キャリア

気がついたら開業8年という微妙なキャリアになった。

これが10年になると「ぉー」という感じもするけれど、さりとてフレッシュなわけでもなく、自分としてはどっちつかずな感じがする。

それはそれとして、8年やってわかったのは人間が治るのに要する歳月である。

それこそケースバイケースなのだが、それでも「この人だったら3年くらいでこうなるかな」、「この人は1年くらいはこうで、4年くらいで大体こうなってくればいいか」という、いわゆる「見立て」のようなものができるようになった。

実はこの見立てはハズれてもいい。

技術は絶対に外してはいけないけれども、見立ての方は外れたら外れたなりに経験値として次にいかせるのでそれ以上は気に病むようなことはない。

だいたい心の問題に気づいてから治癒に要する平均的な期間は3、4年、‥くらいではないかと思う。

これは「3年経ったら治る」という話ではなく、3年目くらいから自身の心の問題の概要とか全体像が見えてくるのである。

全体像が俯瞰で見えるようになってきたら、そこからようやく「その人なりの生き方」が始まっていくのだ。

物事は何でもそうだが「何故そうなったのか?」という原因が正確に捉えられたら、八割がた解決したも同然である。

ただし、こと心の問題となるとそうすぐには直視できないようなものもあるし、複雑でもあるので解読にはそれなりに時間も要する。

いわゆる、そういう「含み」を自分の中に持ってクライエントさんと時間を供にできるようになったのは、僅かばかりでもキャリアを積ませていただいたおかげかと思う。

野口先生は「この道は20年かかる」とおっしゃっていたそうなので、12年後どんな世界が見えるのかはわからないけれども、現時点としてはまずまず‥なのかもしれない。

ただし変な余裕は禁物である。整体の要諦は「機・度・間」と表すけれども、意訳すれば「機会・度合い・間合い」である。このうち、機会と間合いはタイミングに関する言葉である。

悠長に構えて「ここぞ」という時を見逃すようなことがあってはならない。一回一回がきちっと充実しているんだけれども、一方で指導の押しつけはいけない。

例えはよくないかもしれないが、ちょうど畑で野菜を育てるような感覚に近いのではないか。

肥料や水やりは分量とタイミングが命である。それだけ気を集め、手を懸ける一方で、じっと成長を待つ息の長さが必要だ。

兎も角、そういう生命に触れるものとしての時間感覚を少しずつ肌で感じ、沁みついて来たのは最近のことではないかと思う。

そうはいいつつも竿頭進歩の項で書いたように、「道」に到達点などない。今日は今日のひと足を踏みしめて、一歩をあゆむのみである。

ちょうど井戸に雪でも放り込むように、キャリアは積んで、積んでは忘れる。これの繰り返しが自分を大きくすると、今は信じている。

生きがい

1年ほど前だろうか。たまたまバスで乗り合わせた女性と世間話に花が咲いた。

脳溢血で若くして亡くなった恋人の借金を5年にわたって返し続けているという、なかなか数奇な人生を聞かせていただいた

現象だけをみれば決して笑えるような話ではないのだが、その方があまりに充実した笑みをたたえながら自分の境遇を話されるのでつよく印象に残ったのである。

お話をずっと聞いていると、その男性とは長く付き合ったが結婚したわけではないので、法律的には借金の肩代わりをする必要はないそうなのだ。

その方が言われるには「気持ちがわるいから」返している、との由。

少し考えてみれば想像がつくけれども、その借金は恋人との「つながり」としてその人の人生に大きな意味を持っている。

その借金が無くなってしまうということは、この世界の中でその女性はぽつんと一人生きているような心境になってしまうのかもしれない。

「借金を返す」ということが一つの生きがいとしてそこにある、という風に考えてみると、人間というのは大なり小なり何らかの不足を埋めようとすることでどうにか生きているようにも思えてくる。

不平とか不満、欠乏は生活に活力を与える燃料なのかもしれない。全てが満たされた生活というのは、やはりどこかたるんでくる。

幸福とか不幸という二分法で人生を考え出すといくらでもむずかしく考えることはできるが、今日を元気よく生きることだけが人間の本分であることにまちがいはない。

逞しさも強さもあるに越したことはないが、どれも「元気がある」ということには及ばない。

元気があれば、悲しみも欠乏も生きがいに変えることができる‥のかもしれない。

元気を出そう。今日あるかぎり。

軸とか体幹、そしてインナーマッスル、そういうものが注目されて久しい。

この辺が弱ってしまうと、骨盤の位置は下にさがっていくるし、お尻は重く感じる。その分だけ動作もおっくうになる。

いつも書いているけれども、現代は座り仕事の人はほとんど身体を動かさない生活になる。

筋力の中でも胴体の中心側が弱ってしまうと、まず呼吸が浅くなるし姿勢も保てない。

軸感覚というのが希薄になってしまうのである(現代は最初からない人が多いけれども‥)。

だからこそ体幹トレーニングなるものの需要があるのだが、整体をやっていくとそういう物理的な軸とは別の軸があるような気がしてくる。

うまく表現できないけれども、精神の軸とでもいうような目に見えない気の線のようなものが生じれば、その整体操法はまずまずの成果が上がったと思う。

非常に観念的なんだけれども、そういう時には操法を受けた人の中にも「うん、これだ」という目に見えない合意が感じ取れる。

物理的な中心軸だけにこだわるならば、世の中には腰の曲がったおばあさんもいれば側彎症の人もいるわけで、こういう人たちに軸を形成することはあきらめねばならない。

ところがやってみると、生きている人間には平等の「何か」、人を選ばない根源の力があることがわかってくる。

言ってみれば「たましいの力」とでもいうか、生命そのものに見えない無限の力が備わっているようだ。

これが活性化するときに、腰椎が立ち身体に気の柱のようなものが立ち昇ってくる。

無論、物理的な体勢も無視はできないのだけれど、それが全てではない。見えないものの中に大切な何かがある、という視点があるとそれだけでも自分の可能性を信じて成長を楽しめる気がするのだ。

苦境に直面した時に、状況よりも自分の身体を内観してみよう。はたしてそこに「生命の軸」は感じられるだろうか。

不登校

自分が小学生の頃はほぼ皆無だったが、現代は不登校児童の話を聞くことが増えた。

せい氣院には学校の先生もお見えになるので、少しだけその辺りの情報を漏れ聞くことができるけれども、言ってみれば一つの教室にそういう児童が一人以上いるのが当然という風潮である。

職業柄、興味のある分野でもあるし日々いろいろな方とお会いするので、何故そのような世相になっているのか自分なりに思いあたるフシもある。

実際、年に1、2回くらいはうちでも不登校にまつわるご相談をいただくこともあるけれども、何かそういうものを整体で治そうとか、どうにか学校に行くようにとか、そういう角度で取り組むことはまずない。

ただただ「その人」とそれを取り巻く環境の理解を深めようとするだけである。

野口整体では病気経過によって身心が調和を取り戻す、と捉えている。

一般医療においては病気を治そうとするけれども、整体法では「病気自体がすでに治るはたらきである」という視点でみる。

「不登校」という現象をこれに照らして考えると、「学校に行かない」ということでその人の内側で何か非常に重要な治癒反応が起きている、という見方ができるのである。

またそれ以前に、7歳から14歳くらいまでの子供が「学校に行きたくない」と訴えること自体が私には非常に純粋な感受性であり、自然な動きであると思えるのだ。

私からすれば多感な子供が「僕は何でこんなところに毎日毎日来なければならないのか‥?」と感じ、悩むのはむしろ「健全」だと思う。

逆に自分の内面にそういう疑問が沸いているのに、「学校はみんな行くものだから‥」と健気に社会規範に従うばかりでいるとしたら、むしろそちらの方が将来的に少し心配だ。

だとしたら学校に行かなくたって放っておけばいいのかというと無論そうではなくて、やはり周囲の大人は一定の関心を寄せて見守るべきなのだが。

いま世間に溢れている不登校の中で、私が直接的に触れた事例というのは非常に僅かなものではあるけれども、そういう場合どうも見ていると周囲の人たちが遠巻きになって指を咥えて見ているような印象を持つ。

一応セオリーのような対応策もあるらしく、例えば「学校に行け(来い)」と言ってはいけないというのもその一つのようだ。

しかし、ただただ「セオリー」に従がっていれば職業的義務を全うしていると思っている教育者もおられるようで、その点に関しては残念である。

もちろんそれはそれで間違いではないかもしれないが、私が見ていて思うのは自分自身の心の全体性でもって相手にピタッとぶつかっていける大人が少なくなったように見受けられる。

「ボクはこうなんだよ!」という言葉になる前の子供の胸の内を全身で受け止められるような、そういう「身体性」が発達していない。身体を観る職業的立場からこんな風に思えるのだ。

そいう意味で漠とした「さみしさ」を抱える児童は現代社会には一定にいるだろうし、一方で「ぶつかりかた」のわからない大人も苦しい面がある。

そういう問題に対して「整体指導」で何ができるのか、と考えると決して簡単なものではないけれど、いろいろな角度から貢献はできるのではないかと思ってはいる。

例えば野口整体には「愉気」という手当ての技術があるが、これなども皮膚感覚を通して対話を超えた相互理解の扉を開くためには非常に役に立つ。

やはり教育現場(に限らずだが)において「身体」ということがあまりに閑却されたり、忘れ去れていることが問題の根本のように思える。

ではその身体感覚をいかにして取り戻すかという視線の先はブラックボックスなのだが、自分の持ち場としてはまずお会いする一人ひとりの方と地道に向き合っていくのが正道かと思う。

回りくどいようだけれども、一人の心がみたされるということで得られる社会的な有益性は高い。

その心の豊かな一人を通じて、そのまた周囲の人たちが心の充実感を味わうことができるからである。

不登校というのは言わば心という広大な海の表面に現れた、一つの現象に過ぎない。その現象の下を流れる心の潮流を感じることができる高度な身体性を養うことが、解決の糸口であると私は思う。

食息動想

人間の健康を保つ上で「食息動想」の四つの概念を考えよう、という教えがある。

操体法という気持ち良さを基準にする施術を生み出した療法家、橋本敬三先生の思想である。

読んで字の如く食事と呼吸、そして動作、想念、これらの4つ全てが整うことではじめて身体が安定すという話で、言ってみれば四輪車のタイヤだと思えばいいだろう。

どれか一個でもパンクしていたら、他の3つが問題なくても車はまっすぐ走れないのである。

確かに言われてみれば当然だが、何もないところからこうまでシンプルに健康の真理をまとめられるかというとむずかしい。非常に聡明な方だと思う。

一方で、その一つ一つを具体的にどうしたらいいのか?と考えるとそこから先はブラックボックスだったりする。

「動作」に関しては操体法の施術でだいぶ説明がつくが、食事一つとっても何をどう食べたらいいのかというのはまったく未知である。

体に適うように飲み、食いすればもうそれでよいのだが、その「適う」ということのものさしが大事なのだ。

誰に訊けばいいのか、といえばそれは当然自分の身体に訊く以外にない。

そのように考えていくと、その身体の声が聞こえるような澄んだ意識の構えを作るのが整体の役目である。

理屈は簡潔だが、実現には正しき訓練がいる。活元運動はそのひな形ともいえる。

先に体が整えば食・息・動・想はみんな自然と正常になる。龍の絵に目を入れると天に舞うというが、整体は先に目を描いてあとは勝手に龍にしてしまおうという考え方なのだ。

方法と結果のベクトルが逆だが、整体も操体法も同じ真理を掴んでいたものと思われる。目指す山は一緒だけれども、登頂ルートはいろいろあるから面白い。

シャーマニズム

大学生のころ空手の指導員をやっていた。

スポーツライクな競技空手の道場だったが、以外にも中高年層の方々が健康保持の目的でよく入門してきたものである。

ある初老の男性が入門されて3ヶ月ほど経ったときに、病院でいつもの検査をしたら糖尿病の症状が消えていたという。さらに肝機能検査の数値も改善されていたと笑顔で報告をしてくださったのを覚えている。

お医者さんも「空手ってすごいですね」とおどろかれたそうだが、当時20歳そこそこの軽輩だった私は「へー‥、そんなものか」と思っていた。

しかし今からよく考えれば、これは大変な恩恵である。

整体の仕事をやってみてわかったが、デスクワークに就労される方は50代の半ばくらいになると身心にはいろいろな病気や問題が起こっている。

もちろん整体と活元運動だけで良くなる人は良くなるけれども、半年、一年と通ってもなかなか芳しい結果に至らない人がいるのも事実である。

この場合よく見受けられるのは、姿勢を保つ内側の筋肉がかなり退化していたり、身体を大きく動かす機会がないために慢性的に呼吸が浅くなっていたりする。

中には整体に通いながら「身体」に興味を持ち始めて、弓道や合気道を始められるような人がいるが、そうなると早晩整体には来られなくなる。

これはある意味で「自立した」とも言えるだろう。整体指導が実ったとも言えそうである。

巷では野口整体をボディワークの一環としてみる向きもあるようだが、それだけでは理解として不十分のように私には思える。

「整体」とは、心にも体にも偏りを持たない生命の全き状態である。その整体へと導いていくための「整体指導」というものは、ボディワークという領域を超えた、ライフコンサルタントとでも言った方がしっくりくる。

つまり身体を整え、精神の平衡を保つのは通過点であって、その人が自発的に動くこと、「何かやってみよう」という裡なる動きを揺す振り起こすことに主眼を置いているのだ。

人間というものはほんの少しだけ、心の角度を変えてやるとそこから全てか変わってくる。

今まで何をやるにもおっくうだったような人が、何かをはじめてみよう、身体を動かしてみよう、と思った時点でその人の自我意識は微量に崩壊して再構築されているのだ。

意識が変わりはじめると、その人を中心に人間関係から環境の全てを巻き込んで変容してくるから面白いものである。

これがいわゆるシンクロニシティ(共時性)というもので、これを人為とも無為ともつかない中間層で引き起こすのが整体の効用である。そして直接的には、何がそこにたらきかけるのかといえば「氣」なのだ。

孟子に「志は気の帥なり、気は体の充なり」という言葉があるけれども、これは最初に志を打ち立てることで気をリードして、気の具現体としての身体を引っ張っていくという理論である。

これとは逆に身体内の氣を揺す振り起こすことで、より高次の志を形成させる方へとフィードバックさせるのが整体指導の眼目とも言える。

「指導」という以上はどこかへ導いていかなくてはならない。その「どこか」というのは彼の生命の方が知っている。整体指導者はいのちの要求を汲み、それを身体上に表現するものである。

いわば生命に仕える仕事なので、これを神事といっても差支えはないように思う。あらゆる宗教的思想が科学に粉砕されつづける現代において、このようなシャーマニズムの原型ともいえる態度に立ち返るのも有効ではないだろうか。

セルフイメージ

数年前から「セルフイメージ」という言葉をよく耳にするようになった。「プラス思考」と同様にわかりやすいし、親しみやすいのかもしれない。

「セルフイメージさえ変われば健康も富も自在である」といったふれ込みのもと、セミナーや個人セッションをビジネスにしているケースもよく見かける。

しかし残念ながら少しばかり小銭をはたいたくらいで人間が変わるなど、そんな甘い話はないのである。

高額のセミナーに参加して何かが変わるとすればそれは貯金の残高くらいで、おそらくそこで味わえるのは一過性の高揚感ぐらいだろう。そんな「スバラシイ体験」など、薬か酒に酔っているような状態とさして変わらないのである。

人生において自身の内外で湧き起こる幾多の苦境を乗り越え、新たな自我を形成しながら生きていく道を歩むためには、質の高い志と情熱、そして一定の歳月を要する。

ユング心理学ではこの動きを「個性化の過程」と呼び、これこそが心理療法における至高の目的である、と唱導している。

個性化とはおよそ次のようなものである。

個人に内在する可能性を実現し、その自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程を、ユングは個性化の過程(individuation process)、あるいは自己実現(self-realization)の過程と呼び、人生の究極の目標と考えた。(河合隼雄著『ユング心理学入門』培風館 p.220)

上の引用を読むだけでもわかる人には解ると思うが、先ほども述べたように個性化の道は長く険しい。

それだけに一時的に特定の指導者やドグマ、集団に帰依して安息を得ることにも意味を見出すことはできるのである。

つまり大乗的な発想で、ちょうどバスや客船にでも乗ったような心持で他力に委ねていれば、スタートから道の半ばくらいまでは楽に歩を進めることができる。

しかし、「ある時期」が来たらそこを去らねばらない。

最終的に「自分のこと」というのは、いくら他人に訊ねてもわからない領域がある。

昔から人間の世の中には数々の英雄の冒険譚や宝探しの物語が語り継がれてきたが、これらのモチーフに象徴されるように、「個性化」や「自己実現」というのは大変な苦難の果てに得られる財宝のようなものと思ってもいいだろう。

そこに至るには、たった独りで真っ暗な無意識の海に挑んで行かねばならないのである。

言うなれば、孤独に耐えられない人間が「真の個性化を生きる」など夢のまた夢と思った方がよいだろう。

以上の理由から結論すると「セルフイメージ商法」にも存在意義はある、と言えばあるのだ。

ただしそこは「通過点」であることを弁えた上で、冷静な判断のもとに時間と費用を割くのが順当なのだが、なかなかそうは問屋が卸さないのが実状である。そこは相手もプロだ。

もっとも、「窮すれば変じ、変ずれば通ず」の古語に照らせば、人間が変わるために有効な事象とは先ず「困ること」、そして「痛い目をみること」である。

どんな人でも7、8回カスを掴まされる間には、だいたい「道」の概要が見えていくるものだ。

寄り道、回り道も個性化へとつづく一本道であるといえばそうなのである。警告のつもりで書き始めたが、ぬるい諦めのような着地点になってしまった。

これを読まれた方が「セルフイメージなんて、そう簡単には変わらない」ということだけご理解いただければ一応はよしとしようか。

呼吸

少し前に禅と瞑想関連の本が多いという記事を書いたが、調べてみると呼吸法の本も昔からたくさん出ている。

長い息で長生きというシャレもなかなか古いが、ある意味真理なのだろう。

しかし世界中に現存する呼吸法を一個一個実践していったら、人生がいくつあっても足らない。

個人的には活元運動の邪気の吐出法と、合気道の故・藤平光一さんが考案された気の呼吸法の2つが最もしっくりいった。

このいづれかを一ヵ月間、まじめに続ければ慢性疾患の半分はなくなると思っている。

しかしすべての健康法について言えるのは、信じて、続けることが鍵なのだ。

一番の難関は続けられるかどうかで、実はここが根の深いところである。

つまり習慣が変わるということは、心が変わる、変わったということで、これは革命的なことであって容易ではない。

試しに、瞑想でも呼吸法でも体操でもなんでもいい。今日はじめて、一年後もやっているものがあったらそれはかなり見事である。

見事というか、もしかしたらそういう努力は逆に変なところにヒズミがでているかもしれない。

どんな些細なことでも毎日毎日「何かをやり続ける」ということは、大変な精神力が要るものである。

そう考えると活元運動を月に一回程度、訓練として行なうというのは老若男女、人を選ばず有効だと思う。

活元運動はどんなにはげしい運動が出ても呼吸が乱れない、というのが大きな特徴である。

それだけ「自然」ということに近い、というか「自然そのもの」なのだろう。

意識的に呼吸を整えること以上に、無意識に呼吸が整う動作や身体性の実現を図る方が上質なのではないだろうか。

息吹き

この2週間ばかり昔習った空手の呼吸を毎日やっている。

「息吹き」という強圧の呼吸法なのでパッと見整体らしからぬ、という気もするけれど実は野口整体にも気合法という呼吸鍛錬法が伝承されいる。

これらの強式呼吸のたぐいは一様にして下腹、いわゆる丹田を中心に横隔膜による強力な圧がかかる。そのため肝臓や脾臓に滞留した血液が一呼吸ごとに全身を駆け巡ることになるのだ。

これにより血中酸素が増して、脳の活性化に伴い意識が刷新される。その結果それまでの混濁した現実認識も正される。これは仏教の八正道でいうところの正見だろう。

質の高い呼吸は瞬時に世界を変える力があるのだ。

もとより全身の余分な力が抜ければ体は整うのだが、こうした鍛錬はまた別次元として行なう価値がある。

整体指導を受けられる方にもお教えしたいけれども、なかなか指導の中だけで時間が取れないこともあるし、効果についても確証がないため今一つ踏み切れないでいる。

また、やり方を誤ればかえって体を毀すかもしれない。

前段階として先ずどなたにも安全に奨められるのは、活元運動の訓練で行なう「邪気の吐出法」を丁寧にやっていただくことだろう。

これなら初心の人も簡単に無理なく行えるし、血流の改善という点でも息吹きや気合法と同等かそれ以上の効果を望める。

兎にも角にも、行き詰りとは息詰まりなのである。深い呼吸を取り戻せば、世界はその場で変わるのだ。

排泄反応

ときどき変に仕事に馴れてしまって、初心の人に「反応」の説明をしなくなってしまう。そういう時に限ってひょっくり強い好転反応を示す方に出くわすから要注意である。

整体操法、活元運動をはじめて行なうとだいたい8割くらいの人が1ヶ月目から3ヶ月の間に反応を起こす。

熱が出たり下痢したりするくらいが定番だが、胆石のような体の中に異物があると場合によってはそれらを急激に体外に出そうとするのである。

『整体入門』からの引用を下に記しておく。

反応の経過で注意すべきこと

反応中は肌着は汚れるし、爪は伸びやすくなるし、ふけは多くなるし、傍へ行くと臭い。中には体内で石をつくっている人などはその溜めている石を、胆石でも、腎臓結石でも、膀胱結石でも、どんどん出してしまう。ただこのような反応期に石が出る場合には、固まりにならないで、臭い尿になることが多いが、ときどき気忙しい人がいて、胆石でも、あるいは膀胱の石まで、固まりのまま出すことがある。膀胱から大豆大の石が出たという人も、胆石で三十六個も出たという人もいました。またバケツに三杯ぐらい下痢をしたとか、鼻水が洗面器に一杯出たとかいろいろありますが、ともかく排泄反応まで来れば、もうよくなると安心できるのです。(野口晴哉著『整体入門』ちくま文庫 pp.65-66  太字は医引用者)

ここにある「固まりのまま出す」というのがどういうことを言っているのか具体的にはわからない。もし手術による摘出ならそう楽観視もできないんだが。

それから心臓ペースメーカーなどが入っている人も用心がいるだろう。こうした人工的な異物まで「排泄」の対象になるかもしれないので、そんな事情から現代はうかつには活元運動を勧められない面もある。

また女の人は生理の感じが変わるそうである。これも詳しいことは分からないけれども、おわったあとの爽快感を報告してくれる方が一定いらっしゃるので、これはこれでいいのかもしれない。

何にせよ反応、症状はそのものが即、治癒現象なのだ。こうした根本原理をよく理解してからでないと、「整体やって身体をこわした」なんて誤解を招きかねない。

もちろんプロならこうした説明責任は「もれなく」果たすべきだろう。このブログに書いた程度ではさしたる啓発効果も期待できまいが、自分への戒めとして書いてみた。