治癒の苦しみ

身体上の症状でも精神面の病においても、共通するのは「治る」という現象には「苦しみ」を伴う、ということだ。

病気の苦しさはわざわざ語るべくもないが、治療者が真に患者の治癒を手伝うときには、まずその現れている症状を100%肯定し、病みながらもつき進んでいく生命時間の「流れ」を妨げるものを取り除き、徹底してその経過を保護する必要がある。

本来はこのような行為を称して「治療」と呼ぶべきなのだが、一般的には当面の苦痛を人為的に取り去ることで、いわば経過を中断させることが「治療」として広く認知されている。

つまり治療という高度な観察眼と息の長い精神力が要求される生命の補助行為なのだ。ところが実際は場当たり的な治癒の妨害工作に成り下がっているのである。

不安で一杯になった頭を一度カラにし、自身の身体を無垢に感ずれば、治癒には相応の苦しみを伴うことはすぐに判るはずである。

また氣を静めて生命のリズムに身を任せれば、苦痛のもう一つ奥にある快をも感じられるようになる。

この辺りが修養のしどころで、個人差もあるが整体に親しむ生活をはじめてから、およそ3~4年は要すると思ったらいいだろう。

「自然に生きて自然に死ぬ」という生活の中に、快がなければ嘘である。しかしそれは苦痛を伴わない、という意味ではない。

「自然の快」とは苦、楽の対立を弁証法的に包括した絶対の「快」なのである。この快が生活上に現れるとき、身心は自然に整い、その全体で美を現しているはずだ。

再びユング自伝

ユングの自伝をまた読みはじめた。

個人的には子どもの頃のエピソードはなかなか読むのに苦労する。というか、まあ訳本なのでどうしても読みがぎこちなくなる。

それはそれとして、やっぱり青年期以降、それから独自の精神分析態度による治療理論を構築していくプロセスは圧巻である(自伝1のⅣ精神医学的活動のあたり)。

その当時、いわゆる「精神の病」というのは医師でも手が付けられないものだったらしい。昔の早発性痴呆(今でいう分裂病、統合失調症)はライ病患者と同様に、治療者とともに町はずれに隔離しておくしかなかったようである。

そう言えば、黒沢明の映画『赤ひげ』にも精神疾患の娘が離れの小屋に滞留させられていた。自然科学が未発達な時代にあっては、このような対応は致し方なかったのかもしれない(現代の「カガク」的な対応が良いとは決して思わないが‥)。

兎も角、そのようないわば常識やタブーに対して、はじめてユングという人物が斬り込んだ。心に深いこじれや偏りを抱えた人たちが訴える妄想や苦しみを一所懸命に聞いてみると、その病的な態度の裏にある本当の「理由」が明らかになって、治っていくのである。

それは革命的なことだったのだ。

それというのも苦しんでいる人を捨て置けない「いきさつ(=人生の物語)」がユングにはあったわけで、他者の治癒に関わることが自身にとってのやすらぎだったのではないかと思われる。

野口整体の野口晴哉先生はその圧倒的な技量と人徳ゆえに治療を求める人があとを絶たず、そのあまりの多忙さを見かねた周囲の人が「少しお休みになられては‥」と進言したところ、「僕が休まるのは苦しんでいる人に手を当てている時なんだ」と答えられたそうである。

人間の世の中には「支えているつもりが支えられている」ということはよくある話で、臨床においても治療者と患者の立場がときどき入れ替わりながら治療が瀬妙に進んで行くようなこともなくはないのである。

まあとにかく、ユングこそが人類の心の多重性を明らかにした立役者である。

一方で、「身体を媒体として意識に切り込んでいく」という点で方法こそ異なるが、野口整体も人間の潜在意識を重視した点は一緒である。

いずれにせよ治癒の鍵となるのは、どれだけ深く患者に「関われるか」だろう。

それには治療者自身が自分の心の真底まで降りていく勇気と訓練は欠かせない。

こんなことを書いていたら、20年前、自分の通っていた大学の学部長(文学部)が講義の最中にぽつりといった一言を思い出した。

「人間が一番深い」

限りある時間の中で、どこまでその深さに踏み入って行けるだろうか。

自分とは何か。

達磨大師は「お前は誰か!」と詰め寄った武帝に対して、「不識(知らない)」と言い切ったが、その判り切れない自分の中にいつだって無限の広がりがある。

自分が何者か、

これを知らずに死んでいくのはまこと惜しいことである。

禅、瞑想、活元運動などを日課とし、意識を閉じて無心に聴く訓練の必要をくり返し説くのもこのためだ。

古来から多くの宗教家が心の世界を独自の主観を磨くことで明らかにしてきたが、ユングも近現代における貴重な心の導き手の一人であることは間違いない。

整体指導は「整体」とは違う

先日「整体師」の方たちとお話する機会があったのだが、改めて自分の学んできた世界とは違うのだなあと、しみじみ思った。

ご承知の方も多いと思うけれど、野口整体が「整体を行なう」というときは整体指導のことを指している。よってカテゴリーとしては「医療」ではなく「教育」になる。

これはルドルフ・シュタイナーという哲学者が明らかにした見解とまったく同じであり、治療技術の究極は健康に生きるための教育となる、という態度である。

だからどうしても同じ「整体」という言葉を介してやり取りをしていると、話が食い違う。

かたや手技療法や治療技術に関心がある、こちらは人間の心をいかに導くかという身体を介した心理技法に照準を絞っている。

だから初回のクライエントと話をするにしても、ここのところを最初に明らかにしてからでないと、同じ土俵に上がって仕事ができない、ということになる。

例えば、この辺りのことに関連する野口先生の講義録を引用すると、

<整体指導法とは>

整体指導法とは、人間の体の中にある元気を呼び起すための技術であります。だから、当然、技術の面から着手するべきでありますが、整体指導というのは技術以前の問題が非常に多いのであります。そして、むしろ技術以前に重要な面が多いのです。

最近は、整体すれば人間は丈夫になり、元気になるということは一般にも知られてまいりました。しかし、整体すれば丈夫になる、元気になるということだけでは、整体指導の目標が達せられたといはいえないのであって、誰もが元気に生きる力を持っているという自分の体の構造を自覚し、その力を発揮するように心掛ける人を一人でも多くすることがその目的なのでありますから、人にやってもらって丈夫になるということではないのであります。…

…それには、一人一人が自分の生きている力を自覚する。自覚してそれを発揮するように誘導していくことが本当だと気がつきまして、治療術という面を全部捨てたのであります。体力を発揮できるように体を整えてゆく。そうすると自然に丈夫になるし、病気があっても自然に経過してしまうし、お産をする人は痛まずに産める。だからと言って、それを目的とするわけではなく、ただ人間の自然の構造に沿って、その持っている力を発揮するというだけのことであります。だから、整体が、丈夫になり、元気になるということだけに使われるのは本当ではなくて、誰もが元気になり、丈夫になる力を各々が持っているのだから、それを自覚して発揮しようではないか、その筋道として整体があるというように伝えなければならないと考えたのでありますが、近頃はそのように伝えられるようになり、そのように動き出しております。…

一人一人が自分の裡なる生命の精妙な働きを自覚し発揮すれば、人の力を借りないでも丈夫になれるのです。これが整体の考え方であります。(野口晴哉著『整体法の基礎』全生社 pp.3-6 太字は引用者)

と、以上のように簡潔に述べられている。

ただし、「一人一人が自分の裡なる生命の精妙な働きを自覚し発揮すれば、人の力を借りないでも丈夫になれる」ということが非常にさらっと綴られているけれども、ここにまた乗り越えていくべき壁がいくつもあるのだ。

身体の精妙な働きを見えなくしているのが潜在意識に入り込んだ観念である。現代人は物心つく前から病院の世話になり、一日生活すれば薬の宣伝を目にしないことはない。

何より、自分を育ててきた保護者や養育者に科学的医療に対する寄り掛かりの生命観がべったりと沁みついている。これが微に入り細に渡って、のべつ潜在する記憶の蔵へアクセスして、自然生命に対する不信感を放り込んできたのだ。

また医療に関する考え方だけではない。

例えば子供でも7、8才にもなれば自分自身に対する見方、いわゆるセルフイメージというものも大枠が確立されている。このような意識の下層部に潜在する自分や世界に関する固定された観念が、いつどのような病気になりどう経過するのか、そしていつどのような人に会いどのように対応するのか、ひいてはどう生きてどう死ぬのかまでを暗に決定づけているのである。

よって「病気」や「ケガ」という表層部の現象に踊らされているうちは誤魔化しの治療ごっこはできても、その根本で煽動している漠とした潜在観念を打ち消さないかぎり、何度でも同じように表層の心を病み、同じように身体をこわす。

潜在意識教育の必要を説くのもこのためであり、これを必要に応じて打ち消すことが整体指導者の務めである。

ここでまた「整体指導さえ」受ければ、容易に健康になれるのかと思われそうだが、ここにもやはり分厚い壁がある。自分を形作っている潜在観念というものが非常に堅固なのである。

またそうでなければ社会的立場や家庭を保ちつづけることは不可能である。よってそういう強固に守られている自我意識を、整体指導という枠の中で微量な刺戟を用いて崩壊させていく。

つまり人為的、他動的に自我崩壊を誘発するのだ。つまり治癒のための破壊である。これによって潜在意識を微量に変性させることで顕在意識の再構築が図られるのだ。

おおむねこのような理論に基づく技法体系によって、はじめて根元的な「治療」という技術を考え、施すことができのである。

いってみれば、世にいう治療とは着眼が異なる。

人間が背負いこむ問題の9割は、この着眼さえ正せば解決したも同然である。これも潜在意識教育の範疇であるが、「いかにして」心の在り様を変えるか、というところに技術がある。技術とはいっても、その本質は「人間力」なのだが。

ただこれだけの説明でも「巷の整体」とは大分異なることはおわかりいただけるのではないだろうか。このブログの常連の方にとっては退屈な内容かもしれないが、こういうことをご存じでない方のほうが世の中には圧倒的に多いことをわたし自身もよく忘れてしまう。

そういう意味で町の「整体師さん」とお話しできたことは新鮮な刺戟になった。定期的に原点回帰して、初心の方に野口法の整体に親しんでいただけるように心掛けようと心を新たにした次第である。

 

聖にあらず、俗にもあらず

野口整体というのは奇想の健康哲学だと思われるフシがある。

しかし、少し落ち着いた心でその本質を見つめてみれば、きわめて順当な生命観であることがわかるはずだ。

釈迦の悟りも達磨の廓然無聖も、俗を離れて聖を説くようなものではない。

俗世の真っただ中に聖を見出し、その瞬間にいずれも忘じて無を徹見した境をあらわしている。

病気が治ったから健康なのではない。病気の中にすでに健康の動きがある。

古人は既にこれを天行健と表したが、天行健もまた知識ではない。

自らの体験によって獲得しなければ、いかに真理といえど真理たり得ず。冷暖自知の心を知り、自らの体験を超える世界は何処にもないことを知るべきである。

身体即世界である。

身体(からだ)、それはつまり、空(から)だ。

もとより聖にあらず、俗にもあらず。

身心自然に整えば、霧は晴れ、最初に見ていた世界が現前する。

迷ったのは世界ではない。

自分自身である。

物を追うことを止め、直ちに身を整える可し。

これこそが聖俗を超え、真理に目覚める妙法である。

サンダーロード

整体は「たましい」に取り組む道だ。身体が整うことで生活の中にいのちの要求が現れる。

結局のところ病症が平癒するのも、たましいへと通じる無意識の扉を開くからである。

裡の要求に従がい、心に滞ることなく行動し、生命を全うする。

「言うは易く、行うは難し」なのだが。

分析心理学のユングが自身の中に生きるもう一人の人格に「No.2」と名付けたものは、たましいの具現者としての第二の「わたし」のことではないか。

整体の場合は「裡の要求」という表現がよく使われる。

裡の声を聴き 裡の声に従がえ 外の声に惑わされるな いつも裡の声の聞こえる心に生きていなければならぬ 外の声に耳を傾け 心を騒がしていると 裡の声は聞こえない ただ裡の声に生きていることだけが生きるものの歩む自然の道だ 迷うことはない

斯くの如く生きるものだけに生命は輝くのだ(野口晴哉著『風晴明語2』全生社 p.71)

裡といったり、たましいといったり、No.2といったりいろいろだが、つまるところ「私」の中にはわたしの知らない誰かがいるのは間違いないようである。またフロイトはそれのことを、「es(それ)」といった。

「それ」とのつながりを保ちながら、なおかつ「それ」に支配されず、適度な距離を測りながら中道を生きる態度のことを、「敬虔」と、こう呼ぶのではないかとわたしは思う。

自分で自分に惑わされてはいけない。

自然生命に生きることを望むものは、いつも自身の活動の照準を自己の中心に合わすべきである。

坐禅や活元運動なども、意識を一時的に休止させるための方便なのだ。

己を大事に思う気持ちがあるのなら、日に一度、自分を離れて、「いのち」そのものになろう。

自分を救うものは、「いのち」をおいて他にないのである。

人はただ、生きるべきだ。

これより他に道はない。

生類憐みの令

若者からはオジサンと呼ばれ、年長者からは若輩としてご叱正をいただく、私も不惑である。

そんなどっちつかずの微妙な齢を迎えたせいか、生来薄情だったワタクシでも近頃は少しばかり人情を感じるようになった、と思う。

具体的にはお会いする方々の日々頑張る姿に、敬意と慈しみの念を自然と抱くようになった。

たしか数学の岡潔先生の『春宵十話』に書いてあったと思うが、フランスの言い回しで「彼(彼女)はまだ、ものの憐れのわかる年ではない」というのがあるそうだ。

若さとは、ある種の「粗さ」を意味するのかもしれない。

20~30代は自分自身に対して鞭打つように生きていたせいか、人に対しても厳しかった。お客さんに対しても怒ってばかりいた気がする。

中にはそれが棒喝となって発奮材料になった人もいたかもしれないが、迷惑千万、要らぬお世話が過ぎたかもしれないと今になって反省もする。

とにかく、

人間、生きていればそれだけで立派である。

週5日会社に行くことも偉業だし、結婚することも子育ても、独身でありつづけることも素晴らしい。

ところが最近では、そんな程度のことはアタリマエで、自分はもっともっと頑張らねば立派でもなければ幸せでもないと思っている人のなんと多いことか。

人は何もそんな飛び抜けたことをしなくてもイイのである。普通のことを6~7割のレベルで日々行えば、それなりの糧を得られるし、人様のお役にも十分立てるはずではないか。

なんにせよ近頃は何故かはわからないが、いのちに対する憐憫ともとれる情が沸きやすい。

まさか死が近いわけでもなかろうが‥。まあ、わかりませんが。トイイツツ((。。))禁点をゴソゴソ‥

ともかく人間に関していえば、どんなに愛そうと憎くもうと100年経ったらあなたも私もこの世にはいない。それだけが確かなことである。

そうなのだから、やっぱり「いのち」はお互いに大事にすべきだ。

お互いに元気を与えあって、供に生きていくことを学ぶべきだと、やっとそう思えるようになってきた。

 

晴耕雨読

自分の整体は晴耕雨読を理想にしているのかもしれない。

平たく言えば「自然には逆らえない」ということだ。

自然にさからうと同じつよさで抵抗してくる。

逆らうことをやめると、自然は味方になる。

これほどつよい味方はないだろう。

健康も丈夫も、長い訓練と努力の果てにようやくそうなるのではない。

視点を変えればそこに健康は現れるのだ。

むりしないほうがいい

この仕事をして、つくづく無理は禁物だと思うようになった。

いわゆる「病気」というのはみんな無理がたたったものだが、じゃあ無理ってなんだろうと考えると、その定義はなかなか多様になりそうだ。

私が思うに「自分に対する背き」、これが無理である。

本当はこうしたい、だけどそうできないのが世の中だ。

だからどうしても自分の本心良心に背いた言動が求められるのが実社会の常で、これがいわゆるタテマエ社会である。

心理学で「ペルソナ(仮面)」といわれるものはこのタテマエが複数あわさって形成されている。いわばその人が演じることを強いられている社会的な役割のことだ。このペルソナがなければ世の中は大変なことになってしまう。

たとえば警察官が誰も見ていないからと言って信号無視をしたら職務怠慢になってしまう。

あるいは医師が自分の嫌いな患者に対して治療を拒否することだって、道義的にも職業的義務の観点からゆるされない。

だからタテマエとかペルソナがしっかり働いているからこそ、社会秩序が一定に保たれているといえばそうなのだ。

こう考えていくと「無理をしない」ということは、そういうタテマエ・ペルソナを破って放縦になるということになる。

それではまずいではないか、と思われるかも知れないがこれが案外そうでもない。

それがいわゆる「趣味」とか「道楽」という枠組みの中で行なわれていれば大きな問題はないのである。

いわゆる「羽目を外す」ということもそうだが、いつも固い枠の中で生活している人が時間と場所を区切って、普段は行えない動きをすることは精神衛生上たいへん有益なのだ。

ところがペルソナの強い人というのも世の中にはいるもので、そういう人は1日24時間、1年365日、立場を離れても強固な仮面をかぶったままの生活をしている。

一般には先ほど挙げた警官のような固い職業の場合はそのような傾向になりやすい。他には教師、医師、それから宗教家など、いわゆる「善」に偏りやすい立場にある人は注意が必要である。

ガンとか肝硬変のような身体が冷たく、固くなる病気になるときは仮面のしたの素顔(本心)を忘れていることが多い。

そして病院ではレントゲンやMRIに心は写らないために、こうした心理的な多層構造はすべて無視されたまま、投薬その他の「科学的」治療が施されるのが常なのだ。

これで「治りますか?」と問われれば、理屈の上から言えば「治らない」はずなのに案外治っているところが人間の複雑性を物語っている。

これは病症体験によって自身のこれまでの生活態度や生き死にに対する価値観を更新したためである。言い変えれば病症体験を通じて「改心」される人が一定にいるからだ、と私は考えている。

見方を変えれば、そこまで生死のキワに追い詰められなければ変われないのが人間のかなしい性(さが)とも言えるだろう。

できれば軽度のうちに自分本音に耳を傾けて、仮面の下にも新鮮な風を入れてやることが望ましいことがわかるはずだ。

一方で、実は自分の素顔に気づくことにもリスクはともなう。

具体的には、今まで確立してきた社会的立場を危うくしたり、家族のパワーバランスがくずれたり、といったことが多いけれども、生きている以上はこういう「ゆらぎ」が絶えず(できれば小規模に)行なわれて日々新しい自我意識を保ちつづけることが求められているのだ。

頑なな心は「固定的」にはなるけれども、それは「安定的」という状態からは遠ざかる。

雨垂れは石に穴をあけ、海水は岸壁をも削る。しかし水が破壊されることはない。概して固いものは短命であり、やわらかいものには永続性がある。

よって心の中にも水のような自在な流れがあれば、喜怒哀楽を流転しながらも身体の弾力は自然に保たれる。

これは逆もまた真であり、身体を柔らかく保てば精神にもそのゆるみは波及するのだ。

これは精神身体現象、身体精神現象と呼ばれるもので、身と心は不即不離なのである。

いずれにせよ、心にも体に過剰な無理をかければ自我意識の達成感と引き換えに、命を縮めることにはなるだろう。

与えられた命を如何にすべきかはそれこそ個人の自由であるが、経験上、自分にも人にも「ムリ」はすすめられなくなった。

ペルソナを強化させるのが世の「教育者」の務めなら、ペルソナの拘束をゆるめて、からだの自然に身を任せる時間を提供するのが私の「反・社会的」な役割りである。

マジメな人もそうでない人も、ときどきは仮面をはずして、自分の素顔に新鮮な空気を吸わせてあげたいと願っている。

快剣掃雲

人間にはおよそ7歳くらいまでに、大きく方向づけられた観念がある、と思う。

それは意識の底に潜在する、その人なりの価値観といってもいい。

その観念が身体を形成し、その形成された身体がその身体に適う生活を生み、一日一日と、独自の人生を創造していく。

もしもその生活に美しさがないとすれば、それは身体の偏りを意味し、またそれは潜在する観念が心の自然を覆っていることを意味する。

整体操法は、そういう自然の美を覆い隠している雲のような観念を払拭することが本義である。

いわば神道における祓いや清めに類する行為と私には思える。

これはまぎれもなく宗教である。

確か七田眞の著書『いかに生きるか』だったと思うが、真の学問が「学校」にないように、真の信仰も「教団」にはない、というような主旨の内容が綴られていたと思う。

ここまで言い切ってしまうと問題があるのかもしれないが、さりとて真っ向からこれを全否定もできないのではないだろうか。

整体は宗教団体ではないが、いのちに対し至高の礼を尽くす行為である以上、ある種の崇高さを備えたものであるべきだろう。

なんであれ、方向づけられた観念を消失せしめることができれば、ほどなくして、たましいの輝きがその生活に現れる。

この明快な理論とはうらはらに、その実現となるとそれこそ羊が針の穴を通るよりも難しいものである。

たましいの救済は容易ではない。

それだけに全生命を賭して取り組む価値があるとも言える。

先達の歩んだ「道」はまぎれもなくそこにあるのだから、少なくともその踏みあとを消さないように歩むことが残された者の務めだと思っている。

後に続く人を迷わせないようにすることが最低限のお役目だろう。

風に吹かれて

整体とは、身体を整えてよりよく生きる教育である。

こう言うと何かわかったような気になるけれども、「よく生きる」ということを深く考えてみると、個人個人で思い描く理想はずいぶんと異なるのではないだろうか。

人によっては、いわゆるアメリカンドリームの影響をにおわせるような、幸福と富の追求こそが「よく生きる」だと思われる方もいるかもしれない。

これは資本主義社会における一種の宿命なのかもしれない。例えば自己啓発セミナーなどで扇動するステレオタイプの自己実現なども、場当たり的にこの手の目標を掲げていることが多い。自分を変えれば(経済的に)豊かになれる、ということだ。

あるいは「潜在意識さえ」うまくコントロールできれば、人生の難局を巧緻に斬り抜けられる、という触れこみのワークもよく見かける。

ところが「よく生きる」とか「自己実現」というのは、「今の自分」が考えつくような目標内に到底おさまるような世界ではない。

本当は、今の自分が掴んでいる「自分らしきもの」、そういう捨てきれない自分というものを抱えて離せずにいるから不自由しているのである。

そんな自分を一回カラにして、「今の、自分自身と環境」から裸一貫で再出発し、そこから動きだせば、無形の力が出るものである。

こういう態度は俗にいう「努力」などとは真逆の精神である。

自然界を広く見渡してみても、努力などという愚かなことをしているのは人間だけである。

あるのは氣の集注と分散、亢まりと消沈だけである。

氣の集散を自在に行う術を修ることだけが、真に己(おのれ)の生を躍動させるのだ。

ところが何を聞いても学んでも、どうしても昨日までの自分を大切にして、そうして踏ん張って頑張って「よく生きよう」とする人もいるが、こういう努力はすればするほど悟りからは遠ざかるようなのだ。

実際問題、こんな風にして「自分を無くす」というのはなかなかに難しいものである。

大抵は「意識的」な努力に疲れ果て、ぼんやり、うっかりしたときに、「ナーンダこうすればよかったんだ‥」などという気づきは訪れる。

実はこれこそが潜在意識や無意識に自我がアクセスした状態である。

その結果どうなるかというと、それまで思い描いていた「よく生きる」とは似ても似つかない別世界を生きはじめたりするから、心というのは深遠かつ玄妙なものである。

道元禅師の『普勧坐禅儀』に「毫釐も差あれば、天地懸に隔たり(ごうりもさあれば てんちはるかにへだたり)」という表現があるように、せっかく野口整体に触れたって、ほんの少し着眼と理解を誤れば、もうそれだけで「整体」という生き方を確立する道を自ら閉ざすことになる。

いわゆる坐忘、忙中にもポカンとすることの必要を説くのもこのためといえる。人生には道草も回り道も必要だが、正道を歩むにはコツがある。

それは意識を閉じて無意識の扉を開くことに尽きる。

本来の自己(無意識)は、常に外界に向けて実現しようと意識の水面下で活動しつづけている。その活動を自助するはたらきの一つが活元運動であり、禅はその働きを一語であらわす言葉である。

禅や瞑想、活元運動といった、これらに取り組まなくたって自己実現は誰にも止められないのだが、自身の無意識に耳をかさず、自己に対し余分な抵抗を重ねればそれだけその人は人生をこじらせてしまうだろう。

自然に生きて自然に死ぬ、たったこれだけのことが人間にはまこと至難なのである。

整体という、身体をよりしろとして深層意識へ取り組む術は、人が最後に行きつく、たましいへ通じる正道でもある。

どんな時も身体が全てを宿し、教え、導いてくれる。澱みなく、滞ることなく、流れつづける身体のリズムに全てをゆだねるとき、いのちは至高の輝き放つ。

今日の風を感じ、今の光を迎え入れ、一刻一刻、流れゆくいのちを実現させて生きよう。