治癒の苦しみ

身体上の症状でも精神面の病においても、共通するのは「治る」という現象には「苦しみ」を伴う、ということだ。

病気の苦しさはわざわざ語るべくもないが、治療者が真に患者の治癒を手伝うときには、まずその現れている症状を100%肯定し、病みながらもつき進んでいく生命時間の「流れ」を妨げるものを取り除き、徹底してその経過を保護する必要がある。

本来はこのような行為を称して「治療」と呼ぶべきなのだが、一般的には当面の苦痛を人為的に取り去ることで、いわば経過を中断させることが「治療」として広く認知されている。

つまり治療という高度な観察眼と息の長い精神力が要求される生命の補助行為なのだ。ところが実際は場当たり的な治癒の妨害工作に成り下がっているのである。

不安で一杯になった頭を一度カラにし、自身の身体を無垢に感ずれば、治癒には相応の苦しみを伴うことはすぐに判るはずである。

また氣を静めて生命のリズムに身を任せれば、苦痛のもう一つ奥にある快をも感じられるようになる。

この辺りが修養のしどころで、個人差もあるが整体に親しむ生活をはじめてから、およそ3~4年は要すると思ったらいいだろう。

「自然に生きて自然に死ぬ」という生活の中に、快がなければ嘘である。しかしそれは苦痛を伴わない、という意味ではない。

「自然の快」とは苦、楽の対立を弁証法的に包括した絶対の「快」なのである。この快が生活上に現れるとき、身心は自然に整い、その全体で美を現しているはずだ。