって面白い。
―模倣を育てるもの―
どうしてこう偽者が多いのであろう。日本人には本当に独創性がないのだろうか。
という件りがあって・・・
「今あるものは全て先に空想があった」、とも言う。
それは例えば、「コップ」というものを作るのでも「鉱物の中の硝子を熱して器状にしたら綺麗じゃないか?」という「空想」が最初にあったから今こんなにいっぱいあるわけで・・。
そんなこと当たり前でしょ、とかって言ってるけれどもこの「ゼロからイチを作れるかどうか?」に人間存在の価値がある。と、そういうことを言っているんではないか。
じゃあ、その空想する力って何ですか?って言ったときに空想力・創造力・独創力というのはみんな「身体能力」なんだよ、っていうのが野口整体だ。
野口整体は心の学問だけど、心理や精神的な話の中にあって、どこまで行っても身体を離れることはない。それはどこをとっても「体は即心」であるし、「心と体を繋ぐ気」の学問とも言える。
「原発」も余所の国の模倣だから、その実態を全体的に掴めていなかった点が不覚だった。どういう利便性と危険性があるのかということがいまいち判らないまま使っていたということだろ思う。
「じゃぁ原子力がなくなったらどうするんですか?」と心配になる人もいると思うけど、方法はいくらでもあるはずなのだ。例えば、「富士山に登る」んでもいろんなルートがある訳です。でも最初はルートが無かった。そこに一人が道を見つけて、そのたった一つの道に慣れ過ぎていたというだけでしょう?一つのルートに頼りっきりだったから開拓する愉しみを忘れているだけなんでしょう。
でも本当は、人間は新しいこと考えるのが一番楽しいはずなのだ。
そう考えると今の日本の行き詰まり感の発端は、模倣に頼り過ぎたことから始まったわけだし、また身体感覚の衰退に端を発しているといってもいい。
敗戦そのものよりもその後で腰骨、骨盤が弱まり、その結果「空想する力」が虚しくなったことがこの民族にとっては一番の損害である。
そういう時代の流れの中で地震と津波で原子力発電所が損壊したことは私には「偶然」とは思えない。何か成長の糧となりうる出来事なする。この世界は「強い種が残るのではなく、柔軟に変化できる種が生き残る」というのはダーウィンの論である。執らわれがなければ変化というのは愉しいものだ。
この世に真の「教育」というものがあるのなら、先ず子供の空想力を汚さない、潰さないというのが第一義的に守られなければならないのだ。
人の身体から空想したり夢を見る力がなくなったときに、本当の意味でこの人間の世の中は終わるんじゃないだろうか。
民族の強さって煎じ詰めればこの空想力だし、すなわちそれは腰、骨盤の弾力と一枚であるということだ。農耕で鍛えた腰肚文化が零戦もウォークマンも作ったのである。
がんばろうというカラ念仏だけではでは容易にコトは運ばないんだけど、もう一度、神話の世界から国興しをする気で「よいしょー!よいしょー!!」とやればいくらでもいい世の中になっていく気がするのだ。今の日本には何よりそういう空想力が大事だと、そんなことを思い起こした。直地点は潜在識教育の話ではなくなった。