人間にはおよそ7歳くらいまでに、大きく方向づけられた観念がある、と思う。
それは意識の底に潜在する、その人なりの価値観といってもいい。
その観念が身体を形成し、その形成された身体がその身体に適う生活を生み、一日一日と、独自の人生を創造していく。
もしもその生活に美しさがないとすれば、それは身体の偏りを意味し、またそれは潜在する観念が心の自然を覆っていることを意味する。
整体操法は、そういう自然の美を覆い隠している雲のような観念を払拭することが本義である。
いわば神道における祓いや清めに類する行為と私には思える。
これはまぎれもなく宗教である。
確か七田眞の著書『いかに生きるか』だったと思うが、真の学問が「学校」にないように、真の信仰も「教団」にはない、というような主旨の内容が綴られていたと思う。
ここまで言い切ってしまうと問題があるのかもしれないが、さりとて真っ向からこれを全否定もできないのではないだろうか。
整体は宗教団体ではないが、いのちに対し至高の礼を尽くす行為である以上、ある種の崇高さを備えたものであるべきだろう。
なんであれ、方向づけられた観念を消失せしめることができれば、ほどなくして、たましいの輝きがその生活に現れる。
この明快な理論とはうらはらに、その実現となるとそれこそ羊が針の穴を通るよりも難しいものである。
たましいの救済は容易ではない。
それだけに全生命を賭して取り組む価値があるとも言える。
先達の歩んだ「道」はまぎれもなくそこにあるのだから、少なくともその踏みあとを消さないように歩むことが残された者の務めだと思っている。
後に続く人を迷わせないようにすることが最低限のお役目だろう。